18 第三作戦と深夜零時の電話
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「紘太朗くんちょっと二階に行ってきてもらえる? スズメちゃんが結愛おねえさんの楽屋から帰ってこないの」
皿を洗う紘太朗にみいさんの命が下る。
一九時前は、カフェが最も忙しい時間と言ってよかった。ちょうど夕飯時であるし、仕事を終えたサラリーマン客も増える。くわえて、一八時三〇分に終わる三回目の舞台を見た客と、一九時から始まる四回目の舞台を見る客がカフェでかち合うという事情も繁忙を手伝う。
店はフロアもキッチンも区別なく慌ただしくしていた。スズメの手も借りたいとはこのことだった。だが今、誰かがスズメを探しに行けば、店全体の戦力がさらにマイナスとなること想像に難くない。危機的状況を迎える。その状況を生むとわかっていて、みいさんが敢えてこの自分を選んだところの意味とはこれいかに――。
あまりに鋭い答えが導かれそうだったので、紘太朗は考えるのをやめた。理に適い過ぎていたから、気のせいだと思うしかなかった。厳しい現実からは目を背けるに限る。
「あ、紘太朗くん待って。これ鍵。二階の裏口はオートロックだから」
鍵を手渡され階段を上る紘太朗は、妙な緊張に取り憑かれていた。ある種の興奮と言ってもよかった。未成年かつ男である自分が、楽屋になど入って良いのだろうか。ストリップ劇場の楽屋である。もしかしたら、踊り子さんがけしからん格好でうろうろ歩いていたりするかもしれない。きっとするはずだ。
紘太郎は震える手で扉に鍵を差す。ドアを開けると、薄暗い廊下が期待を裏切って広がっていた。籠もった低音が壁を伝わり響いてくるので、舞台の方向は想像がつく。だが楽屋というものの場所がわからない。舞台袖にあるのだろうか。
見ると、薄暗い廊下に光を投げる部屋が一つあった。ドアが少し開いている。誰かいないだろうか。「ゆあおねえさん」の楽屋を聞かなければ。なぜか忍び足になる紘太朗。部屋から人の声がした。
「――わたしだって、ダンスで男の人を喜ばせたことくらいあります」
スズメの声だったうえに聞き捨てならない話だった。ドアの隙間から覗くと、部屋にはバスローブの女性と猫耳メイドの後ろ姿がある。紘太朗がドアに張りつき会話を盗み聞くようにしたのは、いきなり女性の楽屋に入るのは失礼だと思い、まず中の様子を探ろうとしたからだった。ということにした。
「前にダンスの動画をアップしているって言ったじゃないですか」
「ああ、踊ってみた、とかだっけ」
「わたしの動画って普通、アクセス数が千から二千くらいなんですけど、一つだけ突然一万を超えた動画があったんです」
「へえ。一万ってすごいじゃない」
「でも恐いですよ。いつもと違うことをしたわけじゃないのに、急にそんなにアクセスが増えたら。それでなんでだろう、と思ってコメントを見たんです」
「そしたら?」
「『見えた!』って」
「見えた?」
「ターンしたときにパンツが見えてたんです。わたし全然気が付かなくて」
「アハ。なんだ、アンタもどう踊れば人気が出るかわかってんじゃない」
――と、突然、紘太朗の後頭部に衝撃が走った。同時に、反動で前頭部をドアにごつんとぶつけた。したがって部屋の中の二人がびくっとした。状況が理解できないまま紘太朗が振り返ると、丸めた雑誌を手にした亮がいた。
その後、紘太朗はスズメと一緒に亮に怒られ、カフェに戻ればみいさんにも怒られ、帰路につく二人は仲良くしょんぼりしていた。
家に帰った紘太朗はパソコンを立ち上げる。立ち上げながら、動画を保存するのはどうやるんだったかな、と考えていた。
最近ネットをしていなかったな、とも思った。
バイトを始めてからというもの、家に帰ってくるのは二一時半。ただでさえ勉強の時間が減っているうえ、バイトの疲れがたたり机上で力尽きることも増えた。大学受験を控える身にもかかわらずそんな有様だったので、ネットをする時間などは用意されていなかった。
紘太朗はブラウザを開き、履歴を確認する。
またストーカーと「勘違い」されそうだなと紘太朗は思う。けれどこれはやむを得ない行為なのだ。スズメの保護者として当然の務めであり義務である。子どもが不適切なサイトを閲覧していないか確認する親のようなものだ。よって紘太朗の中では、これがストーカー行為に当たるわけなどがなかった。
履歴の一件に著名な動画サイトの名前があった。
アクセスするとログイン画面に変わる。スズメが入力したIDとパスが保存されていたのは僥倖だった。スズメのアカウントでログインすると、動画のサムネイルが一〇ほど登場する。その「踊ってみた」系動画の真ん中に立っている少女は、確かにどれも天乃雀に見えた。
「ねえ、こーちゃん。ゲームしよー」
勢いよくノートパソコンを畳んだ紘太朗は、ほんの一瞬、自分の手に音速の世界を見た。ノックもなく部屋に入ってきたのは勿論スズメだ。パソコンの液晶が割れたのではないかと紘太郎は少し心配だった。
「あ、変なサイト見てたでしょ」
そう誤解されていた方がまだましな気がしたので、紘太朗はえへへと腐ったじゃがいものような笑みを浮かべただけで否定はしなかった。
スズメはゲームをしようという割に、テレビの前ではなくベッドの上に陣取る。寝そべったスズメの姿を見て紘太朗は目を見張った。臀部まですっぽり覆える丈の長いセーターを着ている。問題なのはその下だ。セーターに隠れた下半身。上手く隠されてはいるが、ちらり見えたそれは、下着しか穿いていないことを意味しているように思えた。スズメには無防備なところがあるとはいえ、さすがに堂々と下着姿を晒したことはない。おやおや、何のゲームをしにきたのかな? と紘太朗は思った。
「その格好はちょっと開放的すぎないか」
紘太朗は上っ面だけで窘める。
「こーちゃんなら別にいいでしょ。いとこだし。別に見えてるわけでもないし」
山科紘太朗なんて男として意識していない――そんな口調で平然と言ってのけて、スズメは顔を赤くした。
「ほらゲームゲーム。早くつけて。カートのヤツね」
紘太朗の視線をごまかすようにゲーム機を指すスズメ。紘太朗は昔よく一緒に遊んだカートゲームの最新版にソフトを入れ替えて、ゲームとテレビのスイッチを入れた。
「はい、こーちゃん見本見せて」
上級者用のコースを勝手に選んで、スズメはコントローラーを差し出す。望むところだと紘太朗は思った。このゲームは全て攻略済みだ。ロケットスタートを華麗に決め、ドリフトを荒ぶらせ、超難度コースを攻略する山科紘太朗を見れば、スズメは魂が震えんばかりの頼もしさを感じ、いっそわたしのギアもシフトアップしてほしいと思うに違いない。
助手席に女の子を乗せている設定で、紘太朗はこの手のゲームをよくした。レコードタイムが出れば「まあこんなもんかな」と隣の空間に向かって一人で格好をつけたし、ミスをしたときは「ごめんごめん」と隣の虚無に向かって一人で呟いたりさえした。
ところが今、隣にいるスズメは妄想ではない。
設定上の愛すべき女子たちがそうしたように、スズメも瞳を輝かせて紘太朗を見つめるはずだ。紘太朗はそのリアルな表情を確認したくて、横目でスズメの様子を窺う。
スズメはゲームそっちのけで女豹のポーズをしている。
――どういうことだ。
紘太朗のカートは障害物の土管に激突した。
四つんばいになったセーターの胸元はざっくり開いている。真っ赤な顔で親指の爪を噛みながら、上目遣いの視線をこちらに送っている。すると、今度はその体勢のままくねくねと尻を振り始めた。紘太朗はあやしいおどりだと思った。紘太朗は困惑した。いろいろ段階飛ばしすぎだろうと思った。深夜二三時だった。
すっくと立ち上がる紘太朗。ベットに向かって歩を進めると、スズメがぶんぶん手を振って慌てる。
「なになになになに。こーちゃんすとっぷ! 実験成功! 宿題はこれで終わり!」
いったい何が成功したというのだ。せいこうはこれからだ。
体裁を構う余裕もなく、下着も露わにベットの隅に逃げていくスズメ。紘太朗が追いつめたところで、スズメは枕元にあった何かを握った。それを見て、紘太朗はぎょっとする。
「あの……さすがにそれは過剰防衛じゃないかい?」
おずおずと紘太朗が指すスズメの右手には、カッターナイフが握られていた。スズメが自分の部屋から持ってきたのだろう。さすがに刃は出ていない。
「これはただのお守りだから」と迷いのない笑顔を見せるスズメ。
表現がおかしいと思った。それはお守りではなく護身具というのだ。
カッターナイフの鋭い銀色に正気に返ったものの、紘太朗の混乱は続く。
――結局、今の出来事は何だったんだ。
誘ってきたのはスズメの方だったはずだ。紘太朗だって愛猫マグナカルタに「おあずけ」を教えるときに、カッターナイフを使ったりはしなかった。そんな学習方法はあんまりだ。
学習方法――という言葉で、紘太朗は肝心なことを思い出した。
出し抜けに押入れを漁り始める紘太朗。スズメはセーターの乱れを直しながら、怪訝な目で眺めている。「あったあった」と紘太朗が目的の段ボールを引っ張り出すと、スズメは中身に興味を持ったのか、肩を並べてきた。
紘太朗は要、不要を選別しながら箱の中身をテーブルに並べていく。それを手に取ってスズメが言った。
「おお、中学の教科書だ」
「そ。受験で使った参考書もある。懐かしいな」
「復習するのかな?」
「俺に中学の復習は必要ない」
「……」
何かを察したらしいスズメが、とっさに傍らのコントローラーに手を伸ばす。ゲームに逃げようとしている。ただちにケーブルを引っ張り、それを取り上げる紘太朗。ぶう、とスズメは不満そうにした。
「安心しろ。わからないところは教えてやる」
「でもわたし、もう勉強しても意味ないし……」
「意味ないことはない。踊り子になるにしても高校くらいは出ておいた方がいい」
「高校って、わたしが受験するの!?」
「ただ勉強しても仕方ないだろう」
むう、と考え込むスズメ。「高校なんて考えたことなかった」と、受験用の参考書をぱらぱらめくって呟く。
その横顔が、あの日高校の教科書を興味深そうに漁っていたスズメの横顔に重なった。
――スズメに高校を受験させるのはどうだろう。
それが紘太郎が考え出した新たな作戦――第三作戦だった。
作戦を煮詰めるほど、それは紘太朗とって自分に課された務めであるように思えだし、やがて使命へと昇華した。
まだ五月だから時間は十分にある。「高校に通えるかもしれない」そんな希望がスズメの目の前をちらつけば、ストリップなどという考えもどこかに吹き飛んでしまうだろう。スズメを、同世代の女子が本来歩むべき道へ引き戻してやる。人を正しい道に進ませるのはいつの時代も勉学だ――。
「でもさー」とスズメ。
「やっぱり無理だよ。わたし高校に通うお金なんてないもん」
「公立高校の学費って、色々込みでも年間四〇万円くらいあれば足りるんだってさ。奨学金制度もあるし、やむを得ない事情があるなら学校もバイトを許可できる仕組みになってるらしい。それならなんとかなりそうだと思わないか? ウチの親にも何か方法がないか頼んでみるし」
「わざわざ調べてくれたんだ……」
「足りなければ、俺のバイト代を使ってくれてもいいし」
スズメが参考書から顔を上げた。そして、またすぐに目を伏せた。
「……駄目だよ。こーちゃんだってお小遣いが欲しいからバイトしてるんでしょ」
「バイトは社会経験の一環みたいなもんで、金は大学出てから稼ぐつもりだから今はどうでもいい」
「でも、もし高校に行ったら、踊り子のお稽古ができなくなっちゃう」
「どっちにしても一八まで舞台に立てないんだ。稽古は高校を卒業してからでも遅くないだろ」
――稽古を続けさせる気など、無論ないが。
「それにわたし、お金稼いでひとり立ちしないとだし……」
「稼げるようになるまで、ここにいればいい」
スズメは紘太朗から隠すように、顔をテレビに向けた。
ゲームのデモ画面が流れっぱなしになっている。
「わたし、お世話になってもいいのかな……」
スズメがぽつり。
「歓迎するって、ずっと言ってるんだけどな……」
ぽつり返す紘太朗は、心の中で密かにこぶしを握る。
頑なにこの家を出ようとしていたスズメのその発言は、作戦進行上、大きな一歩に思えた。
「ねえ、こーちゃん。わたし高校受かると思う?」
「まあ、なんとかなるさ」
スズメはへへーと笑って、教科書を開く。
理科の教科書。「仕事の能率がいいのはどちらか?」というフレーズが気になったらしいスズメは、エネルギーと仕事率の計算式に興味を持つ。ひとたび疑問を持ったスズメは深夜だろうとお構いなしに質問の鬼と化すけれど、今日の紘太朗にとって鬼をなだめる作業は喜びでしかなかった。
「じゃあ五〇〇Wの電子レンジで五〇秒かかる仕事を、一五〇〇Wのレンジがしたときのエネルギーは?」
「うー、時給三〇〇円分くらい?」
「レンジ時給高くない? あ、でも最低賃金法違反か」
「ふふふふ。あ、ほらこーちゃん下でレンジ鳴ってる」
「はいごまかさない」
「いや、ホントに」
耳を澄ますと、確かに一階で物音がする。
だがよく聞けば鳴っているのはレンジではなかった。
――ぷるぷるぷるぷるぷる。
時計はすでに零時過ぎ。この時間に電話は少し非常識では? と紘太朗は思う。