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「なにあの感じ悪い男。スズメを電話に出せって繰り返すだけで、ぜんぜんっ、話にならない」
電話を終えた母が憤然として食卓に着く。スズメがこっちで見つかったことは、一応おばに連絡しておいた方が良い。父の意見に従った末の、母の不機嫌だった。
土曜の朝食。白米と味噌汁、それにベーコンエッグとサラダ。いつもの平凡な朝食が食卓に並んでいる。普段なら母が最後に食卓についたところで「では、いただきます」となるのだが、今日は少し事情が違った。
「あれ、あの馬鹿妹が新しい男見つけたに違いないわ。スズメちゃんはきっとあっちで肩身の狭い思いをしてたのよ。ねえ、しばらくウチに置いてあげましょう。いいでしょう?」
ペットでもねだるように言う母に、父が新聞に落としていた目を上げた。
「そう先走るな。スズメとろくに話もしないうちに」
紘太朗もまだスズメと会話と言える言葉は交わしていない。
昨夜は「迷惑が掛かるから」とすすり泣き泣き遠慮するスズメの手を取り、無言で家まで引きずってきた。
訊きたいことは山ほどあった。
――なぜ家出をしたのか。
――なぜあんな場所で泣いていたのか。
だがすんすんと鼻を鳴らす五年ぶりのいとこに対して、今はそれを訊くタイミングではない気がした。傷に触れない優しさだってある。だがそれはスズメから逃げているだけではないのか。問題を抱えた少女と関わりを避けようとする潜在的な薄情が、心のどこかにあるのではないのか。
と、思案巡らせているうち紘太朗は家にたどり着いていた。家に車を戻していた母が、スズメの肩を抱くようにして二階の空き部屋に連れていく。やがて母だけが下りてきて「今日はもう休ませてあげましょう」と言った。
――おはようございます。
ダイニングに降りてくるなり、ばつ悪そうに頭を下げたスズメの目は少し腫れていた。髪は整えられ、服は上だけをTシャツに着替えている。下は昨日と同じチェックのスカートのままだった。
スズメは遅くなったことを詫びて食卓に着く。紘太朗の左手側の席は三人家族では使いようがなかった席だ。年頃の女の子が一人いるだけで、朝食の景色はこうも鮮やかになるものか。
「ごはんおいしい!」と満面の笑顔で三角食べをするスズメに、客のお世辞といった響きはない。平凡な朝食。あんなに美味しそうに食べられるのは羨ましくさえある。
その笑顔を曇らせるような話題に触れてはいけないような気がしたまま、話題の核心に迫れないまま、朝食の時間は過ぎていく。東京へはどうやって来たのかだとか、朝はいつも何を食べているのかだとか、当たり障りのない質疑応答が繰り返される。
「朝は普段食べないんです」とスズメは答えた。
夜の仕事で疲れたおばが朝食より睡眠といった感じらしく、つられて自分も朝食抜きの習慣になってしまったのだという。
「でも、お腹空くでしょう?」
「お菓子を食べます。カロリー多いですから」
空になった食器が下げられ始め、父が席を立つ。
「スズメちゃん、しばらくウチでゆっくりしていきなさい」
食器をシンクに沈め終え、母もダイニングを出る。
「スズメちゃん、何か必要な物があったら紘太朗に遠慮なく言ってちょうだいね。あ、そうだ。昨日お風呂入ってないから気持ち悪いでしょう。シャワーも湯船も自由に使っていいし、洗濯物があったら出してくれていいからね。紘太朗あんた、スズメちゃんが使う部屋の片付けをしてあげなさい。余計な物は全部廊下に出しちゃっていいから」
中学教師でハンドボール部顧問の父と、学習センター勤めの母には土曜日でも仕事がある。
そして今、リビングに一人たたずむ紘太朗をどぎまぎさせるのは、浴室から聞こえるシャワーの音だった。
――女の子がお風呂に入っている間、男は何をしたらいいのだろう。
紘太朗は考える。猫とワインとバスローブか。違う。そうだタオルだ。バスタオルを用意してあげなければ。ああでもバスタオルは服を着る前に使う物だろう。脱衣所に置かなければ。脱衣所までなら入っても良いだろうか。でもバスタオルを口実に、何かハプニングを期待してきたとスズメに思われるのではないか。
思惟の迷路に嵌りこみ、苦悶する紘太朗をよそに「こーちゃーん。タオルって借りれるかなー」という声が浴室から響いた。
ご要望とあれば仕方がない。持って行くしかないだろう。紘太朗が満更でもない覚悟を決めて廊下に出ると、脱衣所のドアからひょっこり顔を出すスズメがいた。
紘太朗はタオルを差し出す。
「ありがとー」とスズメは能天気に微笑み、ドアの陰から片手を伸ばす。
ドアがぱたりと閉じられる。
紘太朗はリビングに戻り、今の出来事について考える。
なるほど、タオルがこちらの手にある以上、スズメは我慢して濡れた身体に衣服をまとうか、全裸のままでタオルを受け取るかの二択の判断を迫られたに違いない。だが花も恥じらう一六乙女が選ぶ選択肢がそっちでいいのだろうか。少し無防備すぎやしないか。
だがもしかしたらスズメにとって、男の前でシャワーを浴びたり、肌を晒したりするのは、とりわけ珍しいことじゃないのかもしれない。
風俗街で泣いていたスズメの姿に、援助交際やワリキリといった言葉が紘太朗の頭を過ぎった。両親を失ってから五年、良い家庭環境におかれていたとは思えないスズメが、そういった行為に手を出していたとしても、さほど不自然に思えない。
――昨日はなぜあんな場所で泣いていたのか。
家出してヤケになり金に困った挙げ句、何か強制わいせつじみたことでもされたのではないか。風俗街という場所だけにそんな下種の勘ぐりも働く。
これ以上うやむやにするわけにいかない。紘太朗はこぶしを握った。
スズメがもし人に言えないような道に嵌りこんでいるのだとしたら、更生の手助けをするのもやぶさかではない。多少強引にでも訊き出して、スズメを闇社会の泥沼から掬い上げる必要がある。
髪を拭き拭き現れたスズメは、白いTシャツにデニムのショートパンツをあわせていた。
「こーちゃんタオルありがとー」と、スズメはソファの、紘太朗の真横に腰をかける。なぜ敢えて隣なのか。甘い香りと濡れた艶髪が、写真をばらまいたように紘太朗の心を乱す。
紘太朗は震える手でインスタントコーヒーを二つ作り、片方を「ん」とスズメに差し出した。さんきゅーさんきゅーとスズメはそれを口に運ぶ。
「こーちゃん久しぶりだねえ。元気だった?」
「スズメこそ元気にしてたのか?」
「元気元気」
スズメは両腕に力こぶを作る仕草をする。
申し訳程度の力こぶができた二の腕は白くて、細い。白いシャツに透けたブラの形が気になった。
「昨日は元気そうに見えなかったけど……」
紘太朗の言葉に、スズメはあからさまに表情を曇らせる。唇をきゅっと結び、空気を凍らせ、その話題がタブーである雰囲気を匂わせる。
「なんていうか……。なんであんな所にいたんだ?」
強引にでも聞き出す。そう誓った紘太朗も引き下がらない。
スズメは何も答えなかった。目も合わせようとしない。紘太朗から逃げるように、テレビのリモコンを取り、ザッピングし始める。バラエティ、ドラマ、アニメ、最終的にアイドルグループが歌って踊る映像にチャンネルが落ち着く。
「ええと……スズメ?」
音楽に合わせて小刻みに体を揺らすスズメは、ご質問一切受け付けません風の断固拒否を漂わせていた。それ以上足を踏み入れてごらんなさい。もう口きいてあげないから。そんな横顔だった。
「あの……言いたくないならいいんだよ」
紘太朗の決意は儚く散った。
アイドルが踊り終え、テレビは大御所ロックバンドの映像に切り替わる。テレビに興味を失ったスズメは表情を明るく戻した。
「こーちゃん」
「ん?」
「昨日は気を使ってくれて、ありがとね」
「き?」
「わたしのこと、公園にいたって言ってくれた」
昨日、スズメを家に連れて帰った際、紘太朗は母に「河川敷の公園にいた」と説明した。風俗街で泣いていたと正直に話せば事を荒立てる気がしたし、何よりスズメが傷つく気がした。
「まあその……なんか困ってることあったら話せよ。金とか」
「……うん」
スズメは気まずそうにコーヒーを傾ける。紘太朗の動きもシンクロした。
「あ、そうだ!」
スズメが突然声を張った。
「ねえ、こーちゃん」
「ん?」
「インターネットって借りれる?」
困ってることあったら話せとは言ったが、そういうことじゃない。
「ウチは無線LANだから、無線対応のパソコンがあればどこでもできるけど……」
「パソコン借りれる?」
「俺のノートパソコンでよければ……」
――大丈夫なはずだ。
見られて困るデータは、誰にもたどれない場所に保存してある。
「やった! ノートパソコンならあの部屋でもできるよね」
天井を指して、スズメははしゃぐ。
パソコンを取りに向かう紘太朗に、スズメが急かすようについて来る。パソコンを渡すと、スズメはそのまま隣の部屋にこもってしまった。