契約
店内は想像していたよりもずっと狭かった。
人ひとりが通れればやっとといったスペースで、左右の棚には見たこともない調味料の瓶や使い古された鍋が敷き詰められている。
そこには汚さはなく、むしろ整然さを覚えるほどだったので、ただ単にスペースが足りていないのだろうと少女は察した。
「狭くて悪いが、どんどんと奥に進んでくれ」
後から追う店長が促す。少女は棚に当たらぬよう注意を払いながら、片足飛びをするのであった。
「うわあ、すごい」
彼女の目の前にはぴかぴかに磨かれたキッチンと、そこから覗く店内の様子が鮮やかに映っていた。
深みのある茶色が印象的な木目調カウンターには両指で数えられる程度の椅子、奥には打ちっぱなしコンクリートの壁に沿うように二人掛けのスクウェアテーブルが何脚か配置されている。
キッチンからの景色なので全容はわかりはしないものの、全体的にこじんまりとしていてかわいらしいと少女は思った。
カウンターの端にどこからか摘んできたのだろうか、コップにたんぽぽが咲いているのを見て、余計にかわいらしく感じたのか「ふふっ」と口をすぼめて笑った。
「なにかおかしかったか?」
店長が不思議そうに顔を窺うが、一方で少女は「しまった」という表情で首を横に振るものだから、何度か同じようなやりとりが続いてしまった。
「まあいい。とりあえず今から剥いてくれたじゃがいもを使って、ビシソワーズをつくるわけだが」
店長が少女の身なりを一瞥し、頷いた。
「まずシャワーだ」
少女の身長よりもいくらか大きいワインセラーの横には扉があった。ポケットから鍵を取り出す店長の様子から、誰しもが踏み入ってよい場所ではないことを知った。
「住処だから衛生に気を払っているが、狭さと使いづらさはどうにもならない。我慢してくれ」
店長の手短かな説明に首をかしげていくばくか、少女が店舗と住居が一体の構造に気づいたときには彼はは暗い階段へと足をさしていた。
「どうだ? 片足で登れるか?」
「はい、これなら」
灯りという灯りはなく、踊り場の小窓からの陽の光が頼りだ。
きいきいと足を踏みしめるたびに階段の木材が鳴る。この建物の階段はいくらか角度が急だ。片足だけでは心許ないから、「手すりがあってよかったです」と思わず漏らした。
「悪いな。見ての通り古いんだ、ここは」
店長がこちらを振り返り、手すりをなぞった。
「お店はずっと前から?」
「いいや、つい最近だ。メインストリート沿いにも関わらず安かったからな。世代が何交代もしてそうな年季だがどこか落ち着く」
「好きなんですね、この家が」
「住めばどこだって都さ」
踊り場を一回折り返し、同じくらいの距離を上がると二階に到着した。狭いと店長は言っていたが、正対するように左右に2つずつドアがあるのを少女は羨望の眼差しで見ていた。
「本来この家にも一階に広いリビングがあったはずなんだが、前の居住者があんな感じにしてしまったそうだ。それで左奥の部屋がリビングがわり、右奥は寝室。おしゃべりが過ぎても仕方ないから、少々準備をする」
ちょっと待っててくれと店長が前置きすると、数分しないうちに何かを携えて帰ってきた。ねずみ色をしたスウェットとタオルだった。
「これは――私に?」
「他に誰がいると思う?」
「いえ。ですが、いいのでしょうか?」
「もう持ち主が着古して、使っていないものだから配慮はいらない。下着がさすがに用意できなかったがな」
それもそうなのですが、と少女は下を向き首を振った。
「あの、私なんかがいいのでしょうか。ただ店長の好意に甘えて仕事をいただいて、それだけで満足なのに着替えと水浴びまで」
優しさが心に痛かった。これだけしてもらっても何も返せないという自責が、彼女を前に向かせるには重荷になっていた。
「いいのかどうかはわからない」
店長がなかば無理矢理に着替えを渡すと、左手前のドアを押した。奥にはシャワーとトイレが顔を覗かせていた。
「うちの店は今でこそ繁盛しているが、ここのローンもあって金銭的にはかつかつだ。しかし雑用全般を任せられる手助けは探していた。つまり何が言いたいのかというと」
床を見ていた少女の視線に、彼の右手が現れた。頭を撫でるのではなく、抱きしめるのでもなく、店長は握手を求めた。
「君はには戦力として、この店で働いてほしいと思っている。だから身体を洗ってきなさい」
店長の手は大きく、それでも温かく、だけど強かった。
少女はこの握手をずっと忘れないと誓った。