そして少女は「人間」に近づく
1
その少女の瞳には穏やかなさざなみがあった。
輝くほどの晴天ではなく、灰色の雲間から天使の梯子がわずかに水面を照らしている。遠くの沖から波が押し寄せ、優しく受け止め、跳ね返す。
一連の繰り返しを退屈とさえ思わず、むしろ彼女は楽しんでいた。
「こっちにおいで」
ぼろぼろの外套にくるまれた少女は、先よりせわしなく動き回るそれを呼び寄せる。
どうするわけでもない。呼びたいから呼んだだけなのだ。両者の関係はいつだって、出会った頃に倣っていた。
ふにゃおう。ふにゃおう。
じいっと彼女の海を覗き込んでいたが、やがて退屈になったのか、不満げな声をパートナーがあげた。
「ごめんね、今日はあげるものがないの」
濡れた地面に横たわる彼女が目尻を下げる。すると、怒るわけでもなく、興味が無くなるわけでもなく、
「ふにゃ」とつぶやいて、少女の目の前に身体を丸くさせた。
「なんできみはそうなるの」
ついた言葉とは裏腹に、その少女は視界の中いっぱいに広がる真っ黒の海をとても愛おしく思っていた。
できることなら拾い上げて抱いてしまいたいと願ったが、気持ちよく寝息を立てるパートナーを起こすわけにもいかず、やきもきさせられるのだった。
「五月雨乾けば、夏がやってくる。いつまでこうしていられるだろう」
相方が寝静まる中で、少女はこうして先往く未来を憂うのだった。
言うなれば、安心の片隅にぽつりと存在する不安だった。自分ひとりだけではどうにかなるだろうが、目の前で眠るパートナーとの生活を考えると急に心許なくなるのだ。
別れる選択肢はもとより思い浮かばない。いてくれないと心に隙間ができて、いつまでたっても塞がらない。そんな気がするのだ。
「だめだ、だめだ。だけど、やっぱり寝られないよ」
目をぎゅっとつむって、また緩める。何も考えずに寝られたらと反芻するたびに余計意識が覚醒して、睡眠を妨げてしまう。
ラジオのノイズに似た落雨音を数えては、少女は自ずと右手を天に差し出した。
「今日は雨がにぎやかだ」
風雨を避けるようビルの隙間を寝床に選んではいたが、風の具合で雨粒がまつげを濡らすようになってきた。
降って、降って、視界が雨色に染まる。およそ寝付きにくい環境ではあったが、雫を受ける度に自らも水に溶け込む意識を覚えていた。
「私も水のようにどこへでもゆけたら、いいのに」
そうして少女は深い眠りへ落ちてゆく。雨にうたれながら、汚くなりながら、欠損少女としての生き方を否定して、ここで眠る。
少女は戦うことを拒み、この地へやってきたのだ。
目覚めはいつも強引だった。
パートナーが鼻の頭を足蹴にしてくるのだ。字面だけだとやはり強引なのだけれど、実はそこはかとなく愛はあった。蹴られてはいるのだが痛みはなく、むしろくすぐったいぐらいだ。
「もっと普通の起こしかたはないのかな」
それでも一応、少女は困っているふりをする。躾とまでおこがましくはないが、適切な距離感は保っていたいと考えていた。
「いたっ」
瞬きをする間に、パートナーがぺしんと額を叩いてきた。今度はしっかり痛い。
「なんなの、もう」
不満を漏らす先には、その場をぐるぐる回る相方の姿があった。アスファルトに落ちている何かを中心に、長いしっぽも一緒に円を描く。
なんだろうと目をこらす暇もなく、パートナーが行動を起こした。大回転を途端に辞めたかと思うと、その得体知れぬなにかを食み、立ち去ってしまったのである。
待ってと声を掛けようとしても、相方の足は到底「人間」に追えるものではないので、ため息をついて諦めるのであった。
「ほんと勝手気ままなんだから」
ふと空を見上げると、綿菓子みたいな雲がぽつりぽつりとあるばかりで、他はどこまでも群青色であった。
肌が冷える感覚もなく、むしろ日差しや風から初夏の訪れを読み取れる一日のはじまりだった。
「こんなに天気がよければ出かけたくもなるか」
パートナーの気持ちは流れる雲のようにそぞろでつかみ所がない。そこを気に入っている節もあるが、一方でこうして突然ひとりぼっちにさせられるときもあるので、ちょっぴり苦手だ。
ああ、いけない。
「私、頼っちゃってるんだ」
たったひとりの自分にひょっこり現れた存在は、いつの間にか風船みたいにおおきく、かけがえのない存在になっていた。
向こうはこちらのことを意識していないかもしれないのに、こちらはもう依存してしまっているのだ。もう離れたくないほどに。
それならば尚更、今日や明日を生きることを考えなければならない。
「ご飯、探しに行かなきゃ」
彼女は茶色く泥のかぶった外套を軽くはたき、黒い柄をしたビニール傘を手にした。
ふけとすすのかぶった黒髪を隠すために、外套をフードのように深くかぶれば、出発の準備は完了だ。
「よ、とと」
松葉杖の要領で右手のビニール傘でバランスをとるが、自然と右側へ体重がのってしまい、しまいには倒れかけてしまう。
長年あったものは、今はなくなった。しかしながら、どうしてもここに装着していた頃を基準に身体がバランスをとろうとして、崩れるのだ。その繰り返しだった。
やはり数週間やそこらで感覚全てがなくなるわけではない。重々承知していた障壁ではあったが、右足がないというのは想定していたよりもずっと不自由だった。
「よし、立てた」
地面に刺さる傘は小刻みに揺れ、彼女の体躯を支えるにはおぼつかなかったが、一歩一歩と足を繰りはじめた。
その歩みは果たして亀よりも遅いぐらいであったが、着実に目的地に向かってベクトルが伸びてゆく。
ビルの狭間から狭間を伝い、かの店裏へと到着したときにはすっかり日が昇っていた。
表通りのルート75にはおめかしをした煌びやかな人々が闊歩するが、喧噪が遠く聞こえる路地裏は、時の流れも緩やかで静かに感じる。
「ごめんください、ごめんください」
鉄扉をとんとんとならすと、ややもあって長いコック帽をかぶった男性が顔を出した。
大きな黒縁の眼鏡が特徴的なその男性のことは「店長」と呼んでいる。逆にそれ以上のことは訊いたことがないし、あまり必要ではなかった。
しいて言えば、こんな都会の料理店のオーナーにしてはいささか若く映ったが、わざわざ年齢を訊くのも失礼だと思っていた。
「ちょっと遅いぞ、もう気持ち早く来てもらわないと昼の営業がはじまってしまう」
店長はいわゆる職人気質な性格で、普段は寡黙だ。プライベートではどうかはわからないけれど。
ただ自分にも他人にも厳しい人なのだろうと、少女は淡い人物像を描いていた。
「ごめんなさい。足の調子が悪くて」
店長は少女の足を見やると、ぽりぽりとこめかみをかいた。ぼろの羽織りものの上からでも、太腿の付け根から右足がないことがわかったからだ。
「次から気を付けろ。それはそうと今日はじゃがいもが多い。いつもの玉ねぎとは勝手が違うからな。こうして芽をとってから皮むきに取り掛かってくれ。誤って手を切らないように」
厚手の軍手と、それに刃の短いナイフ。この二つが彼女の仕事道具だ。
「わかりました、気を付けます」
「このじゃがいもは夜のスープで、ビシソワーズにするからな。口にしたことはあるか?」
「えっ、その。びし、びし? そばーずを、ですか?」
しどろもどろになる彼女の姿を見て、「く、くくっ、わかったわかった」と店長がこらえきれずに笑った。
ここで働くようになって一週間だが、どんな形であれ、彼の笑顔を見るのは今日がはじめてだった。
「な、なにかおかしいでしょうか? びし、そばーずが」
なおも食い下がる少女に、店長は右手で制した。
「わかった、わかったから。本当に何も知らないんだな、君は。あとで半端分を分けてやるから、人生最初の『ビシソワーズ』を味わってみるといい」
間違いに気づいた少女の頬が赤く染まってゆく。
真っ赤になった頬を両手で隠し、「うー」とか「くー」とか言葉にならない声を殺すのを背に、店長はかごいっぱいのじゃがいもを目の前に置いた。
じゃがいもの山に隠れるようにして、底には少量のたまねぎが埋まっているのが見受けられた。
「こいつらを昼の営業時間が終わるまでに皮をむいておいてくれ。そう時間はかからないはずだ」
「は、はい、わかりました」
とっさに返事をするものの、にわかに朱がさす少女だった。店長は彼女の顔模様を一度は咎めたものの、首を横に振り、戸を閉めた。
そこから彼女の仕事が始まるかと思いきや、閉まったはずの鉄扉を再び開ける音がした。店長だった。
彼は何かを考えこんでいる様子だったが、思考がまとまらないのをそのままにぽつりぽつりとつぶやいた。
「なんか、なんというか。意外だ。そういう顔するんだな、君も」
途端に少女は困ってしまう。彼の言っていることがよく理解できなかった。
「一週間前、ここで倒れかけていたときに飯を出したが無表情だった。下ごしらえの仕事を与えてからも変わりはしなかった。日々の会話のなかで君は人形みたいだった」
無表情、変わりがない、人形のよう。それらの要素を咀嚼し、少女は自らがより無機質になっていたことを知った。
「私は――。私はこういう私ですから。でも、あのときも今も感謝しています。こんな身体なのに、身なりなのに。仕事を与えていただいて、嬉しいのです」
「違う、そうじゃない。いや、もちろんその感謝の気持ちは受け取っておくが、今日の君は、一週間前の君とは変わった気がする」
「そう、でしょうか?」
純粋な疑問から彼の瞳をのぞき込んでいたが、店長がそれに気づくとすぐに目をそらしてしまった。
「すまん、変なことを言ってしまった。仕事を頼む。たまねぎの下にはりんごがある。腹が減っていれば皮をむいて食べるといい」
言って、店長は扉の向こう側へと立ち去って行った。彼女の問いかけには結局、答えないままだった。