プロローグ
桜の花が舞い落ちる頃。
黒髪の青年が、少し眠たげな顔を、自室の鏡の前で、きりりと正していた。
制服のブレザーに腕を通し、ネクタイをキュッと締めてもらいながら、ちらりと時計を見つつ、青年は側に仕える使用人に向かって、口を開く。
「ねぇ河野さん、お祖父様とお祖母様は?」
「旦那様と奥様は、1階の和室におられます」
「分かった、ありがとう」
そういうや否や、パッと鞄をひっつかんで、2階の自室から飛び出し、タタタッと小走りに階段を駆ける青年。
そして、長い廊下を抜けて向こうの和室に、そろそろと近づき、その障子をカタンと開けた。
「お祖父様、お祖母様。行ってきます」
和室に佇むのは、青年の祖父母。
青年の姿を見た途端、その祖母は優しい顔を更にくしゃりと崩し、祖父は厳粛なその眦を少し下げて、こちらを振り向く。
「行ってらっしゃぁい、壱ちゃん」
「気張れや、壱」
「うん、気張ってくる!」
「元気でよろしい」
呵々、と祖父は、その厳粛な空気を身に纏ったまま、愉快そうな声で笑う。
その隣で、祖母は、柔らかで上品な笑い声を響かせた。
そんな祖父母につられて、青年の口許も、ふわりと緩むのであった。
ガラガラ、と引き戸を軽快に横に滑らせる。
視界に映るのは、華やかな庭園。
そこに敷き詰められた石を不器用に踏みながら、青年は、すでに開いている門に近寄って行く。
青年が門に近づいたことに気づき、お付きの執事は、素早く車のドアを開けた。
「おはようございます、壱坊ちゃん」
「おはよう、山蕗さん。……坊ちゃんって言うの、やめない? 僕もう17だよ?」
「いやいや、この爺にとっては、坊ちゃんは幾つになっても、坊ちゃんです故」
「もぉぉ〜……」
東海林家専属の執事は、ホホ、と愉快げに笑いながら、静かにドアを閉めた。
この青年の名は、東海林 壱之助。
今の日本の財政業界を仕切る、東海林家の跡取り息子。
幼い頃に両親を事故で亡くし、今は祖父母と暮らしていて、この春から2年生となる男子高校生である。
たった1人の孫だからか、祖父母に甘えに甘やかされた壱之助は、生まれてこのかた17年、お湯を沸かしたことも無い。
まぁ、金持ちな東海林の跡取り息子だ。そんなことせずとも生きていけるだろう。
だから、祖父母も壱之助も、生活力について、なんら気にしてはいなかった。
「壱坊ちゃん、そろそろご準備を」
「うん、大丈夫だよ」
壱之助の通っている、とある私立の高等学校に近づいて、車が止まった。
壱之助がリュックを背負った時に、さっと素早くドアを開ける、東海林家専属の執事。
「では。壱坊ちゃん、行ってらっしゃいませ」
「うん、行ってくる〜」
車から降りて、ふわふわと壱之助は、高くそびえ立つ校門へと向かう。
そしてその敷地に足を踏み入れ……ようとした。
すかっ。
「……ん?」
壱之助は、足元を見下ろした。
見えるのは、暗くて深そうな穴の中。
…………うん? 穴?
「え、なにこれ……うわぁぁああっ?!」
今更気付いても、すでに遅し。
壱之助は、下へ下へと、急速に落ちていったのであった。