37 パニック
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『今まで本当にお世話になりました』
家に帰った紘太朗がダイニングのテーブルで見つけた便せんには、そのシンプルな一文だけが残されていた。
――スズメの字だ。
紘太朗が事態を重く受けとめたのは、便せんと一緒に白紙のままの養子縁組書類が置かれていたからだった。
それはスズメが山科雀になることの意志放棄にしか見えなかった。
――昼間、スズメは携帯に出なかった。
胸騒ぎを覚えながらスズメに電話をかける。だがやはり電話が取られることはない。電話に出ろとメールを送っても、返信もなければ、着信に応じることもない。
『スズメちゃんがバイトに来ないの』
みいさんの言葉を思い出した途端、心の奥底から沸き出した嫌な予感が紘太朗を一気に飲み込んだ。
――ひとまず冷たいものを飲んで落ち着こう。
こういったとき、冷静さを失えばより事態を悪化させるだけだ。
そう冷静に考えられているからこそ、紘太朗はまだ自分が冷静である自信を強める。
棚からコップを取り冷蔵庫を開ける。目に入ったプリンを鷲づかみ、蓋を剥がしてコップに流し込む。いざ食べようとした段になって、スプーンを準備するのを忘れたことに気付いて、やはり少しは動揺しているようだ、と紘太朗は痛感した。
――あまり事を大きくしない方が良い。
コップの中のプリンをレンゲで掬いながら紘太朗は考える。
特に両親だ。
親に知れたらスズメも帰りづらくなるだろう。なぜスズメが家を出ようと考えたのか。検討もつかない。けれど一時の気の迷いに過ぎないに決まっている。だって昨日はあんなに楽しそうだったじゃないか。夕食のときだって、わがままを通して母に作らせたオムライスを食べて、声を震わせて喜んでいたじゃないか。
俺の『スズメ鳥かご飼い馴らし作戦』は完璧なまでの成功を収めて終了したはずだった。
だったのに。
――くそ。
今日に限っていやに食べづらいプリンが、紘太朗の苛立ちに拍車をかける。
――冷静さを失っているのか。
紘太朗は自分を疑った。
そもそも自分はこんなときに、なぜもそもとそプリンを食べているのだ。非常時に大切なのは迅速な行動ではないのか。スズメが帰るべき時間に帰ってこなければ、父と母も不審に思うだろう。そうだ時間がない。落ち着いている時間じゃなかった。大丈夫だ。俺の思考はまだ生きている――。
紘太朗はとり急ぎ家を出た。まず家を出ないことには始まらないと思ったからだった。そして、家を出て一〇メートルのところで財布を忘れたことに気がついて、家に戻ると玄関の鍵をかけるのを忘れていたことに気がついた。そもそも鍵自体を家の中に忘れている。鍵、鍵、とダイニングに放ったままのバックから鍵を取り出し、家を出ようとすると何か忘れているような気して、トイレを見て閃きを感じたから入ってみたものの何も出なかった。浴室にも何もなかった。まあいいか。今度はきちんと鍵を閉めて家を出ると、出て一〇メートルのところで、そうだ財布だ、と思い出した。駆け足で家に戻って財布を取り、再度家を出た紘太朗は玄関の鍵を掛けるのを忘れていた。




