第1夜:ジャイアントキリング
壁。
壁があった。
色は白。見上げていると首が痛くなるような高さ。
左右を見ると、この調子でずっと続いているようだった。
振り返ればまた、同じ壁がある。同じ色、同じ高さ、同じ方向。
つまり私は、平行に並ぶ二つの壁の狭間に立っていた。
* * *
これが夢だということに、私はすぐ気づいた。
だって私の部屋、壁二つだけの開放的空間じゃなくてちゃんと壁が四つあるから。あと、寝る前ジャージ着たはずなのに今なぜか学校の制服だし。
学校指定のシャツとスカートに赤っぽいネクタイ、ベージュのカーディガンを羽織り、黒のソックスとローファー。今日学校に行ったときと全く同じ格好だ。
ぼんやりする頭であたりを見渡す。本当に壁と地面以外は何も無いみたいだ。
なんとなく壁を触ってみると、大理石みたいな滑らかな質感をしていてちょっとびっくりした。色も高級コピー用紙みたいな綺麗な白色をしている。
地面も同じ素材みたいで、ローファーで蹴ってみるとコツコツという音がした。
なるほど素材はいい。でも、これだけしかない世界というのはかなり寂しい。
私は壁を伝って歩きつつ、少しずつ考え始める。
この夢、夢だと気づいても一向に目覚める気配がない。もしかしてこれって、夢の中で夢だと自覚して何でもできちゃうタイプの夢じゃないの? たしか、明晰夢って言うんだっけ。
聞くところによると、明晰夢では色々なことができるらしい。空を飛んだりとか、南の島に行ったりとか、漫画のキャラクターに会ったりとか、あとは……うん。今はちょっと出てこないけど、とにかく色々できるはずだ。
私の中で眠っていた感情が起きだす(夢の中で起きるというのもおかしな話だけど)。漠然とした高揚感。何でもできるというのは大変すばらしいことではないですか、とよく分からない口調になってしまう。楽しいことって、遊ぶ当日より計画を立てる段階が一番楽しかったりする。そういう気持ちだった。
しかし、私が具体的にやりたいことを思いつく間もなく、いら立ちが高揚感にとって代わってきた。「なんでこんな味気ない風景が、乙女の私が見ている夢なの!」という脈絡のない発想。
二つの壁が伸びる先を見ると、少なくとも地平線までずっと平行に並んでいるようだった。本当にこの世界には壁しかない。虚無の世界に私一人だけ。
ムカつくあまり壁を思い切り蹴ってみた。ビクともしない。そりゃ、こんだけデカい壁がちょっと蹴った程度で倒れるはずないけど。でも夢の主である私が蹴ったら倒れるのが筋じゃないか。我ながら理不尽とは思いつつ、更にムカついてきた。
よし。とりあえず、やりたいこと第一号はこの壁だ。私の部屋みたいにファンキーで可愛らしい模様にしてやろう。
私がそう思ったときだった。
「あー、あー。マイクチェック。聞こえますかー。それを言うならファンシーだと思いますよー。マイクチェック……マイクチェック……」
心臓をギュッと掴まれる感覚。びっくりした私は、声の方向に顔を向ける。真上だ。
「マイクチェック。聞こえてたら返事下さい。マイクチェック……マイクチェック……」
壁が帯状に区切る、雨が降り出す前の曇天。その空から声が届いているようだった。厚い雲全部が反響板になったみたいな、ありえない規模のエコーをしている。山びこのように発言が何回も何回も繰り返される。
壁の上に人影は見当たらない。誰が喋ってるんだ?
「マイクチェック。あ、エコーがひどいですか、調整しますね……はい、できましたー。こちらお察しの通り空からお届けしております。聞こえてたら返事下さい、マイクチェック」
天からの声が大分聞きやすくなったと同時に、私は少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
エコーの分補正されているかもしれないけど、結構いい声をしている。予想すると、細身で気だるげな20代男性という感じか。
そして冷静に内容を振り返って、途端に怒りが湧いてきた。初対面の相手の心を勝手に読み取ったり、的確にツッコミを入れたり、なんとも失礼なやつじゃないか!
今、夢の支配者は私なのだ。おびえる事はない、堂々と尋ねよう。
「聞こえてる。誰?」
「あー、ちゃんと聞こえてて良かった。突然驚かしてすいませんねー。ぼくはさっきあなたが蹴った<壁>です。以後お見知りおきをー」
<壁>が空から話しかけてきて、以後のお見知りおきを頼んできた。
* * *
「えー、もうお気づきだと思うんですが、ここはあなたの夢の世界です。だから壁が突然喋りだしたりするんですねー」
こいつ、超能力者の人間がそう名乗っているのではなく、どうやら本当に壁らしい。今二つ見えているもの、それが<壁>の全貌だ。
じゃあマイクチェックとかやっていたのは何なんだと聞くと、ただの小芝居だと返してきた。全然ノリが掴めない。
私は素朴な疑問をぶつける。
「夢の世界だし、私の明晰夢なんでしょ? なんで私の許可なく<壁>が勝手に喋りだしてんの?」
「えっと、なんか高圧的で怖いんですけど。美人なんだし笑ってくださいよー」
<壁>がお世辞で返してくる。しかし思い返してみると、たしかにこの夢に来てから感情の制御ができてない気がした。いつもの私に戻るため、数回深呼吸して落ち着く。
決しておだてられて気をよくしたわけではない。別に美人なんて言葉聞き飽きてるし、本当だしっ。
「それと明晰夢にも種類があって、全部が全部自分で決められると限らないそうですよ。だから<壁>が喋るのもちょっと大目に見てください」
「なるほどね……まあ、いいよ。私もあなたを蹴ったり、悪いところはあるから」
「いえいえ、蹴られるよりひどいことにも慣れてますからー」
かわいそうなことを言う<壁>は、この世界の基本情報について説明しだした。
といっても新しい情報はそれほどない。おおよそ私が見てきた通りのこと。壁と壁の間が約10m、壁の高さが約20mということ。長ったらしい名前を自称していること。これまで数え切れないほどの人がこの世界を訪れていること(だからか説明もこなれている)。
「で、ここからがこの世界について本当に大事なことです。あなたはただイメージするだけで、色んなものを出したり、色んなものになれたりします。あなたのメインウェポンなので是非覚えてくださいねー」
想像してものを作る、あるいは変身する。おお、ちょっと明晰夢っぽい。
ワクワクしてきた。何を作ってみようかな。……大仏、なぜか一番最初に大仏が浮かんできた。えっ、なんで夢の中で初手大仏建立しなきゃいけないんだ。夢にまで仏の教えを広める仏教徒の鑑かよ。
私の妄想を制するよう、<壁>は真面目なトーンで続ける。
「実験はあとでやってくださいね。もう一つ、重要なことがあります。あなたの目的はこの<壁>の世界を出ることです」
世界を出る?
私は白くつややかな壁を見上げた。高い壁。その先に何があるのだろう。
「っていうか目的って何? なんでそんなの勝手に決めてんの?」
「えっとですねー、この世界を出ない限り、あなたは毎晩この夢を見るんですよ。ずっと<壁>の世界に囚われるんですねー」
毎晩明晰夢を見られるって最高じゃない!? そのうち夢と現実の区別がつかなくなるかもしれないけど。
「あー、これ明晰夢に分類するとしたらかなり特殊なタイプなんですよー。記憶がほとんど現実に持ち帰れないので、夢と現実の区別がつかなくなって発狂、なんてことはありえません。……あと、あまり期待させる前に言っときたいのは、めちゃくちゃ楽しいことは絶対できないってことですかねー。全部、どこか奇妙な結果に終わると思います」
「は? それどういう意味?」
「いや、やれば分かるのでー。まあ、悪夢にはならないはずなので、ご安心ください。……でも、急いだ方がいいかなー、とも思います」
先ほどから<壁>が不審だ。
「めちゃくちゃ楽しいことは絶対できない」って何?
「悪夢にはならないはず」って、悪夢になるかもしれないの?
私が問い詰めても、のらりくらりとかわして全然答えてくれない。
ついに私は諦めて、地べたに座り込む。スカート越しの地面は固かった。この世界、夢の主に対してもうちょっと各方面で親切にして欲しい。
追及から逃れた<壁>は、平然と空から声をかける。
「さて、何から始めますか?」
うーん、どうしよう。
ちょっとやりたいことが思いつかない。だってめちゃくちゃ楽しいことはできないんでしょ? だとするとそこそこ楽しいことしかできなくて、そこそこ楽しいこと……。全然思い浮かばなかった。
<壁>からただよう絶妙な不審さと、壁しか存在しない殺風景な世界のあわせ技で、私は次第に混乱してくる。いら立ちが戻ってきた。頭を振って、意識的に押さえ込む。
私がふと前を見ると、やはり壁があった。
あまりにも大きな壁。
このとき、ある衝動が私の身体からムクムクと湧いてきた。「そうそう、今思い出したんだけど前からこれがやりたかったんだよ」って感じの。楽しいことや思い出に残ることをやろうなんて気持ちはどこかへ吹っ飛んでしまった。今はこれしか考えられない。
衝動に突き動かされるのもまた、夢の中にいたせいなのだろうか。現実の私だったらもうちょっと考えて動くと思う。
私は自分でも驚くほどあっという間に決心を固めた。
静かに、しかし確固たる意思をもって宣言する。
「壁を越えよう」
こうして、私の十夜にも及ぶ戦いが始まったのである。
* * *
右手を握り締めて、豆の種を強くイメージする。童話の筋を丁寧になぞりながら、種が芽吹くところを想像し、やがて雲の上まで届く巨木になるところを想像する。私がその巨木を登るジャックとなって、壁の上に到達するところを想像する。
ゆっくりと手を開けていくと、手の平に一粒の黒い豆の種が置いてあった。私はほっとしたため息をつく。できるかどうかかなりドキドキした。やればできるじゃないか。
私の様子を眺めていた<壁>が話しかけてくる。
「最初からメルヘンにぶっ飛んでますねー。普通の人が壁を越えようとすると、まず階段を建てたり梯子を作ったりするんですけど」
「ファンシーでいいでしょ?」
「はは。でも本当に良い傾向なんですよ。夢っていうのは何でもありですからね。むしろ常識的な方法は通用しないぐらいです」
次にシャベルを想像する。小学生のとき、学校の花壇の土をほじくりかえしたのと同じものが出てきた。それで白い地面を掘ってみると、いかにも固そうな見た目に反して柔らかい土みたいな感触でサックリ気持ちよく掘れた。壁のそばに穴を開ける。
作業をしながら私は<壁>に話しかけた。
「それにしてもさ、ここに二つ並んでるのが壁で、あなたも<壁>だったら区別がつかないでしょ。いちいち、なんだっけ」
「“無限の広野の中で静かに果てしなく成長していく<壁>”、ですねー」
「そう、それ。そんなバカみたいに長い名前で呼べないし。っていうか、こんな二つ名つけるなんて中二病なの? 壁なのに」
「いや、一応元ネタがあって……まあいいです」
喋りながら私は作業を続けている。掘った穴に種を埋める。続いて満タンのジョウロを想像して、水をかけてやる。喋りながらでもできるぐらい、想像は簡単だ。
「あー、壁って英語で何ていうんだっけ。簡単な英語だと逆に出てこないな、えっと」
「ウォールですね」
「それだ! じゃあ、これからあなたをウォールって呼ぶから」
「ご自由にどうぞ」
私が名づけしている間に種は芽を出し、葉を付け枝を付けはじめた。さすが夢、現実では起こらないことがいとも簡単に起こる。
ただ幹の高さが1mを越えた時点で、ドン引きするほど成長が急加速した。めっちゃ音がしてる。ウネウネというか、なんだろう……「植物が通常の数千倍の速度で異常成長するときの音」としか言えない、気持ち悪い感じ。どこから音が鳴ってんのこれ。
濃淡様々な緑色の幹が蔦のように絡まりあって、とっくの昔に壁の高さを越えていた。成長が止まった頃には雲まで届いているように見えた。最初想像した通りにできている。
「さあ、登りますか」
私は腕をまくり、ローファーを脱いだ。ついでに髪を頭の上で束ね直す。
木登りは小学生の頃散々やった。中学生になってからは一回もやってないけど、今でもできる気はしている。そもそも自信がなければこんな手段思いつかない。
豆の木の根元に立つと、昔と変わらず「見え」る感じがした。どこに足をかけ手をかければいいか、経験と直感で分かるのだ。
木の枝や蔦をヒョイヒョイ選んではスムーズに登っていく。センスさえあれば、小柄な体格というのは決してハンデにならない。私はどんどん宙に浮いていった。
私の勘は鈍ってない。むしろ夢の中に入って新たなレベルへ到達したのではないか。自分が怖い。今度の進路調査票には「木登りのプロ」と書いておこう。
そうして1分も経たず、壁の高さ半分まで来てしまった。
少し息を整えてから更なる高みへ向かうことにする。ここから先、10m以上の高さは今まで木登りでやった事がない。手汗がにじんでくる。滑らないよう注意しなきゃいけない。
しかし落ちるかもしれないとは思いつつ、不思議と怖く無かった。
「こういってはなんですが、猿みたいですね」
と、ウォールは軽口を叩いてくる。
「ウォールさ、それ女子に対して言う? 失礼だよすごく。私もちょっと思ったけど」
ジョークをジョークで返す余裕があれば大丈夫、と私は登り始める。
本当は一気に上ってしまいたかった。しかし猿、いや木登りの修羅と化した私ですら、残り5mまで来ると難しくなってきた。足場にする蔦や掴む枝の選び方がなんとも微妙なのだ。一度登っては引き返すのを何度も繰り返す。
むしろ、ここまでが簡単すぎたのかもしれない。自分の夢だから自分に甘くなってたのかな。自信が揺らいで、進路調査票に書くのはまだ保留しとこうと思った。
でも、本当にあと少しだ。コースが分かれば一気に登れてしまう気がする。20mという高さの壁も、案外楽に越えられそうだ。
休憩がてら眼下を望んでみる。ものが少し増えただけで、やはり寂しい光景のままだった。
白い壁に白い地面。豆の木の太い幹や蔦や枝葉。ここからでもはっきり見える大きさの斧。
斧?
「えっ、切られ……」
私がそれを認識するのとちょうど同じタイミングで、豆の木が傾きだした。壁と平行な方向。私が幹の下敷きになる、地面に直撃コース。
なんで、斧?
なす術もなく、無慈悲に緑の巨体は落ちていく。時間がゆっくりになっていく気がした。夢の中で死ぬときも、走馬灯がよぎるのかもしれない。
まるでバベルの塔。傲慢にも木登りのプロを自称したせいで私は……。
よどんでいく時の流れの中、空からウォールのいたずらっぽい声が響いてきた。
「良い発想だったんですが、残念ながら木に登っていたのはジャックではなく巨人だったというわけですねー」
まさか、こいつが、裏切って?
一度傾いた豆の木は加速することなく、むしろ減速していった。
次第に私の意識も薄れていく。芯まで疲れてベッドには入ったときの感覚。意識が薄れていくのが意識できる、というやつみたいだった。
私の思考や疑念すら、無意識の闇に吸い込まれていく。
「スプラッタになる前に現実へお返ししましょう。それではまた今度ー」
そうして身体が地面に叩きつけられる直前、私は自分でも意外なぐらいのんきなことをボーっと思っていた。
落ちるのってあんま爽快感が無いな、と。
* * *
壁。
白く高い壁。
永遠に続く壁。
二つ平行に並ぶ壁。
その狭間に、私は閉じ込められた。