16
翌日のカフェバー・モダンジャズ。
「紘太朗くん、手が空いてたらここお掃除してもらっていいかな」
午後四時半の客席は、常連客二人と退屈そうに計算機を叩く亮がいるだけで閑散としている。だからみいさんも掃除を命じるしかなかったに違いない。紘太朗は倉庫から脚立を持ち出すと、掃除を命じられたカウンター内のディスプレイ棚を見上げた。
ディスプレイされている物は、著名な踊り子の写真やサイン、モダンジャズ所属の踊り子にファンから送られてきたぬいぐるみといった物らしかった。と、それらに混じって一つだけ紘太朗が違和感を覚える物がある。あること自体はおかしくないが、棚の雰囲気にそぐわない。あれもファンからの贈呈品だったりするんだろうか。
脚立に上りそれらの埃を一つ一つ拭う紘太朗の耳に、
「いらっしゃいませ、こんにちはー!」
スズメの接客が飛び込んできた。「お一人様ですか?」の声に慣れを感じる。水を運ぶ尻尾の揺れも堂に入っている。バイトさえろくに見つからないと嘆いていたスズメが、カフェのフロアを闊歩する姿は、働ける喜びでぼんやり光っていて、あの輝きがずっと続けばいいなと紘太郎は思う。
だが一方で、本当にこのままで良いのだろうかと悩みもした。
――スズメは学校に行きたいんじゃないだろうか。
昨夜、教科書をとっかえひっかえもて遊んでいたスズメの姿が、紘太朗の脳裏に過ぎる。
スズメが中学を卒業したのは今年の三月だ。高校に進まなかった理由は色々想像がつき過ぎて定かではない。同級生たちが当たり前に受験勉強に苦しむ姿を、スズメはどんな目で眺めていたのだろうか――
思索にふける紘太朗の手から注意力と握力が削がれる。磨いていたディスプレイが滑り落ち、床をしたたかに叩くと店内の視線が集まった。
「はうあ!」
飛んで来た亮はしゃがみ込んで、ばらばらになったそれを復元できないかと必死になっている。傍らのみいさんは青ざめた顔で妙にカウンターの方を気にしている。
「すみません。壊してしまって……」
紘太朗は誰にともなく頭を下げた。壊れたそれは違和感の主だった。下町酉の市の縁起物。おかめ飾りの下には『商売繁盛』の札がある。『触り三百』と書かれた札もある。確か「触ると三百文の損をする」とかいう意味だったか。
「なんだい、兄ちゃん。熊手壊しちまったのかい」
カウンターに座っていた客が首を突っ込んできた。いつもスズメにしょうもない猥談を持ちかけては喜んでいる常連客だった。
「すいません、野辻さん」と頭を下げる亮の表情が強ばっている。「紘太朗、オマエも頭下げろ!」後頭部をぐいと押されて、紘太朗の頭も仕方なく下がる。
「亮ちゃん、そんなに気にするこたぁねえよ。今度、新しいのを持ってきてやるからな。兄ちゃんも気にすんねぇ」
実はそんなに気にしてない。なんて紘太郎は言えない。
ひとり呆けていたのは、亮と野辻の会話がいまいち理解できなかったからだ。
「紘太朗くん、こっちはもういいから、オーダーのポテトを揚げて頂戴」
ほうきを動かしながら、みいさんは憮然として言った。
状況が把握できないまま、紘太朗はしぶしぶフライヤーの前に立つ。
ポテトの揚げ方を教わったのは昨日のことだった。ポテトだけではなく、なんとフランクフルトも作った。揚げるだけ、焼くだけといった単純な料理を任せようというのがみいさんの魂胆らしかった。これくらいなら任せられると思ったのか、これくらいしか任せられないと思われたのかはわからない。
じゅわーと音を立ててフライヤーに沈んだ冷凍ポテトが、ひとつ、ひとつ浮かんでくる。全て浮き上がったときが揚げごろだ。ぷかぷかと揺れるポテトをぼんやり眺めながら、紘太朗はいまだ熊手の件で煩悶していた。
店の物を壊して亮やみいさんに謝るのは、遺憾ではあるが慣れている。
だが、店の物を壊して客に頭を下げたというのは初めてだ。騒がしくしたことについて謝罪させられたのだろうか。だったら野辻以外の客にも謝らねばなるまい。
あれは野辻がこの店に贈った熊手なのだ――そう考えると理屈が通りそうだった。
だとしても「新しい熊手を持ってくる」というのが良くわからない。わざわざ店に贈呈するため、新しい物を買ってくるのだろうか。一一月の酉の市以外でも熊手は売っているのだろうか。
そうか、野辻は熊手業者なのだ。この店に熊手を卸しているのだ。だが、だとしたらまた店に熊手が売れるのだから、自分は野辻に礼を言われてしかるべきだろう。けれども熊手の金額よりも、常連野辻がモダンジャズに落としてくれる金額の方が大きいから、店としても頭を下げるしかないのだ――。
噂に聞いた、客と労働者の理不尽な上下関係。
紘太朗は下の立場で初めてその現実に直面し、思わずじっと手を見ようとする。すると何やら手に金網を握っていることに気がついた。
持ち上げると綺麗に焦げたポテトが揚がった。