30 咲良
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カレーが最後の一つになった。
次の劇場に向けて整頓が始まっていた他のおねえさんと違って、その楽屋は以前よりむしろ雑然としていた。
「カレー持ってきましたよ」
「そこ、置いといて」
化粧台に向かった咲良は鏡越しに言うと、人差し指だけをテーブルに向けた。
鏡に映る咲良の顔は随分赤い。傍らにはウイスキーのショットグラスがある。
「飲みすぎは駄目です」
「うっさいわね。こんなときくらいイイでしょ」
咲良が珍しく泥酔している。
――ダンスに差し支えるようなお酒の飲み方はしない人だったのに。
と一瞬思ったものの、そうかもう踊る必要がないんだと考え直して、スズメは改めて悲しくなる。
「他のおねえさんはもう次の劇場に行く準備をしてますよ。咲良さんも切り替えないと」
たしなめるスズメに優越感じみたものが沸いた。
――咲良さんを励ましている自分がいる。
咲良はくるっとスズメに向き直り、何かを探し始める。テーブルの上の文庫本を手に取り「これでいいか」とひとりで合点すると、本の角の部分を慎重にスズメの頭に打ちつけた。
「いだっ! 何をしますか!」
「アタシは次もここで乗る予定だったの!」
角で撲たれるだけの理由があったと納得して、スズメは痛みに耐える。
でも純粋に励まそうとしただけだった気持ちも、少し汲んでくれてもいい。
「今からでも他の劇場で踊らせてもらえないんですか?」
「簡単に言ってくれるけどね、そんなすぐに代わりのとこなんて見つからないのよ。いまストリップ劇場なんてどれだけあると思ってるの」
スズメは計算する。
一都道府県に二つはあるとして、大都市補正を考慮すれば――
「百くらい……ですか? あだっ!」
再び文庫本が飛んできたので、スズメは外れらしいと知った。
「アンタ現実を知らないにも程があるわ。ちゃんとした劇場なんて日本中探しても、もう二〇かそこらよ。今はもっと少ないかもしれない。地方なんて酷いんだから」
現在進行形でどんどん潰れてるのよ、と咲良は言う。頭に広がっていたストリップの世界が急速にしぼんでいく気がした。
「ここも大丈夫かしら……」咲良は儚む。
営業停止処分になった劇場がそのまま潰れるのは珍しくない、と結愛は言っていた。
でもスズメはいまいちしっくりこない。
営業廃止処分だというのならわかる。営業停止処分だとしても、売り上げがなくなるのだから確かに苦しいだろう。けれどモダンジャズの魅力的なストリップティーズなら、処分が開けさえすれば、まあなんとかなるはずだ。野辻さんだって見に来ると言っていた。それまでカフェの営業を頑張って食いつなげばいい。
そう熱弁を振るうスズメの頭に、再度文庫本が飛んできた。
「あんたね。再開したからすぐに元通り『オープン』しますってわけにはいかないのよ。処分開けですぐまた警察のお世話になれば、次はいよいよ営業廃止処分になる。だから再開したところでもう客は戻って来ない。警察沙汰になった店を敬遠する客もいるし、『オープン』しないストリップなんて誰も見に来ない」
でも、とスズメは思う。
モダンジャズなら――
「ダンスだけでも見に来てくれるお客さんがきっといるはずです」
「アンタ本当に馬鹿ね」
咲良が呆れる。文庫本で叩くのも忘れるほど呆れている。
「ダンスを見るために五千円払うなら、アタシなら一流劇団のダンスを見に行くわ」
スズメは言葉に詰まる。
五千円はモダンジャズの基本入場料だ。確かに五千円あれば劇団四紀の獅子王が見れてしまうし、大好きなアイドルのダンスさえ生で見れてしまう。
「ストリップにダンスなんて必要ないの。若くて可愛い子が肌を晒せば、それだけでいい」
以前も咲良にそう言われたことをスズメは思い出す。ストイックな練習なんて無意味だ――と、脚が痛くなるほど踊った後の楽屋で、お酒を傾けながら言っていた。
だからスズメは頷けない。
――ストリップには、ストリップでしか表現できない魅力がある気がする。
――ここまでストレートに妖艶を表現できるダンスが他にあるんだろうか。
スズメにはわからない。
「アタシももう潮時なのかしらね。お前みたいな年増は醜いからもう踊るなってダンスの神様が警告してるのよ」
「そんな神様嘘です」
――神様なら咲良さんのダンスがわからないなんておかしい。
「あら、ダンスの神様は結構酷いのよ? そうね……じゃアンタにひとつダンスの神様の話をしてあげようかしら」
「ダンスの神様の話?」
咲良は少しの間宙を仰ぐ。
グラスの氷をからんと鳴らして、おもむろに語り始めた。
「昔々あるところに、ダンスが大好きな女の子がいました」
それはダンサーを目指す女の子が、田舎を飛び出して上京する話らしかった。
――わたしのこと?
スズメは一瞬思ったけれど、その女の子は高校を卒業していたし、受けたのはアイドルのオーディションではなく、劇団のオーディションだった。
「オーディション会場には、モスクワのバレエ学校に留学してたとか、アメリカで武者修行してきたとか、有名劇団に在籍してただとか、そんなのがうろちょろしてたの」
だから田舎で多少バレエが上手かったくらいでは、とても通用しないと思ったらしい。
「女の子はダンススクールでちゃんと勉強しなければと焦りました」
でも、アルバイトで貯めてきたお金ではとても足りそうにない。
女の子が悩んだ末に選んだのは夜のお仕事だった。
夜の仕事と言っても、深夜のコンビニで働くのとはもちろん違う。
「短時間でお金をたくさん稼げるうえ、昼はダンスの練習に目一杯時間が使える夜のお仕事は、女の子にとってとても理想的だったのよ」
しかも安く住める寮まで斡旋してもらえたのだ。それが違法な寮だなんて、田舎上がりの小娘にはわからなかった。
「女の子は、昼はダンス、夜はお仕事の生活でへろへろになっていきました」
その仕事は想像していたよりはるかに肉体労働だった。
「女の子は親に頼れなかったんですか……」
スズメが質問を挟む。
「女の子はほとんど勘当同然で家を飛び出したの。女の子はプライドが高かったし、親はもっと高かったから、頼ることなんてできなかったのよ」
咲良が設定でも語るように答えた。
「それでも女の子は頑張りました。どうしてそんなに頑張れたのでしょう?」
――もちろんダンスが大好きだったからです。
そしてとうとう女の子の努力が報われる日が来た。
女の子は、とある売出し中の演出家が主宰する『ラ・シルフィード』のオーディションに合格したのだ。
「女の子の喜びは相当なものでした」
台本の自分の役の部分を、何度も見返してはにやけた。
レッスンで怒られることすら嬉しかった。
妖精Cの役は脇役だった。
でもここでアピールできれば次の舞台に繋がるかもしれない。
せっかく掴んだチャンスを逃してはいけない。
だから、女の子はただの脇役なのに馬鹿みたいに張りきって踊った。
「注意が疎かになったのは、疲れてたせいもあったのかしらね」
舞台が一時中断となり、会場から運び出された女の子は救急車に乗せられた。
女の子が足を滑らせたのは演出用の紙吹雪だった。
ダンスをなるべく大きく見せたい女の子の意欲が空回りして、本来踏む場所にはないはずの紙吹雪を踏ませてしまった。びたーんと音楽をかき消すほどのこけっぷりに、その日一番客席が沸いた。完全に自分のミスだ。女の子は怪我の痛みよりも、舞台を台無しにしてしまった申し訳なさに泣いた。
泣きっ面に蜂というか、病院に運ばれた女の子には、右ひざ前十字靱帯断裂という診断が下った。
そしてダンスの神様は女の子にこう宣言した。
「この怪我でダンサーとしてやっていくのは少し――」
「かくして女の子の夢は儚く潰えることになりました」
女の子は自分がダンスの神様に見放されているとしか思えなかった。
なんでダンスの神様は私を愛してくれなかったんだろう。
私はダンスの神様をとても愛していたのに。
「アタシはダンスの神様なんてもう大嫌いでした」
咲良の声は震えていた。
「でもダンスの神様だって、きっと――」と、スズメは否定しようとするけれど、続く言葉が出てこない。しどろもどろになるスズメの頭を咲良は優しく撫でた。
「馬鹿ね。話はまだ途中なんだから。……聞きなさい」
夢も希望も帰るところも無くして、この街でぼろぼろになって働いていた女の子は、ある日客とこんな会話になったという。
「キミ、スタイルいいね」
「昔、バレエしてたから」
その客は目を丸くして、ちょっと踊って見せてと言った。
サービスで踊ってあげたのは、ちょっと好みの客だったから。
劇団で踊るのは無理だけど、素人客なら喜ばせられるくらいに膝は回復していた。
「ウチの舞台で踊ってみないか」
即、スカウトだったという。
女の子にはそのお客さんが王子様に見えた。
子どものころ夢に描いた王子様とは容貌がかけ離れていておかしかった。
「ソフトリーゼントに無精ひげじゃねぇ」
照れながら笑う咲良が、スズメの中で女の子と重なる。
ダンサーを夢見て無邪気に微笑んでいた女の子の姿と重なる。
「きっとあんまりみじめだからって拾ってくれたのね。アタシの足でもまだ踊れる舞台があったのは嬉しかった」
――たとえそれがストリップだったとしても。
「アタシね。最近恐いの」
咲良は声を落とす。
「恐い……ですか?」
「うん。アタシってさ、今はもうここの専属じゃない?」
スズメは頷いて、そうなんだ、と思う。
「やっぱり考えるのね。アタシはいつまでストリップを踊れるんだろう、って。もしモダンジャズが無くなったらアタシどうなるんだろう、って」
――モダンジャズが無くなったら。
そう考えてしまえば、スズメの頭を自責の念が巡る。
それはやがて鼻の奥、目と目の間にたどり着いて、つんと刺激する。
「ごめんなさい。わたしのせいで――」
「ちょっと、どうしたのよ急に。馬鹿ね。なんでアンタのせいなのよ」
ぽろぽろと涙を落とし始めたスズメに、咲良は意味がわからず狼狽える。慌ててティッシュを引き抜いて、スズメの目元を拭った。
「……アンタはさ、ストリップなんてやめときなさい。わかったでしょ? そんなにいいもんじゃないんだから」
諭すように、咲良はスズメの頭を撫でつける。
「ガラガラの劇場でね、全部を晒して一生懸命踊ってるのに拍手一つ起こらなかったりするの。よく見ればかぶりつきの客が寝てたりする。あんなに惨めなことったらないんだから」
――じゃあどうして咲良さんはストリップを続けたいと思うんですか。
涙で声が潤むスズメに咲良は、そうね、と頷く。
「たくさんのお客さんから、わあって拍手があがると今でも足が震えるんだ。踊りを褒められるのはやっぱり嬉しい」
でもね、と咲良は続ける。
「引退のタイミングは考えてあるの。こうなったらもう辞めようってとき」
――どんなときですか。
「王子様に『妖怪』って思われたとき」




