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じゃがいものポタージュは

       2


「ただいま帰りました」

 感情が収まったころに戸を開けると、玉ねぎの甘い香りがした。それに鍋肌と木べらが擦れ合ってリズミカルに聞こえる。

「ああ、お帰り」

 アシュリーはなぜか心がとても温かくなった。奥で玉ねぎを炒める店長の声音が今までよりも穏やかだったからかもしれないし、新しく帰る場所ができたという安寧がそうさせたのかもしれない。いずれにせよ、アシュリーは嬉しかったのだ。

「なんだ、何も持って帰ってきてないじゃないか」

 かつての住処からの荷物はなく、手にしているのはアイカから借りた杖のみである。それでもアシュリーは「いいえ、一番持って帰ってきたいものがあったので」と首を振った。

「なんだそれは?」

「思い出です」

 木べらを動かす手が止まり、玉ねぎの水分が蒸発する美味しそうな音だけが聞こえた。

「君はときどき詩人になるな」

 店長の苦笑がその均衡を解いた。少女がその意味をつかもうとして唇に人差し指を持っていくが、「ああいや、大したあれじゃない」と頭をつかうのをやめさせた。

「ところでアイカがお願いしてた、名前は決まったのか?」

 名前のなかった少女は、自信を持って店長を見上げる。

「決まりました。これからはアシュリーと呼んでください」

「アシュリー、アシュリーか。本当にその名前でいいんだな?」

 それは彼女がアシュリーとして生きていくかを決定づける質問でもあった。かつての姿から、アシュリーへと生まれ変わるための。

「はい。お願いします」

「わかった。それなら、アシュリー」

 彼女は迷うことなく、そう答えた。それならば過去を詮索することも、かつての名前を呼ぶことは無粋だ。

「二階に上がってくれ。右奥の寝室をノックすると、アイカが案内をしてくれるはずだ」

 アシュリーはアシュリーとして、もうこの店の一員になったのだ。

 こんこん。二回扉を叩くと、「入っていいわ」との許可がおりた。

「お邪魔します」

 店長とアイカの寝室である。恐る恐る入るものの、アシュリーはたちまちお腹を鳴らしてしまった。鼻をくすぐるのはミルクの香りだった。

「よかった、暗くならないうちに帰ってきれくれて」

 書類整理をしていたのだろうか、アイカは赤縁のメガネをかけてデスクに腰掛けている。

「特に椅子らしい椅子もないから、どっちかのベットでいいから座って」

 部屋は質素なものだった。周りはやはり木目調のそれに囲まれており、いくつか衣類がかかっている。あとは一人が寝られるだけのベッドが二つと、年季の入ったタンス。それにアイカが使っている机と時計を抜けば、物らしい物はほとんどないと言ってよかった。

「あとこれ、うちの兄から」

 そう言って手渡されたのは白色のマグカップだった。アシュリーの空腹の理由はここにあった。

「これは――」

「ビシソワーズ。って言ってもまだ冷めてないから、これじゃただのじゃがいものポタージュね」

 これから夏を迎える飲み物にはいささか熱いきらいもあったが、少女はありがたくいただいた。

 ミルクの穏やかなぬくもりと、じゃがいものほくほくとした風味がとても落ち着く仕上がりだ。

「あの人も馬鹿よね。また数日すれば同じ仕込みをして味見もできるでしょうに」

 愚痴をこぼすアイカもアイカで、自分のマグカップに口をつけて一息をついていた。「まあ、たまにはこういうおこぼれも悪くないんだけど」と小声で呟いた。

「じゃあこれから本題。今から簡単な面接を行うから、あまり考えずに答えて。――さっき言った契約条件で不満はない?」

「大丈夫です」

「歳はいくつ? 義務教育は受けた?」

「17歳です。一応、受けました」

「一応とかいいから。じゃあ次の質問ね。この店、なんて言うか知ってる?」

「ええと、その。すみません」

「『赤いひげ』よ。まあ表に出ることはないだろうけど、自分の働く店の名前ぐらい覚えておいて。それとこれで最後。あなたの名前を教えて」

「――私の名前は、アシュリーです」

 手元の書類にそれらの情報を書き下すと、アイカは「試用期間はあるけど合格よ。おめでとう、アシュリー」と手を差し伸べてきた。

 もしかしたら、握手がこの兄妹の契約の証なのかもしれない。

 ぎゅっと握ると、今まで伝わってくることのなかったアイカの体温が流れ込んでくるような、そんな気がした。

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