シャワー
「つめたっ」
お湯が出てくるのを待って使えとの忠告は果たして、乾いた少女には無理な命令だった。
少女は雨でもなく、汗でもなく、涙でもなく、綺麗な水が欲しかったのだ。
この姿で生活するようになってから幾分建つが、なにより衣食住の重要さを身に染みて感じる日々だった。日を追うごとに身体は街に汚され、路地裏で見つけたぼろぼろの外套は自分の身を護るには薄く弱すぎた。なにより命を繋ぎ止める食料に困窮し倒れたのが一週間前。
そう思うと、現在の状況は大きな進歩と言えよう。
「あっ、あったかくなった」
時間が経ち、シャワーの水がお湯に変わると、こびりついていた汚れが一気に流れ落ちてゆくのがわかった。黒髪の先から胸の丘陵を伝い、やがて足先へ。堆積されていたほこりや泥、垢が排水口に吸い込まれるのを見て、ようやく「人間」らしさを取り戻せたと安心した。
心配だった右太腿の付け根は、今のところ痛まなそうだ。いただいた湯を使いすぎるのも申し訳ないので、一度全身にお湯を巡らせてからシャワーを止め、置いてあった石鹸でさらに自身を磨き上げた。やはりシャワーをくぐらせるだけでは全て落ちきっていなかったようで、真っ白だった泡がたちまち土の色へ染まった。
どれだけ汚かったのだろうと想像するだけでも恐ろしいが、これもこの店で働くための前提条件だ。この恩を返すまでは精一杯仕事をこなそうと少女は決意した。
「びし、そわーず。びし、そわーず」
タオルで身体の水滴を拭きながら、少女はまたビシソワーズを歌った。心に余裕ができるとこれからつくるビシソワーズも楽しみになってくるし、歌だって口ずさむ。メロディはその時々でアレンジを加えていたが、「びし」と「そわーず」の間をしっかり空けるのがお気に入りのようだった。首でリズムを取ってはにかむ姿だけを切り取ると、彼女はそれこそ、どこにでもいる幸せな女の子だった。
「んん、あれ?」
独り言が多いのはなんとなく自覚していた。相棒との会話(と呼んでいいのだろうか)を抜かすと、何かしら呟いていた。もちろん昔からそうだったわけではなく、この暮らしをはじめてからだ。何かしら言葉を吐き出さないと、自分が壊れていく気がしたからだった。
「やっぱりちょっと大きいかな」
洋式便座の上に置いてあった灰色のスウェットに袖を通すと、服に着られている感覚を覚えた。洗面台の鏡に映る等身大の自分もやはり、背伸びした子どもみたいだった。もっとも彼女はまだきっと子どもなのだろう。
「店長、店長いますか? 今でますね」
応答がないということはきっと立ち去ったのだろう。自分がシャワーを浴びている間、待つだけでは時間の無駄だし、一階に戻って夜の営業に向けて仕込みを開始しているはずだ。
――私もできることから手伝わなくちゃ。
足のない右太ももから垂れるスウェットを結び、手すりを頼りにバスルームから出ると。
「あなた、誰?」
見知らぬ女の子がそこに立っていた。背格好は自分よりも一回りほど大きく、背中まで伸ばした栗色の髪が特徴的な彼女はとにかく猜疑心を露わにしている。
「それ、あたしの――」
次に彼女は、少女が見にしているスウェットに着目した。店長が「持ち主が着古して」と与えたそれは、疑いの目を強めるには格好の材料だった。
「泥棒?」
なんで、とは言えなかった。そう思われても仕方ない身なりだ。
「その、泥棒ではないです」
「それなら家に何の用? あなたの名前は?」
「私、私は。店長の――」
自分が怪しい人物ではないことを証明しようと必死に頭の中のワードプロセッサをこねくり回したが、どうしても彼女の強い口調につい言い淀んでしまう。「あの」とか「その」とかを繰り返していると、彼女は「もういい、わかった」と苛立たしげに踵を返した。
それから、階下に響くような声でこう、一閃する。
「お兄ちゃん! ちょっと、お兄ちゃん! どうなってるの、これ!」
その時少女は何となく気づいたのである。店長は自分以上に不器用なのではないかということに。