2 回想
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「規程なんて調べてる暇あるなら、さっさと私に連絡するなり、警察に電話してみるなりしたらいいでしょう! まったくあんたは、いつも一人でぐだぐだ考えてばっかりで――」
二分ほど続いた母の叱責は「そういう融通利かないところ、ほんと法律家向きだわ」と、どこか法律家を蔑んだ口調で締め括くくられた。
母は、紘太朗が将来目指しているのが法律家だと知っているから、そういう皮肉めいた言い方をしたのだけれど、紘太朗はむしろ悪い気がしなかった。
タイヤを鳴らしながら警察署に車を向けた母に届けは任せるとして、今自分は何をすべきだろうか。
「スズメちゃんって向こう見ずなところがあるから」
去り際の母の言葉が思い出される。
向こう見ずとは優しい言い方だ。
あれは無謀とか猪突猛進とかいう言葉の方がしっくりくる。
スズメのことだから、何も考えないで家を飛び出したに違いない。
紘太朗はそう熟考巡らせたから、家を飛び出さずにいられなかった。
――五年も会っていないいとこが、この街に来ている可能性がある。
都合が良すぎる考えだけれど、他にあてがない以上、それを前提に街を歩いてみるしかない。
紘太朗はスズメとの記憶を絞り出しながら、思い出の場所を経由していく。
よく一緒に歩いた大通りを過ぎ、スズメたちが来る際は出迎えに行った地下鉄の駅にたどり着く。
この街で行われる大きな祭りを、泊まりがけで見に来るのが、スズメの家の恒例行事だった。
だがそれも五年前までの話。
スズメは五年前、一一歳で両親を亡くしている。
二時間に一人が命を落とすと言われる不幸が、彼女の両親には一瞬で降りかかった。交通事故だった。孤児となったスズメは、紆余曲折を経ておばの家に引き取られた。あの親族会議の日以来、紘太朗はスズメに会っていない。
弾丸のような子だったなと、紘太朗は懐かしむ。
幼いスズメにテレビゲームのカートを操作させれば、彼女のブレーキボタンは決して押されることがなかった。アクセルボタンを押しっぱなしで、バイク乗りのように身体を傾けながら、コース外のタイヤバリアに突っ込んでいった。紘太朗は何度もブレーキを教えた。だがスズメを止められるのはもはやタイヤバリアだけと言ってよかった。スズメはタイヤバリアに武器の爆弾を投げさえした。
ゲームだけならまだいい。スズメは現実の道でもその調子だから困ってしまう。見通しのつかない狭い路地、紘太朗が「危ない」と止めても、スズメは「まあなんとかなるよ」と言いながら、ぐんぐん自転車を走らせてゆく。相手の車が止まってくれるから良いものの、そんな風にして何回か死にかけているのを本人は気付いていない。スズメという子は、危険予測が致命的にできていない子だった。
(――少し似てるかな?)
紘太朗は駅前の大交差点に少女の姿を見つけては、スズメのイメージに重ねてみる。だが上手くいかない。五年もあれば一一歳の少女は蝶へと変わる。そもそも一一歳の姿でさえもう曖昧だ。万が一、スズメがこの街に来ていたところで、自分はスズメに気付いてやることができるのだろうか。これは途方もなく徒労なのではないだろうか。
交差点を渡り、大提灯が下がった門を抜ける。露天が閉まった仲見世通りは閑散としていた。寺の境内を捜索しながら通り抜け、よく一緒に遊びに行った遊園地――はもう閉園時間が過ぎていたが、念のため外周をぐるりと歩いてみた。心辺りも底を突き、ホテルを一軒一軒訊ね歩いてみようかと思ったけれど、ホテルが客の情報を教えてくれるはずもないと思い、やめた。
宿泊場所――と考えて、紘太朗はまたドキュメンタリー番組を思い出した。
居場所を無くした不幸な家出少女たちは、性交渉と引き替えにネットで知り合った男の家に泊まったり、風俗店で働くことと引き替えに違法な寮に入ったりするのだという。
紘太朗の足は無意識に夜の風俗街に向いた。
それはスズメを探すためでもあったし、その一帯を通るのが家へ帰る近道だったからでもあった。一時間も歩き詰めで足が疲労している。十分に探したし、もはやあてもない。その一帯を探して見つからなければ、もう仕方がないのかもしれない――。
紘太朗はしようがなくなって空を見上げた。
星のない空は暗く、ランドマークタワーの紫が妖しく煌めいていた。
この夜空の下、あのいとこはどこをどんな思いで彷徨っているのだろうか。
紘太朗は昔、この風俗街にスズメと一緒に忍び込んだことを思い出した。
母の「あの辺りに近づいては駄目」という執拗な警告は、むしろスズメに足を向けさせた。行ってみれば別になんてことはなかった。ただ看板に書かれた店名の書体や色使いが妙に生々しくて、子どもの目にもすぐ普通の店ではないとわかった。
その街の通りの一角に、他の店とは様相が違う店があった。
その店に妙に興味を示した幼いスズメは立ち止まった。
『どうしたの?』
『舞姫だって』
二人で店の看板をまじまじと眺めていると、階段を下りてきた従業員の男がお菓子をくれた。そして優しく首根っこを掴まれて、二人仲良く通りの外につまみ出された――。
今、通りすがる男たちの目をやけに集めている店は、そのストリップ劇場だった。
好奇が混じったその視線は、店そのものからは少しずれているように見える。
――今どき注目を浴びるような店でもないだろう。
そう不思議に思いながら通り過ぎようとしたとき、一人の少女が紘太朗の目にとまった。
ビル脇の狭い路地、裏口の門扉に背を預けるようにして泣いている。
年は一六、七といったところだろうか。髪は肩まで伸びた濃い栗色。白のブラウスの上に、茶のカーディガンを羽織り、チェックのミニスカートがこの場所では少し無防備に見えた。どこか幼く見えるのは、くまのぬいぐるみが揺れるバックパックのせいかもしれない。
臆病な紘太朗が思わず声をかけたのは、憐憫の情が勝ったからでも、意外に大胆な自分がいたからでもなかった。
声に驚いた少女の顔は、五年の月日を経ても天乃雀に違いなかった。