第10夜:空の王者
今日も私は<壁>の世界に来る。壁を越えようとする。失敗する。
この繰り返し。正直、煮詰まってきた感じがある。壁を越えるアイディアも、前やったことのマイナーチェンジが多くなってきた。
気分的には、圧倒的暴力で壁を破壊できれば一番よかった。すごいスカッとすることだろう。
当たり前だけど、そんな力はどこからも湧いてこない。
とにかく、苦しいながらも私は知恵を絞って諦めずにやっていた。
「今度は、昨晩に引き続いて魔法使いですかー」
ウォールの言葉通り、私は制服の上に黒いローブを羽織り、黒いトンガリ帽を被り、そして世界樹の木で出来た杖を持っていた。
「この前の爆発魔法は流石に反省した。したけど、今日こそ名案があるから」
昨晩は「爆発魔法を足元に放ったら反動で飛べるんじゃない?」というアホな発想で見事に爆死した。今考えるとなんで爆発魔法で飛べると思ったのか分からない。他にも一杯飛べそうな魔法あるでしょ。深夜テンション、夢テンションでおかしくなってしまったのか。それとも
「いや-、ぼくとしてもここまで壁を越えられないのはちょっと意外なんですけどねー。でも、焦った人間の行動って外から見てると本当に面白いですねー」
「うるさい」
<壁>が何を言おうと、今回こそは上手くいくはずなのである。
* * *
煮詰まるというのはつまり、壁越えの方向性がおおよそ決まっているわけでもある。
真っ先に目指すべき王道として、<本質>に関連した想像で壁を越える、というのがあった。でも、これはダメ。今までこれでもかというぐらい想像してきたが、未だに<本質>の欠片も見えてこない。
そうすると必然的に、イメージのテクニックに頼って壁を越えることになる。けれど、これも中々難しいところがある。基本的に私は、イメージするものへの理解が薄いのだ。これだと私が十数年生きる間に貯めた知識を全否定するみたいだな。
正しく言うと、私は別に空を飛ぶために生きてきたわけじゃないのだ。なので、上へ行くための手段――飛行機、熱気球、ロケット――に関する詳しい知識を、全く持っていない。緻密な構造があるらしいと知っているのにその仕組みを理解していない場合、不条理は簡単に忍び込んでくる。
現実に記憶が運べたら、向こうで調べることもできたのだけど。
というわけで、私はファンタジー路線をとった。これなら純粋なイメージの強度だけで勝負できる。
今日試した如意棒、空飛ぶ絨毯、魔女の箒もこの路線。如意棒はぽっきり折れ、絨毯は空中でほつれ、魔女箒は一人で空へと逃げていった。が、全体的に絹豆腐ぐらいの手ごたえはある。私は間違っていない。
問題点を一つ挙げるとすれば、私が童話やファンタジーについても大して詳しくない、ということだろう。
「使い魔っていうやつかな? それでいく」
使い魔。魔法使いと来たら黒いトンガリ帽、黒いローブ、杖、そして動物の使い魔である。少なくとも私の中ではそういうことになっている。
そして、お供の使い魔はネコとかフクロウとかカラスとか、サイズ的に小さいのが普通だろう。今回それでは困るのだ。
私が狙うのは私もろとも大空まで連れて行ってくれる大鷲である。
そう、ここでなぜか私は大鷲を召喚しようとした。もうちょっと賢くて、しかも人間に対して優しそうな大フクロウにしとけばよかったのに。あと、人によく馴れたドラゴンとか。
でも、私はこのとき、大鷲を選んだ。そういうこと。
「しかし、魔方陣も詠唱も契約もなしに、使い魔が現れてくれますかねー」
「そこはもうイメージするしかないじゃん。やれって言われても絶対やらないから。というかあんたは単に恥ずかしいことさせたいだけでしょ」
ちょっと気合を入れる。諸々の知識不足は、全て気合がカバーしてくれる。
私は杖を横に構えた。深く息を吸って、吐く。自分の呼吸音以外何も聞こえないぐらい、内側に潜り込んでいく。
私をこの世界から出してくれる、大きな大きな鷲をイメージしよう。
大きさは、私の部屋ぐらいあるだろうか。茶に黒が差す身体。羽の一本一本は鋭く、剣のように見える。彼は壁の上にただずんでいる。黄色い無骨な鉤爪が壁をとらえ、少しばかりの穴をあける。
白い頭に黄色いくちばし。獰猛な瞳。理知的な瞳。たぶんこの大鷲は200歳をとうに超えていた。彼は私の前に降り立つと、ひざまずく。私は用心深く杖を持ちつつ、背中から彼の上に乗る。彼は大きく羽を広げ、飛び出した。
空の王者。王者が羽を開き、飛ぶ姿。
遥か彼方から、大鷲の叫ぶ声がした。
気がつくと、ハクセキレイは飛び去っていた。豆の木は動きを止めている。生意気にも死んだふりをしているのかもしれない。この中で螺旋階段だけは、いつも通りくるくる回り続けていた。
空気がピリついていくような感覚。雲が少しずつ厚くなって、世界全体が薄暗くなっていく。地面や壁の白は光沢を失って、今までと違う不吉な色に見えた。
「……もしかして、ヤバイの呼んじゃった?」
「えー……ここまできて、そんな……」
空から響いてくる声が震えていた。
怯え? 分からない。
少なくとも、とってもイレギュラーなことが起きているらしい。
「ウォール、大丈夫?」
「いやちょっと……これはもう無理かもしれませんね……あー……」
何が「無理」なんだ。教えてくれなくてもいいから助けてくれ。
お願いです、いつもみたいに助けてください。
両手で杖を握り締めながら、私は待つ。固唾を呑んで見守る。張り詰めていく空気感からして、いつ来てもおかしくない。けれど、来ない。
思いつきで、雰囲気だけ防御魔法を使ってみた。焼け石に水、防弾チョッキを着た方がよっぽどよさそうだが、しかし魔法使いであることを辞めた瞬間に「狩られる」気もする。この世界のルールとやらに従えば、私が魔法使いで大鷲が使い魔という立場が何よりの防御になるはずだ。信じれば実現しやすいというのが、この世界のルールである。
私はじっと、声がした方の地平線を見つめていた。心臓の鼓動が耳の奥で響く。杖を持つ手が震える。
このとき、空から重々しい声が響いた。
「後ろです」
一瞬、声が低すぎて何を言っているか分からなかった。意味が分かると私はすぐ振り返る。
地平線に、点のような何かが浮いていた。
さて、時間は既に遅く流れ初めているから、ここからはスローモーションな時間感覚で数えよう。
1秒後。急速に大きくなる、いや近づいてくる茶色の物体。
2秒後。大鷲の鉤爪が私の身体を掴む。
生物の速度じゃない。
帽子と杖はあまりの勢いにぶっ飛んでいった。
いや違う、あれはただその場にとどまっているんだ。ぶっ飛ばされているのは私の方だ。
空の王者は、身の程知らずな見習い魔法使いに召喚されて、怒っていたのかもしれない。それとも、別の深い考えや直感があったのか。
ともかく王は、その姿をまともに見ることはできなかったが、寛大にも魔法使いをすぐ解放した。
空へ向かって、思いっきりぶん投げることによって。
私は濃密な雲の森へ迷い込んだ。
顔にローブが絡まったせいでほぼ何も見えず、結構怖い。肌に感じるものといえば、無重力とはまた違うヌルヌル感だけ。これは雲の中に居るせいじゃない、空全体がこうなのだ。<壁>の世界の空は若干不快、と心のどこかにメモしておく。
この頃になると私は、今回はこれで終わりだなと諦めムードだった。そう、まだ諦め程度の感情だった。次があると思っていた。
ぶ厚い雲の中、私の軌道はおそらく放物線を描き。
頂点を過ぎたころ、ローブが外れてようやく視界を確保できた。
最初は雲ばかりだった。次第に雲が薄くなっていき、雲の真下の光景が現れる。
そして、私は目を見開いた。
壁。
白く高く、永遠に続く壁。
二つよりもっと多く、無数に並ぶ壁。
私はいったい、どこの狭間にいたんだろう?
* * *
「こういうことなんです……ぼくの声に集中してください」
<壁>はゆっくりと話しだす。
いつもより声が近くて、包まれるような気がした。
でも、なぜだろう。私はこのとき心を固く閉ざしてしまう。
声はウォールの声ではなく、ただの声になってしまった。
「この<壁>の世界では、壁が10m間隔で少しずつ高くなるよう順に並べられています。高さは最低で5mほど。高い方は際限がありません。これら無限の壁の全てが、ぼくなのです」
海に染まった壁のことが頭によぎる。壁の高低差。狭間に閉じ込められた人間からすると、<壁>の世界には高い壁と低い壁の二つしかない。
それらの壁は、<壁>からすると、無数に並ぶうちの二つにすぎない。
私は、とても速く落ちていることを意識した。
「<壁>の世界で中々壁を越えられないと、『壁を越える』ことに意味を求めてしまう気持ちはよく分かります。もしかしたら、現実と紐付けて」
身体は狭間に吸い込まれ、世界は壁二つだけになる。
時間の流れは極限まで遅くなっていく。耳鳴りがする。空気がまどろむ感覚。
私は抗うように、目の前に光景に集中する。これから起こることをしかと記憶しようとする。
「でも、壁は無限にあって――目の前の壁を越えることそのものに、意味は無いんです」
地面がもうすぐだ。意識が遠のく気配はない。むしろ、頭は冴えていく気がする。
現実に向かって覚醒するのではなく、夢に向かって覚醒していく。
「ああ、もう……すいません。間に合いません」
そして、私の身体は地面へと思い切り叩きつけられた。
鋭敏な衝撃。体内のいたるところで血液が逆流して反射して、熱くなる。爆発の予兆だ。
しかし、どこかこの瞬間を待っていた気もする。
私はようやく、死の味を知る。
十夜に及ぶ戦いが終わりました。あと十日ほどお付き合いください。