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「スズメちゃん。これとナマチューを結愛おねえさんの楽屋に持って行ってもらえる?」
生中は生ビールの中ジョッキのことだ。五五〇円。スズメは学んでいた。
――でも生小や生大は置いてないのに、生中と言うのはなぜだろう。
スズメはみいさんの指示通り、生ビールをサーバーからジョッキに汲み、プラ製のパックに入った揚げたてのポテトと一緒におかもちに入れる。
スズメが二階に出前を運ぶのは、これが二回目だった。
出前のときは裏手の階段を上り、従業員用の入口から入ることになっている。劇場に出勤するときと同じ。初めての出前のときは、正面から入ろうとして受付の竹井さんに怒られたから注意しないといけない。
このカフェが出前を受けつけるのは、劇場スタッフの注文だけらしかった。
『――ここは出前もするんですね』
初めての出前のとき、スズメは亮に訊ねた。
『一階のカフェは元々、劇場スタッフの食堂を兼ねてたんだ。開場中は外に食いに行けないだろ?』
『スタッフのために食堂を作るなんて太っ腹な経営者ですね』
『踊り子以外にも芸人やら役者やらヒモやらで、スタッフがわらわらいた時代があったんだよ』
亮は過去形で表情を陰らせた――。
「あら、いい匂い」
通路を歩いていると、ちょうど楽屋から出てきた咲良がおかもちに鼻をひくつかせた。露出多めな魔女風の衣装を纏っている。出番が近いのだろう。
「それ、ちょっと見せてくれる?」
咲良がおかもちの中身に興味を示した。
「揚げたてサクサクですよ」
スズメがおかもちを開けると、咲良の口から大きなため息が漏れた。長大息というやつだった。きっとお腹が減っているのだろう。だとしたらこの光景は目に毒だ。
「それ結愛のところに持って行くんでしょ?」
スズメは頷く。
「ポテトとビールって。……ないわ。ありえない」
かぶりを振りながら声を張る咲良は。どこか芝居がかっていた。
まだビールが飲めないからわからないけど、ポテトとビールの取り合わせは悪くないようスズメには思える。好みの問題なのかもしれない。
「咲良さんにも何か出前を持ってきましょうか?」
「ああ、そうね。じゃ一時間くらいしたら氷を持ってきてもらえる? アイスペールに一杯ね。助かるわ」
「大丈夫です!」
業界では「気にしないでください」のことを「大丈夫です」と言う。衣装を片付てくれてありがとうございます。大丈夫です。スズメは学んでいた。
業界用語が自然と口をつくようになり、わたしもいよいよだなとスズメは鼻の穴を広げる。舞台に向かう咲良の後ろ姿を見送ると、スズメは斜向かいの楽屋をノックした。
「まいどー。カフェのスズメ屋ですー」
「あ、待っとってん。開いとるよ」
確かに施錠はされてない。ドアが少し開いていた。
「えらい時間かかったね」
「すみません。キッチンで不手際があったみたいで。謝るように言付かってきました」
「ええねんええねん。……それよか、いま咲良ねえさん、なんや嫌味を言うてたでしょう」
「ええ……」とスズメは苦笑いでごまかす。あれは嫌味だったんだとスズメは只今理解した。
結愛は外す時間も惜しいとばかりに、うさぎの手袋のままジョッキを一気に傾ける。咲良に対する当てつけのような飲みっぷりだ。咲良は開場中にもかかわらず酒を飲む結愛を批判していたんだろう。結愛の楽屋のドアが開いていたのを知っていて。
「あのおねえさんは正論ばっかり」
結愛は化粧台を叩くようにジョッキを置くと、
「シラフじゃやってられんときもあるやんな!」
鏡に映るスズメに向かって言った。
でもそれは鏡に映った自分自身に言っただけなのかもしれなかった。
一時間後。スズメはアイスペール一杯の氷を持って階段を駆け上がる。盛りすぎて転げた氷が二つ、階段を落ちてゆく。
――こんなにたくさんの氷をどうするんだろう。
もしかしたら、氷を食べて空腹を紛らわすとか、そんな技があるのかもしれない。
考えただけでスズメのお腹は冷えてくる。
「カフェのスズメです。氷を持ってきました」
ノックしてドアを開くと、化粧台の前にバスローブ姿の咲良がいた。
出番が終わったところなのだろう。出番の前後にシャワーを浴びるのは踊り子のマナーだ。専門用語で洗浄と言うのだ。洗浄お先にいただいてすみません。大丈夫です。スズメは学んでいた。
「ああ、どうもね。ついでにコレにソレ詰めてもらえない?」
咲良は鏡で化粧を直しながら、ビニールのパックをスズメに放った。どうも氷のうらしい。コレに氷を詰めろと言うことなのかしらん。
「あの……こんなにたくさんの氷をどうするのですか?」
「ちょっと脚が痛くてね。それで冷やすの」
咲良はスズメに向き直ると、右の膝をさすって見せる。化粧直しは終わったらしかった。
「てっきり、お腹が減ったから食べるのかと思ってました」
「お腹? もちろん空いてるけど、開場中は食べないわよ。脱いだときにお腹が出てたらお客さんに失礼じゃない」
「終わるまでずっと食べないんですか?」
劇場の開場時間は一二時から二三時だ。
「普通よ。もう慣れっこ。でもどうしてもってときはコレ。コレならお腹が出ないから」
咲良は化粧台にあったゼリー飲料を手にとって見せる。
「だから油っぽいうえお腹に溜まる食べ物とか、ありえないのね。ポテトとか」
ふん、と咲良は鼻で笑う。
咲良の正確な年齢がスズメにはわからない。けれど確実に歳より若く見えていると思える理由はその体型にあった。あの綺麗な体のライン。スタイルの良さで咲良に勝てる同世代の女性はそういないだろう。ワイドショーを見ながら食っちゃ寝していて維持できる体型じゃない。
「咲良さんのスタイルの秘訣がわかった気がします」
「お客に見せる場所を磨くのは、どの商売も一緒でしょ」
咲良はスズメの手から、ひょい、と氷のうを奪う。
「ビールも……何を考えてるのかしらね。炭酸はお腹が膨らむから最悪なのに」
「結愛さんはしらふじゃやってられないときがあるって、言ってました」
結愛のやるせない声色を思い出したとき、結愛が無碍に批判されてしまうのも少し気の毒な気がした。
「そう」と、咲良は氷のうから摘まんだ氷を二つ、マグカップに落とす。
手首のスナップで氷を回すと、カップがからんからん鳴った。
「それだけは同意してもいいわ」
マグカップを口に運んだ咲良の傍らには、ウイスキーの小瓶が佇んでいる。
咲良さんにも――シラフじゃやってられんとき――があるのだろうか。
それがどれほどのストレスなのか、スズメは想像することしかできない。
咲良は氷のうをサポーターに詰め込むと、それを膝に巻き始める。氷のうと言っても、スポーツ選手が使うクールダウン用のものらしかった。
「脚、怪我したんですか?」
「ああ、これは古傷。ちょっと激しく踊ると痛むのよ。嫌になっちゃう」
膝をさする咲良。咲良のバレエ仕込みのダンスが、どれだけ脚に負担をかけるのか。
想像するのは簡単だった。
「咲良さんのダンスは凄いと思います」
「あら調子いいわね。アンタのお気に入りは結愛のダンスなんでしょ。亮ちゃんから訊いてるんだから」
「あれはその……」
スズメはうつむいて、言い訳を考えながら亮を恨んだ。
「結愛さんのダンスは可愛いと思います。でも、そのなんていうか、結愛さんのダンスが漫画の可愛いイラストだとしたら、咲良さんのダンスは美術館の絵画というか。どっちも素敵だから比べられないっていうか……」
――うまいこと言った。
スズメは心の中で拳を握る。
「エンタメと芸術とでも言いたいのかしら。まあ良いわ。言い得て妙だし」
「でも、わたしがストリップを踊るなら咲良さんみたいに踊りたいです」
ふん、と咲良は鼻で笑う。
「アンタが? アタシみたいに? 悪いこと言わないからやめときなさい」
「実力不足だってことくらいわかってます。だからもっと……頑張るんです」
「ああ。ごめんね。違うの。意地悪で言ったんじゃないのよ」
咲良は声を柔らげる。カップを軽く傾けた。
「ねえ、アンタ。出番が七人中三番目の踊り子と、七番目――つまりトリの踊り子、どっちが人気あると思う」
スズメは言葉に詰まる。
楽屋に張られた香盤表には、三番目に咲良、トリに結愛の名前があった。
「ここでダンスを追究しても意味ないわよ。若くて可愛くておっぱいが大きい子が愛想振りまいて踊る、そういうわかりやすい子のわかりやすいダンスが受けるの。ストイックな練習なんて無意味」
咲良はカップを一気に傾ける。
スズメは咲良の言葉に頷けない。じゃあどうしてこの人は、毎日必ず、開場前の舞台で一人黙々とストレッチをしているんだろう。
「わたしは咲良さんにダンスを教わりたいです」
ウイスキーをカップに注ごうとした咲良の手が止まった。
「……じゃあ、アンタに一つ課題をあげる」
まじまじとスズメを見つめる顔は、アルコールのせいかほんのり紅い。
「ねぇアンタ。セックスしたことある?」
あらまあ、とスズメ思った。
「あ、あ、ありますけどなにか?」
「やっぱり……アンタ処女でしょ。いつもガキっぽい化粧して」
「か、か、関係ないじゃないですか!」
「関係大アリよ。ストリップティーズは男を魅惑するダンスよ。男の一人も魅惑できない女が、形だけストリップを踊ろうったって上手くいくわけがない。世の中には白鳥の湖を踊るために、一日中白鳥を観察して過ごすダンサーだっているんだから。それは技術なんかよりも、もっと大切なことなの。ダンスは技術を駆使すればいいってものじゃない。ダンスで表現したいものが根本にあって、それをよりうまく表現する手段として技術が必要になるだけ。技術を見せるんじゃないわ。勘違いしちゃ駄目よ」
ぐい、と顔を近づける咲良。
「だから、先生からアンタに一つ宿題をあげる」
負けてたまるか、スズメは頷く。
「男を虜にしてみせなさい。そしてどう動けば男が喜ぶのか、実際に学んできなさい」