第4-8夜:無機物有機物
壁を越える私の挑戦は、はねのける不条理とともに激化していく。
そのごく一部を、ここで語ろう。
* * *
私の着眼点は、ウォールの自称 ”無限の広野の中で静かに果てしなく成長していく<壁>” にあった。「成長していく」ということは、時が経つほど壁はより高くより厚くなっていくのだろう。
裏を返すと、時を遡ればより低くより薄い壁になるんじゃないか?
ウォールに聞くと変な事を言って止めようとしてくる。禁止されると逆にやりたくなる。というわけで、私は壁掛け時計をイメージした。
時計はアナログに時を刻み始める。時計は問題なく想像できている。私は短針を掴み、強引に反時計回りに回し始めた。
時が時計を動かすのではなく時計が時を刻んでいるとすれば、時計が逆回りになれば時も逆向きになるんじゃないか? 決して現実では通用しないが、これが夢のやり方だ。時を遡れると固く信じて必死に回す。
時の逆行は、<壁>の世界でも間違いなく難事だ。針を握り締める手に血が集中する。逆行する時間の中で何時間なんて言えないけれど、ともかく1周12時間分回すのに相当な時間がかかった。内部機構の摩擦か私が握り締めているせいか、時計全体が熱くなっている。私もいつの間にか汗まみれになっていた。
難しいからこそ正解に近づいている気がする。ここに私の天才的ひらめきを加えた。短針に螺旋階段と同じ「回転」をかけるのだ。
十分な回転のイメージを加えると、時計は私の手を離れて逆回りに回り始めた。あとは待つだけでいいだろう。
疲れから地面に寝転がって脱力した私は、ふと顔を横に向けて気づいた。鳥と螺旋階段が居ない。
起き上がると、ちょうど豆の木が一瞬だけ大木になって、そして消えた。丁寧に私のこれまでを遡っている。今1日目ということは。
これ、次に消えるの私でしょ。
時計に飛びつく間もなく、私は消えた。
結局、時計は壁を1cm下げるところまで何とか遡れたらしい。
しかし最後に立っていたのは壁だった。熱を帯びすぎた時計は、液体のようにどろどろに溶け出して地面へ流れていった。
「どっかの画家のパクリですねー」
と、ウォールは語る。
ちなみにウォールが液体の時計を気化させたら、私が時計を想像する前まで戻ったらしい。
以上の話は、全てウォールの伝聞である。これを語る私は、時計を逆回しする直前にウォールの説得を受け入れ、時間逆行を諦めている。素直が一番だ。
* * *
壁を越えるためなら、禁忌だって犯してみせよう。
「本気ですか? 寂しくて頭おかしくなりましたか? 人間を想像するなんて……そんなこと……」
ウォールは言葉だけ引きとめようとするが、実効的な邪魔はしてこない。あるいはできないのかもしれない。人間を想像することはルールの範囲内なんだろう。
「私一人だけだとどうしても発想に限界があるからさ、だったら増やせばいいってわけ――単純でしょ?」
私の絶対に壁を越えるという意気込み、それに気圧されたのかウォールはもう何も言えなくなった。
夢世界で人間を想像する一番の難所は、人間を想像しようと思い立つことだろう。その発想に至った上で一線を越えることを厭わないかどうかである。
一度決めれば想像すること自体は簡単だ。だって、人間は生まれてからずっと人間に囲まれて生活していくから。どこまでも深くイメージすることができる。
私は目をつむりながら、とある友だちのことを想像した。彼女と一緒なら壁を越えられる気がしたから。日々のたわいもないやりとりの数々を思い出し、友だちの輪郭をはっきりさせていく。
本当に人間をイメージするのは簡単だ。悪魔めいて、そしてどこか諦めの笑みを顔に浮かべる。
はっきりと想像が成就した重みを感じた。目の前に、いるはず。
私はゆっくり目を開けていく……。
壁。
そこには壁があった。
は?
「縦横1m奥行き10cmですか、大したこと無いですね。まあ、これからぼくみたいに立派な壁に育っていくことでしょう」
「いや、なんで人間を想像したのに……壁が……」
「そりゃ、人間誰しも<壁>みたいなものだからですよ。まだ気づいてないんですか?」
まだ気づいてないのかって、一生分からないと思う。
* * *
「例えばさ、国民的青狸が出てくる作品のどこにでもいける感じのドアってダメなの?」
「作れますよー」
「わ、本当だ……壁の上にもピンクのドア出てる……このドアを開ければ、ついに壁の向こうへ……」
「たぶんドア開けた瞬間に死ぬので止めたほうがいいですよ」
「えっ」
「単純にですね、こんな簡単に壁を越えられると思いますか? 思わないですよね? だったら理由は分からないですけど、死にますよ」
「そっか……」
* * *
私は神からの啓示を授かった。
重力だ、重力を操りなさい、と。
「重力ですかー。……あ、もう現実では朝ですねー。いいですよ、やりましょう」
失敗すること前提のウォールへ向かい(つまり目の前の壁へ向かい)、私はふっと鼻で笑った。天から降ってきたアイディアに対して、謎の自信があったのだ。私の<本質>にかすりもしていないのに。
神じゃない方の天の声が、ルールを整理する。
「一時的に世界全体の重力の向きを変えられるようにしました。ただ、上向きにして直接上へ落ちるのはやめてください。ぼくにも何が起こるか分からなくて、つまり絶対酷いことが起きます」
となると、重力を壁と垂直な方向にかけることになるかな。そうすると、壁が地面になる。あとは歩くだけで壁の先に行ける。
……いや、走らないとダメだな。重力を横にしたとき、「上の壁」が落ちてくるのが目に見えている。そういうオチだ。
落ちてくる予定の壁に、2mほどのつっかえを添えてみた。漠然と「超頑丈・超接着力が強い」とイメージ。これで少しでも時間が稼げたらいい。
ジャージと運動靴を想像し、着替える。20mを静止状態から走るのに、結構足の速い私でも3,4秒は必要だろうか。数秒の間に全力を出せるよう、入念に準備運動をする。壁を背にスタートダッシュを何回も練習した。
「あのー、現実と同じ重力だと仮定すれば、壁が10m落ちるまで何秒かかるか計算できると思うんですけどー」
「そうやって諦めさせるつもりなんでしょ? そうはいかないから。めっちゃ重いからめっちゃ遅く落ちると思っとくよ」
一通り練習が終わったあと、私は仰向けに寝転んだ。左足を足場になる予定の壁につける。右足は、膝を立てて地面へくっつける。両手はパーの形で地面に押し付ける。
私は目をつむった。
さあ、行こう。重力を90°方向転換するところ、いや私が壁を駆け抜けていくところをイメージする。スタートダッシュからできるだけ具体的に、一歩一歩をイメージした。理想的な足運び、腕の振り、全体のフォーム。
イメージが完了した私は、無音のピストルが鳴るのを待ち続ける。全体重が片足に集中したとき、勝負が始まる。
浮遊感が、来た。
その瞬間、私は目を開けて駆け出す。両手と右足で、元地面を思い切り押しだす。
フライングすれすれ、最高のスタートを切った私は、次に右足を踏み込む。入れ替わり左足を出そうと、右足で元壁を蹴って――宙に浮いた。
そのまま、私視点で左の方へと身体は引っ張られる。
頭から地平線に向かって、フリーフォールしていく。
私は静かに尋ねた。
「……ねえ、どういうこと?」
「いやー、計算すると壁が落ちるまで1.4秒しかないんですよ。思い込みでカヴァーするにも無理があるので、とりあえず死なない方向に変えましたー」
ウォールが勝手に、重力の方向を変えた。
横は横でも、壁と平行な方向に。
もはやため息も出ない。
ずんずん加速していく私は、ここからどうにか壁の先を見れないか考えた。我ながら諦めが悪い。
そうして物を投げた反動で移動できるんじゃないかなあ、と思いついたあたりで、ふと気づく。
「ねえ、私ありえないほど加速してない?」
元空の雲の流れを見ると、スピード感が分かる。
これ、重力が何十倍にもなってないか。
「あ、気づいちゃいましたかー。あのですね、あなた走る練習に時間かけすぎです。もう本当に目覚ましが鳴っちゃうんで、急加速して終わらせます」
ちょっと光の速度まで。
そう言うウォールの声を聞くことはできなかった。私は音を置き去りにした。
視界がホワイトアウトし、やがて何も見えなくなる。星が一つもない宇宙を旅する宇宙船はこんな感じなのかもしれない。
意識は急速に沈み、時の流れは限りなく零に近づく。
やがて、私は光になる――。
* * *
「……何やってるんですか?」
「『壁 越える方法』でググってる」
「あ、ここって圏外じゃないんですね。何か見つかりましたかー?」
「『【これがシュルレアリスムだ!】まず一人で抱え込まず無機物に頼ってみましょう』だって。なんか全体的にこの世界仕様なんだけど」
「ぼくが全ページ作ってるから当然じゃないですか」
「えっマジ? 100万件の検索結果全部?」
「いや、嘘ですけど」
「そっか……」
* * *
私は我が家の椅子に座り、我が家のテーブルに突っ伏していた。疲れた。机の上には味のしないお茶、味のしないクッキー、クッキーをつまむハクセキレイ。
私と目があうと、ハクセキレイは逃げだした。止まり木をプレゼントしたり餌をあげたりして気を引いてるのに、まだ仲良くなれない。人間以外の生き物は難しい。
「あの、焦ってませんかー?」
ウォールが天から切り出してきた。
私は起き上がった。焦っている、というのは壁越えのことだろう。
「そう見える?」
「はい。あの、壁を越えられなくて焦る気持ちはとてもよく分かります。ぼくも今まで数え切れないほどの人を見てきましたから。あくまでアドバイスなんですが、そういうときはゆっくり休めばいいんです。焦るほど急ぐ必要なんてありません」
<壁>は私の身を案じてくれているようだ。けれど
「それを焦らせている<壁>自身が言うってのは、中々皮肉じゃない?」
「そう、なんですよねー。そうなんですよね……」
「あ、ごめん。全然本気で言ったわけじゃなくて……」
私はため息をついた。元々あまりない幸福がどんどん逃げていく。
「はあ……やっぱ私焦ってるかも。余裕が無いよ」
「いえいえ、かまいませんよー」
私を拒む壁がいる。もうちょっと言うと、私を拒む世界がある。不条理でもなんでも使って、どうしても私に壁を越えさせたくないみたいだ。
一方で、私をおちょくりつつ、なんだかんだ助けてくれる<壁>がいる。ときどき<壁>も冗談みたいに私を殺しにかかるが、それも世界のルールの一つみたいに見える。ルールには従うしかない。
いや、むしろルール内で私を助けようとする結果、自分で手をかけることになるのかもしれない。ルール内でやれることをやっている、ような気がする。
助けるのも、拒むのも、「壁」。そうやって考えていけばいくほど、「壁」に対する悪感情と好感情がごちゃ混ぜになってしまう。
ただ、物質としての壁と生きている(?)<壁>の分離なんて、ウォールが一番分かっていることだろう。
なぜか、ウォールと私は似ていると思った。
「極論ですね、壁なんて越えなくていいんですよ。夢的にナンセンスだし、ナンセンスゆえに傷ついてしまうかもしれません。壁の先に何があるかお伝えできればすぐ分かるんですけど、これもやっぱルール違反なので……」
「ナンセンス、ねえ。そう言われると逆に越えたくなるよ?」
「まあ、そうなりますよねー。どうしても壁の先は気になりますよね。でも、反発まで計算して言ったわけではないですから」
<壁>の優しさ。人でない、無機物の優しさ。あるいは<壁>は優しさなんてものを分かってないのかもしれない。私が優しさと解釈しているだけで。
「……ありがとう」
つい、そんな言葉が口からこぼれ出た。久しぶりに心から何かに感謝した気がする。
とりあえず今の私は、必要とするものを与えてくれるなら無機物でも有機物でも何でもかまわないらしい。
<壁>に、感謝の言葉を言うのはどこか恥ずかしいけれど。
「どういたしましてー」
ウォールは素直に答えた。皮肉でなんでもなく、ウォールは自分の何かを恥ずかしがることは無いんだろうな、と思った。
じゃあ、ウォールはどんなことなら感じられるのだろう?
この世界に出るまでに、私と<壁>は無機物有機物の違いを超えて、どこまで分かり合えるのだろう?
完全に予定外なんですけど、ラブコメっぽくなってきてませんか?