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「おはようございます。今日もよろしくお願いし――」
「遅い! いま何時だと思ってる!」
労働二日目、劇場モダンジャズ支配人室の扉を叩いたスズメは、にわかに叱咤を浴びて面食らった。
昨日「九時に来い」と言ったのは亮だ。もちろん「九時に来い」と言われれば、八時五五分に到着しているくらいの常識はスズメにもある。理不尽だなと思いながらも、けれど新人のわたしは口答えなどできないのだ、とスズメは唇を噛むしかなかった。
――明日は八時五〇分に来よう。
そんなことを思いながら、スズメは亮の後について歩く。
「修行はまず掃除からだ」
薄暗い客席には、モダンジャズの閉場時間――深夜二三時の余韻が残っていた。
ビールの空き缶、飲料水のペットボトル、食べ残しのお菓子が入ったコンビニの袋、劇場のチラシ。百席ほどある椅子の下に、思い思いに散らばるそれらを回収して、スズメはほうきをかけてゆく。
ふと顔を上げると、ステージ上でモップを動かす亮の姿があった。
――妙に慣れた手つきだ。
スズメはホテル清掃のアルバイトを思い出す。
指導役の津川のおばさんは、仕事中一切言葉を発しない人だった。何をして良いかわからず、困惑しながら追いかける新人のわたしに、津川さんが言ったのは一言だけだった。
『見て覚えなさい』
――支配人自らモップを取るのは、つまりそういうことなのだ。
津川さんに出会ってなければ、亮さんのメッセージに気が付かなかったかもしれない。ありがとう津川さん。亮さんの一挙手一頭足を見逃すまい。ああそうだ。『メモを取れ』とも言われた――
パーカーのポッケからメモを取り出し、まじまじ視線を送るスズメに、亮がようやく気付いた。これは褒められてしまうのだろう。
「なんだ、終わったのか」
「いえ。あの。支配人が慣れた手つきで掃除をしているので、勉強しようと思いまして」
――なんと謙虚な新人なのだ。
スズメは悦に入る。自分が支配人ならば抱きしめずにはいられない。
ふふんと亮は笑った。
「慣れてて当然だ。劇場の掃除は俺の仕事だからな」
「亮さんが掃除をするんですか?」
――支配人自ら掃除?
「掃除の人間なんて雇う金はねえし、朝はできるだけスタッフを寝かしてやりてえしな」
昨日、スズメが挨拶をした常勤のスタッフは――照明係、音響係、美術係、受付と雑用係が数人――だけだった。意外と少ない人数で回っている舞台裏に驚いた。
「一旦ショーが始まれば一番役に立たねえのは俺だしよ」
ストリップ劇場は大変なんだ、と亮はとってつけたように言う。
スズメが次に命じられたのは、各仕事部屋のごみ回収だった。
照明ブース、音響部屋、受付部屋、従業員控え室、舞台袖――部屋のごみ箱は生活臭溢れるごみで満ちていた。
「一旦劇場が開場すれば、踊り子もスタッフも二三時の閉場までずっと劇場に詰めっぱなしなんだ。しかも年中無休ときてる」
亮はゴミ箱に溢れる弁当容器を見てため息をつく。コンビニ弁当のものだ。一日に五回ある一時間半のショーの幕間はたった三〇分。外にご飯を食べに行く余裕などない、ということなのだろう。
ストリップ劇場は大変なんだぞと、亮は思い出したように強調するけれど、それくらいの覚悟はスズメもとうにできていた。
「次、楽屋な。ねえさんたちにご挨拶だ」
先輩の踊り子さんは「ねえさん」や「おねえさん」と呼ばなければならない。
にわかに本格的な修行の身になった気がして、スズメは緊張でカクカクしながら裏の通路を歩いた。
――でもおねえさんたちはいつの間にいらっしゃったのだろう。
亮を除けば、新人たる自分が一番先に来たものだと思っていた。
――と、飛び込んでくる喧騒があった。
「ちょっとアンタ、なんなの昨日のダンス。全然リズムに合ってないじゃない。ソロなら知ったこっちゃないけど、フィナーレであれは勘弁してほしいわ。こっちまで下手に見える」
「はぁい、すみませんでした。次は気をつけまぁす」
薄暗い廊下の先に、人影が二つ。
「昨日から、次は、次は、ばっかり。しかもアンタ楽屋でもその恰好って……キャラでも演じてんの? 変な趣味を舞台に持ち込まないでほしいわ。そもそも今度のテーマはファンタジーだって言われたでしょう?」
「ファンタジーにだってよく出てくるやないですか。アリスとか……」
「その理論が通るなら、浦島太郎のカメだってファンタジーになるわ。ってかアンタ、あれしかダンスのレパートリーがないだけなんでしょう?」
「そんなことないです。一生懸命踊ってるのに酷いです」
「何よそんなもの」と振りかぶった手が、うつむく人の手にあった何かを弾き飛ばした。宙を舞い、床に落ちる何か。ばいんとひと弾みして、スズメの足下に転がってくる。
――なんだこれ。
何やらふわふわしている。
「ちょっと! 邪魔!」
しゃがんで拾おうとしたとき、スズメは脚で尻を突き飛ばされた。ころんと前のめりになって壁に額をぶつける。痛い。
「亮ちゃんも亮ちゃんよ。あの子の特別扱いはやめてよね!」
謝罪一つない脚の持ち主。亮に叱咤を向けたその顔は、恐らく咲良のものだった。「恐らく」と確信を持てないのは、すっぴんの顔を見るのは初めてだからだ。
「おい、どこに行くんだ!」掴む亮の手を振りほどいて、「コンビニ行くだけよ!」と咲良は通路の奥に消えていく。
「また始まったか――」
こんな揉め事は慣れっこだ、やれやれだ、咲良を追いかける亮にはそんな余裕がある。この手のトラブルは日常茶飯事なのだろう。なにせ女の世界だ――と慮ったとき、スズメも「ストリップ劇場は大変だな……」と呟かざるを得なかった。