14 ストリップティーズ
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次の日も次の日も、スズメの踊り子修行は劇場掃除と股割りに費やされた。
不満げにするスズメを亮が叱る。
『相撲の修行だってトイレ掃除と股割から始まるんだぞ』
なるほど、と納得したものの、だがよく考えればわたしが目指しているのは角界入りではないのだと気づいて、スズメは時間差で憤然とした。
――なにか悪意のある思惑が裏で働いていて、わたしをいじめているのでは。
二人の陰湿さに、スズメはそんな陰謀論も考えた。
――特に咲良さんだ。
例えば、有望新人たる天乃雀が踊り子デビューをし、人気を博することによって狭まる自分の肩身。そんな危機感が咲良さんをいじめへと突き動かしているのでは――
「股割修行なんてやったことあらへん」と、あっけらかんと言う結愛を見ても、スズメの不信は募るばかりだった。
――だけどここは耐えるしかない。
よくある新人いびりなのだ、とスズメは考えることにした。
厳しくて理不尽にさえ思える特訓が新人に与えられるのは、体育会系部活では良くあることだ。これくらい耐えられなければ、どの道この世界ではやっていけないのだ。わたしのこれからを見据えたうえで、二人は厳しい訓練を課してくれているのだ。むしろこれはありがたいことなのだ――
ステージ上には、今日も真摯に股を割るスズメがいる。
閑散としたステージに人は二人しかいない。ショー初日や先生の指導日こそ、それなりにダンス練習に出てきていたおねえさんたちも、普段はやはり時間ぎりぎりまで寝ていたいようだった。
「アンタさー」
ストレッチをしながらスズメを眺めていた咲良が、にわかに声を発した。
珍しい、とスズメは思う。咲良が話しかけてきたことなど、今までなかった。
「ダンスに自信があるって亮ちゃんに豪語してるらしいけど、どっかでダンスやってたわけ? 見た感じ完ぺき初心者じゃない」
「初心者ではありません」
スズメは憤った。憤懣やるかたなかった。今までの不満が溜まっていたこともあったし、何より自分のダンスを一度も見たことがないくせに、初心者と決めつけられてトサカにきた。
「へー、なにやってたのさ? その固さじゃバレエなわけないし、ストリート系も無理よねえ。案外日舞とか?」
「『踊ってみた』です」
「踊ってみたって……なにそれ?」
わたしが踊っている動画を世界中の人が見ているのだと、スズメは胸を張る。
「アクセスは三千を超えますし、マイリスしてくれる常連さんも五○人はいます」
スズメは瞬時に数を盛った。咲良を驚かすには千アクセスじゃ弱いと判断した。
にもかかわらず、咲良は吹き出した。
「アンタ、それは素人って言うのよ」
「プロだって動画をアップします」
「アハー。そんなに言うならアンタ、ちょっと踊ってみなさいよ」
――望むところだ。
ああ、やっとわたしのダンスを見てもらえるのだ。
やっとわたしの実力がわかってもらえるのだ。
スズメは嬉しさに打ち震える。
音楽がないとのれないナーと、本格派らしく呟きながら、自慢のステップを踏み始める。人気アイドルグループHAP64の神曲を「踊ってみた」ときのダンス。それはスズメの動画の中で一番のアクセス数を誇るダンスだった。
アクションが激しいサビの部分だけを手短に踊り、HAPファンの間では有名な『やたらさざめきたつカピバラ』の決めポーズを取ったとき、ステージ上にはどや顔を禁じ得ないスズメがいた。
一方で無表情の咲良がいる。
感服してしまったのかもしれない、とスズメは思う。
えらい新人が出てきたもんだわ。アタシももう潮時かもね。そう震えるのを耐えている、のかどうかはわからない。なんだか変な魚を見せられたときのような顔でもあった。
「ねえ、よーへーちゃんいるー!」
咲良は突然音響係の名前を叫んだ。
劇場のスピーカーを通して「あいよう」と、ハスキーな返事がある。
「ちょっとアタシの曲流してよ! ……アンタ、そこ邪魔だから客席に降りなさい」
蝿を追い払う仕草の咲良。
――わたしに対する抵抗を試みるつもりなのだ。
スズメは咲良が少し哀れに思えた。
だがスポーツの世界でも、ベテランに引導を渡すのは大抵若手のホープと決まっている。どんな名選手にも老いは訪れる。生物である以上時の流れには逆らえないのだ――。
スズメは大仏のように目を細めて、儚んだ。
バイオリンの低音が連なると、咲良はステップを踏み始める。
印象的な序奏はシューベルトの『魔王』で、シューベルトはスズメが大好きな『アヴェマリア』と同じ作曲者だった。音楽の授業で聴いた『魔王』の荒々しい旋律は、あんなに優しい『アヴェマリア』と同じ人が作ったとは思えなくて、スズメの印象に強く残った。今流れる魔王はロック調のアレンジが加わって、さらに激しさを増している。
バスのうねりが頂点に達したとき、シンバルとともに弾けたのは咲良だった。
高いジャンプからの手に負えない複雑なステップ。そして回転、回転、回転――
「咲良のピルエット、凄いだろ」
背後で亮の声がした。だけどスズメは振り向かない。舞台から目が離せなかった。
目の前では、軽やかな回転がいとも簡単に繰り返されている。一回転、一回転、正面で正確に体を止めて、しかも顔の位置が全然ぶれていない。それが簡単ではないことは、回転して正面を向いて静止する、というだけでやっとのスズメにはわかる。それなのに、咲良は自分の倍以上の速さで、しかも連続で回転をやってのけていた。
「……アラベスク」「……高速シエネ」
解説のように呟く背後の声は熱を帯びていた。用語の意味はわからないけれど、何か難度の高いことが行われている、とはスズメにも理解できた。咲良は手先から足先まで体全体を真っ直ぐに伸ばし、メリハリを利かせたダンスでステージ狭しと動き続ける。
ステージにライトが走った。照明係も異変に気付いたらしかった。
赤黒い怪しい照明の中、咲良は手をくねらせて、スズメをいざなうような動きを見せる。その振る舞いは、襲われる父子ではなく、襲う魔王の側を思わせた。スズメはアイドルでも眺めるかのようにステージに夢中にだった。
「ピルエットからのトゥールアンレール」
亮の解説に応えるように、咲良は回転の質を変え、更に加速させた。その回転がピタリと止まったとき、同時に音楽も止まっていた。
「レベル高い……」
スズメから思わず呟きが漏れる。
「咲良は特別だよ」と後ろから身を乗り出した亮が答える。「あいつはバレエ出身だからな」
スズメが拍手をしようとすると、遮るように再び音楽が流れた。
「まだ終ってないぞ。ストリップティーズの本番はここからだ」
「ストリップ……ティーズ?」
「ストリップの正式名称だよ。『ストリップ』って呼び方は蔑んだ響きがあるから、俺は嫌いでな」
『魔王』の余韻がスローなバイオリンソロにかき消される。一転、場を支配したのは悲しげなソナタだった。
「ストリップティーズってのは二部構成なんだよ。最初の半分は自分の好きな踊りを好きなように踊っていい。だけど残り半分は、ストリップを見に来た客を楽しませる。いわゆるベットショーってやつだ」
舞台中央の盆に寝そべった咲良は、薄水色の照明の中、音楽に合わせて身を捩じらせた。
今までのダンスが動ならば、こっちは静と例えられるものだ。
「咲良が考えるダンスにはいつもストーリーがある。今回のショーはファンタジーがテーマだろ? だから音楽はシューベルトの『魔王』から、タルティーニの『悪魔のトリル』。悶える女悪魔は魔王の妻ってとこか。討たれた旦那を偲んで身悶えする未亡人、ってのが咲良の台本らしい。シューベルトが曲を付けたゲーテの魔王とはもう全然関係ねえけどな」
咲良は足を掲げられる限り高く伸ばし、背中を目一杯にしならせ、柔らかな体を見せつけるように、一つ一つポーズを取って見せる。ポーズが決まるたび亮が「ブリッジ!」「しゃちほこ!」と、なにやら急に俗っぽくなった専門用語を口走る。
「どうだ、綺麗だと思わないか? 今は服を着てるけど、裸になると体のラインがもっと美しく出るんだ」
裸、と言われてスズメは思い出した。今、咲良はジャージにTシャツで踊っているけれど、これは本来ストリップダンスなのだ。もしこれが本番だったとしたら――
「V字オープン!」
目の前で咲良が目一杯に脚を開く。拍手喝采を送る亮がいる。なんということでしょう。
気が遠くなるスズメにリンクするように、ステージの音楽がフェイドアウトしてゆく。咲良がすっと立ち上がると、同時にステージの照明も落ちた。
「ああもうぜんっぜんダメ! ストレッチが足りない」
咲良は落第点よと言わんばかりだった。
「なに言ってんだ。上出来だよ」拍手をしながら亮。
「バットマンの脚、全然上がってない」
「微妙にな。でも客にはわからねえよ。どうせ裸しか見てない」
「そういう台詞、亮ちゃんからは聞きたくないわ」
「ただの自虐だよ」
二人のやりとりが、夢見心地のスズメの耳をすり抜けてゆく。
――あんな風に踊ってみたい。
同じ表現者として清々しいまでの完敗。胸に刻まれる悔しさ。
――一刻も早くストレッチに励まなければ。
スズメは焦燥さえ覚えた。あの体のしなやかさはストレッチに秘訣があるに違いない。咲良は毎日欠かさず一時間以上もストレッチをしている。
――股割に励めと言うのはこういうことだったんだ。
志を胸に秘め、スズメはすたすたとステージの階段を上がる。
何が始まるのかと、咲良と亮が視線を向ける。訝しむ視線が集まる中、スズメはステージの隅っこに陣取って、闇雲にストレッチを始めだした。
背後に咲良の気配が近づく。
「ねぇアンタさ。あんなちんちくりんなダンスでよくアタシに張り合えたもんだわね」
「……」
「アンタ、ストリップなんてやめた方いいわよ。悪いこと言わないから」
向いてない。とあからさまに言われ、スズメの目が潤む。
「……わたしだって、もっと上手に踊りたいんです」
「だったらさ、ほら、ダンス教室にでも通えばいいじゃない」
「そんなお金があれば……舞姫になろうとしてません」
スズメはやたらめったらストレッチをしていた。
それは筋の限界をむやみに責める自暴自棄なストレッチだった。
と、見下ろす咲良の視線が一瞬だけ柔らかくなった。
「……わかった。じゃあ明日からバレエのストレッチを教えてあげる」
えっ、とスズメが顔を上げたときにはもう、咲良は舞台袖に消えようとしていた。その後ろ姿を茫然と眺めていると、亮が慌てふためき追いかけてゆく。
「咲良、話が違うぞ!」
「亮ちゃんだって熱く語ってたじゃない!」
カーテンの向こう側から、そんな声が聞こえた気がした。