太鼓が達人
和太鼓を始めて20年になる。
思えば長いような短いような20年間だった。
来る日も来る日も稽古に明け暮れた日々。
投げ出しそうになった時、
やりきれなくなった時、
いつでも蘇る光景があった。
5歳の時に見た和太鼓の公演。
舞台に置かれた、たった一つの和太鼓。
屈強な男が打ち鳴らすたった一度の音が、
1000もの魂を一瞬で打ちのめした。
打ち鳴らされる巨大な太鼓の響き。
直に心臓を揺らす魂の響き。
その音は、今でも鮮明に思い出せる。
その時俺は必ず和太鼓の奏者となり、
世界中の人々に和太鼓の音色を届けるのだと決めた。
そして俺は今 夢を目前にしている。
フランスのクラシック・オーケストラとコラボした創作和太鼓の奏者に俺が選ばれたのだ。
公演場所は、パリのシャンゼリゼ劇場だ。
やっとここまで来た。
やっと俺の夢が叶うのだ。
その矢先だった。
公演の直前、俺に予想もしていなかった事態が起こる。
「タカ!大変だ!太鼓が盗まれた!」
その言葉は俺を地獄の底へ叩き落とした。
「予備の太鼓は!?」
「それも盗まれたんだ!クソ!」
嘘だろ?
「じゃあ、どうするんだ?」
「和太鼓が無い以上、通常のクラシック・オーケストラを演奏するしかない」
みるみる俺の身体から力が抜けていくのが分かった。
俺はふらふらと舞台袖へ移動した。
舞台を覗く。
和太鼓が置いてあるはずの台。
その上には何もない。
俺の視界が滲み歪む。
俺は一体何のためにフランスへ来た?何のために準備をしてきた?何のために命をすり減らして過酷な修練を積んで来た?一体どんな顔をして日本へ帰れば良い?俺の演奏を聴きに来たお客さん達になんて謝れば良い?
どんな辛い稽古でも泣いたことのなかった俺の頬に、
暖かな悲しさがつたい続けた。
その時、後ろから誰かが俺の肩を叩く。
振り返るとそこには俺の身長を大きく超える大男が立っている。
意外なことに男は東洋人の顔をしていた。
鍛え上げられた身体に身につけているのは白いふんどしのみ。
その姿はまるで和太鼓奏者のそれだ。
「俺に任せろ」
男はにっこり笑った。
その男はゆっくりと舞台袖から出て行き、
和太鼓が置いてある台の上に乗った。
OTL
そして俺の方を見て手招きをしている。
嘘だろ?
もうすでにオーケストラの演奏は始まっている。
今出て行っても太鼓が無ければ俺は演奏できない。
そのはずなのに、なぜか俺の足は舞台袖を踏み出していた。
出た瞬間、まばゆく輝く照明。
豪雨のように降り注ぐ拍手喝采。
それは、明らかに遅れて出て来た太鼓奏者の俺へと向けられている。
夢にまで見た、
夢の中で見た、
現実になった光景。その夢中。
俺は吸い寄せられるように和太鼓の台の前へと立った。
目の前にあるのは、そう。
尻である。
固そうな尻である。
叩けばよく響きそうな尻である。
その時、オーケストラの演奏が止んだ。
再び始まったその演奏は、指揮者が和太鼓との共演のため、この公演のために
書き下ろした楽曲だった
ああ、俺は何度も聞いた。
何度も叩いた。
来る日も来る日もこの日のために叩き続けた。
俺はためらった。
どうすれば良いというのだ。
他の楽器奏者も指揮者も観客も主催者も、
俺の打ち鳴らす、響かせる、その一打を待っている。
誘うフルート、
逸るヴァイオリン、
急かすティンパニー、
その時、男が俺の方を向いた。
「いいからリズムに合わせて俺のケツを叩くんだ!!!」
俺は、目が覚めた。
分かった。
ただ身をまかせるだけだ。
最初からわかっていた。
太鼓が無ければケツを叩けばいいじゃない!
打ち鳴らせばいいのだ!目の前の!この!ケツを!
俺は両手に持っていたバチを捨てた。
スーッと息を吸い、手を振りかぶる。
バチが地面をたたいた瞬間、
音が消えた。
音のない世界に俺は来た。
次に一つ一つ、視界のものが消えはじめる。
徐々に暗くなっていく視界。
見えなくなっていくのではない。
ただ必要なものだけがハッキリと浮かび上がるのだ。
俺の意識が研ぎ澄まされていく。
そして暗闇の中に、
大海原にポツンと浮かぶ船のように、
闇夜に光る蛍のように、
夜空に輝く月のように、
そこにはただケツが在った。
ケツは俺の手が届く瞬間メッコン硬くなる。
聴け!これが俺の魂だ!
パァン!
んほお!
俺の手は確かに、しっかりと尻を弾く。
反響する魂。
残響と共に訪れる余韻。
俺の暗闇に現れる世界。
無数に散らばる星々。
紛れもない宇宙。
無限に広がる無我の境地。
パァン!
その一打は会場を支配する。
確かにそれは、和太鼓の音とは違う。
しかし、楽器を通して届けたい俺の思いは変わらない。
パァン!
アァオ!
ハロー!ニューロン!
ハロー、マイチャクラ!
グッバイ!ジアース!
グッバイ、ギャラクシー!
一打!波打つ尻!
一打!紡ぐ世界!
一打!遥か遠くまで!
響け!
届け!
轟け!
世界にはまるで俺と尻しかないかのように
それが全てであるかのように
響き 届き 轟き
無数の風船が破裂するように
衝突 衝撃 衝動
もっとだ!
もっと力を!
もっとケツを叩く力を!
POWER!
POWER!
POWER!
PPPPPPPPPPPPPPPPPANG!
野獣が唸り、猛るように
奏でる尻の音を
ただ全身で
ただ五感で
ただ全てで
ただ噛みしめる。
これだ。
俺が表現したかった音。
届けたかった響き。
貫きたかったメッセージ。
たどり着いた無我の境地。
夢中で叩いたその尻を。
俺にとってそれは道であり、灯火であり、人生だった。
再び頬を伝う涙は
流れる星のように地面へ降った。
気付くと拍手が鳴り響いている。
観客に背を向けて尻を叩いていた俺は
はじかれたように客席に向き直る。
今更気付いた。
ホールにステージを包み込むようにほぼ全ての客席から観客が立ち上がり、
割れんばかりの拍手を俺たちに浴びせかける。
俺は肩で息をしながら、
深く頭を下げた。
伝わった。
俺の太鼓が認められたのだ!
ああ、ケツを提供してくれた、あの男のおかげだ。
俺は頭を上げると
またケツの方を向き直った。
そこにあったのは、盗られたはずの、和太鼓だった。
終わり
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