26 悪夢
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とある平日の昼間。
車の後部座席には、祈る気持ちでシートのレザー地を掴むスズメがいた。
――逃げて逃げて。
マグナによく似た黒猫が道路を逃げ惑っている。
パニックになって疾走する猫は、道路をただ横切ろうとしていただけだった。
それなのに、猫を見つけた運転席の男は、ブレーキではなくアクセルを踏んだ。
田舎の空いた県道、他に車はない。
猫は加速する車から逃れようと対向車線に走るけれど、男はお構いなしにハンドルを切る。
――逃げて逃げて逃げて逃げて。
車が歩道の植栽を掠める。運転席の男はハンドルを軌道修正すると、バックミラーに映った植栽に向かって悪態をついた。
「クソっ、惜しい!」
猫が間一髪で植栽に逃げ込み、スズメは安堵の息をつく。手のひらに驚くほど汗をかいている。けろけろ笑う助手席の義母が、男以上に腹立たしく思えた。
まだ慣れないアルバイトを終えたその日、家に帰ると玄関に男物のサンダルが並んでいた。
――誰?
居間の襖を開けると、派手なシャツの男が缶ビール片手で、まるで自分の家でするようにくつろいでいる。隣では義母が媚びるような笑みを浮かべていた。
「こんばんは」
スズメは怪訝なりに頭を下げた。
「一六ってマジ?」
返ってきた言葉が想定外でスズメは戸惑う。男はお構いなしで、「やっぱり似てねえな」と義母に視線を絡ませた。
男はその日から、当然の権利のごとくアパートで生活し始めた。スズメは男との会話を極力避けた。男も積極的に話しかけてこないはせめてもの救いだった。
憂鬱なのは義母が昼間に仕事を入れた日だった。基本夜仕事らしい男――何の仕事をしているのかはわからないけど――と2Kのアパートに二人きりという状況が発生する。そんなときは自分もバイトを入れてしまえばいいのだけど、その日はシフトに入れてもらうことができなかった。
仕方なく自分の部屋に閉じこもったスズメが「踊ってみた」の新作動画をアップしていると、後ろの襖が予告なく開いた。
「何してんだよ」
訊かれたときにはもう、男の顔が背後に迫っていた。
唐突に肩を抱きすくめられ、強烈なアルコールの臭いに包まれる。煙草と香水と体臭も混ざって、スズメの嗅覚はバイト先のラブホテルのゴミ集積所を思い出した。バイト先で一番苦手な場所。
――恐い。
降って沸いた恐怖に、スズメの身体がこわばる。それでもなんとか腕を解こうとささやかにもがくと、男のシャツの袖がずれて毒々しい色の模様が覗いた。それはお洒落なタトゥーの類には、スズメの眼に映らなかった。
――怒らせちゃだめだ。何をされるかわからない。
スズメは情けない笑みを浮かべながら、男の顔色をうかがうしかなかった。踊るのが趣味だということや、ネットに動画をアップしていることを、男の機嫌を損ねないように話した。自分の大好きなこと――最もプライベートな部分をこの男に知られるのは、なぜかとても悔しかった。
油断した男の腕の力が徐々に緩んでゆく。
一瞬の隙をついて、スズメは腕をすり抜ける。
すかさず距離を取って、引きつった愛想笑いに非難を込めた。
男はへらへら笑いながら――
「親子になるんだからいいだろうが」
勝ち誇ったように吐き捨てて、部屋を出て行った。
――この出来事をお義母に話すべきだろうか。
逡巡するスズメ。
けれど、あの義母に相談したとして解決するのか疑問だったし、なにより自分のせいで義母と男の関係に亀裂が入るのを躊躇った。
四年前に離婚して以来、ずっと独り身の義母。離婚の原因は自分だった。半ば強引にスズメを養子に取った義母と、子どもを欲しがらなかった義父の主張が衝突した。そのいさかいは、やがて原因であるスズメを飛び越えて、お互いの些細な欠点を大仰に指摘しあう泥仕合に発展した。
離婚後、生活水準を下げるため引っ越した古めかしい市営アパートを見上げて、義母は言った。
『あんたさぁ、さげまんって知ってる?』
スズメはうつむく。
『勢いで引き取るんじゃなかったわ』
スズメは責任を感じた。
――眠れない……。
その夜、スズメは布団に籠もって、漠然と襖を眺めていた。
普段夜仕事のはずの男が、なぜか居間にいる。
最大の問題は、義母が仕事でいないことだった。
襖の向こうで流れるテレビの笑い声に、時折男の笑い声が混じった。
テレビはバラエティ番組らしかった。テレビの能天気な笑い声が腹立たしい。とても笑える状況じゃなかったし、それがあの男を楽しませているという事実が面白くなかった。あんな男を楽しませてはいけないのだ。あの男の気分を良くするものなんて、すべてこの世界から取り払われなければいけないのだ。
――と、テレビの音が消えた。
唐突に、時間が止まったかのような沈黙。
静寂の中で、襖が、すうっ、と開いた。
隙間から漏れる光がスズメを貫く。逆光のシルエットに、変に輝く目が浮かんでいる。それは子どもの寝顔を眺めて幸せを感じようとする父親の目には見えない。
――目を逸らしちゃ駄目だ。
なぜそう思ったのか、スズメ自身わからない。動物の本能なのかもしれない。スズメは男から視線を逸らさないように上体を起こす。今は非難の目を向けることしかできない。尻と足だけを使って後ずさる一方、右手で枕元を探る。ない。部屋に一歩踏み込んだ男の足から、邪悪な決意が伝わった。
「親子なんだからいいだろうが」
脅すような男の声。足の距離が縮まる。
――どこ? こんなときのためのお守りだったのに。
近づく男。枕元を探るスズメの右手が焦る。
刹那、求めていた金属質に指が触れた。
――あった!
チチチチ。
音を鳴らすと、足が躊躇したのがわかった。
その音の意味を男も理解したらしかった。
スズメは抱きすくめられたあの日以来携帯していたカッターを、男に見えるように、居間から漏れる光にかざした。
――それ以上来たら刺します。
自分でも情けないほど震えた声だった。
だからそれでも近づいてきた足は、刺せるはずがないと考えたのかもしれなかった。
♀
体がびくんと痙攣して、跳ね上がった膝ががつんとテレビ台を蹴ると、驚いたマグナが脱兎の勢いで逃げていった。
夢か、とスズメは気づく。家出して以来よく見る悪夢だった。
「痛たた……」
テレビ台にぶつけた膝をさする。まだあの日の傷跡が残っている。
カッターで切ったらしい傷。
らしい、というのは、我を失っていたスズメ自身よく覚えていないからだ。
正気に帰ったときにはもう男の姿はなく、ただ漠然とした痛みだけが残っていた。
痛む辺りを見ると、パジャマのパンツが裂けて血が滲んでいた。男を牽制するためにカッターで空を切り続け、勢い余って自分の膝を切ってしまったらしかった。
茫然自失のスズメの手には、不吉な感触が残っていた。
――膝以外にもどこかを切ったかもしれない。
もっと確かなものを切りつけた感触が残っていた。
だけど結局、膝以外に怪我は見つからなかった。
『今まで本当にありがとうございました』
居間でそうしたためて、アパートを出たのはその朝だ。
山科家に保護されて、メールの着信で目を覚ましたのはその翌朝だ。
『家に戻らないとお前の周りが不幸なことになるぞ』
脅迫。
――だからもうあの家には戻りたくない。




