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サークル・シエスタ課題

一枚の板

作者: 齋藤 一明

 一枚の板


 男が一人、機械と机との狭い隙間でゴソゴソやっている。

 入り口に背を向けているので窺うことができないが、しきりと腕を前後に動かしている。


 シューッ、シューッ……


 音がするたびに木屑がハラハラ舞い散った。小気味よいその音は、単調にリズムを刻む。


 シューッ、シューッ、シューッ、シューッ……


 フッ、フッ……

 少し息を荒げながら、男は木屑を散らすことに専念していた。


 やがて手を止めた男は、アルミパイプを取った。そして、木屑を散らしたところに載せて定規かわりに削り幅を確かめる。

 耳に挟んだチョークでかるく目印を入れると、こんどはシャッシャッシャッシャッ……。

 何やら短い音をたて始めた。


「まいどぉー。うわっ、何やってんだよ。あんた、とうとうカジヤに見切りつけたのか。いいねえ、廃業できる余裕があって。俺なんか、借金抱えてるから廃業すらできないよ。だけど、素人が木工やって喰っていけるか?」

 木屑を撒き散らしている男同様に風采があがらないその男は、入り口を入るなり機関銃のようにまくし立てた。しかも、普通なら遠慮するようなことをズケズケ言う男だ。

「宇佐美さんかぁ、喧しい人が来たなあ。チャチャ入れにきたのなら帰ってくれよ、こっちは馬鹿に付き合う余裕ないんだからよ」

 男は振り返りもせずに木屑を撒き散らしていたが、鼻をひくつかせて手を止めた。

「なあ、入場料だけ置いて帰れよ。外野がいると邪魔でしかたないからよ」

 荒っぽい言葉とは裏腹に、相好を崩して手を伸ばす。同時にチャッチャッと手刀をきった。


「なあ村井さん、仕事をせずに何のまねだ?」

 来訪者は、無礼な物言いにひるまない。それでいて、気を悪くした様子もなく伸ばされた手に湯気の立ち上るコーヒーのカップを掴ませた。村井が入場料と言ったのは、そのコーヒーのことだ。


「えへへ、実はな……」

 ボロ布で服についた木屑をはたき落とし、ついでに今削ったばかりの板を丁寧にぬぐった。

 とたんに、細かい木屑が埃とともに舞い上がった。

「おい! よせよ、埃だらけになって飲めなくなる」

「けっ、寝言を言うなよ、落ちたものでも拾って食べるくせに」

 言いながら、なおも服の埃を叩き落とした。窓の外から差し込む陽光に照らされ、埃がきらめく。


「実はな、この板を看板にしてやろうと思って」

 机にコーヒーカップを置いた村井は、木屑まみれの顔を袖で拭うと、いそいそと削っていた板を立てかけた。

 雑な言葉だ。しかし、言葉とは裏腹に板を撫で擦る指は優しい。その優しい指は手の平とともに粉になった木屑で真っ白だ。

 村井が愛おしんでいるのは、丸太を長手方向に薄切りにした板である。赤みがかった木肌が白っぽい皮とマッチしていて、何ともいえない味がある。元はさぞいびつだったのだろう。削られる前の、ゆがんだ木の姿がしのばれた。


「へえ、洒落た形だなあ。色も善いし、客の目を引くかもしれんな。珈琲『場末』雰囲気でると思うよ」

 宇佐美はまたしても軽口を言った。知らぬ者が聞けば悪口と捉えるだろうが、二人の間ではそれが普通の話し方のようで、言われた村井じたいニヤニヤしているばかりである。


「嫌な奴だねえ、わざわざ手土産持って喧嘩うりにくるんだから」

 村井はこころもち頭をさげて、額を指先でコリコリと掻いた。そして、コーヒーを一口ふくむとチョークで板に字を書きつけた。

『就労支援センター きらめき』

 決してきれいではないが、丁寧な字だ。村井の思い入れが窺えるようだった。


「不器用なカジヤにしてはきれいな字を書きやがったな。ところで、これって……。村井さん、あんた、また妙なことに首突っ込んだだろう」

 奇妙なことに首を突っ込むのは、村井の特技だ。が、当人はそんなことちっとも苦にせず、あれこれと吸い寄せられてはいろんなことを背負いこんでしまうのだ。その反面、私的な思惑が絡んだりすると、ピタッと動きを止めてしまう。自身の価値観に合致しなければ、テコでも動かないことも村井の特徴である。そのかわり、動いている間は損得勘定などしない。宇佐美は、そういう村井を好ましく思っている。


「その、『きらめき』ってのは何だ? ははぁーん、適当にごまかして商売しようって魂胆だな? いくらで請け負った?」

「ばか! そんな悪さができるなら、とっくにやってるよ。これはな、友達へのプレゼントだ」

 村井は、宇佐美に趣味で小説を書いていることを教えている。そして、それをインターネットで投稿していることも。

 無造作にタバコを吸いながら、村井はその小説仲間のことを語りだした。


「いやな、どの作品を読んでも主人公の状況が似てたんだ。必ず主人公が障害を抱えている。決まって車椅子に乗っていて、話せない。これって、案外自分をモデルにしてるんじゃないか、そう思ったわけさ」

「何歳くらいなんだ?」

「わからない。おばさんの時もあるし、年齢をぼかしていることが多い。それで、彼女にそれとなく注意しながら感想を送ったりしてたわけよ。もし迂闊なこと書いてドンピシャだったら困るからさ、ちょっとドキドキしながらな」

「騙そうとしてか?」

「……、そうしたらな、ある日連絡があって、これからも遊んでねって」

「おい、なかなかない経験したなぁ。女の人から声がかかるなんて、カジヤにはないからな」

「まあ、そういうことで交流が始まったわけさ。きっと心を開いてくれたのだろうな。それから、ちょうど寒さの厳しい時期にな、ドテ鍋の材料を送ってやったんだ。もちろん、その時には体の状態を教えてもらっていたし、住所も名前も教えてもらっていた」


 彼女は体を上手く動かすことができない。村井がそんな事情を知ったのは、彼女と親しくなってしばらくした時のことだった。脳性麻痺で言葉を話せない。移動は電動車椅子で、遠出をするには相当の気合をいれなければいけないということだった。


「なるほどなぁ……。あんた、そこが他の奴と違うんだよな。普通ならそんなことはしないだろ?」

「まあ、聞けよ。そうしたらな、お返しだって、ケーキを送ってくれたんだ。そりゃあ嬉しかったよ。あんたも食べたよな、きんつば」

「なんだい、あれがそうなのか? おいしかったなぁ」

「うん、すごくおいしかった。だけど、実際のところ……、かえって散財させてしまったって後悔したのさ」


 村井はさらに一口コーヒーを啜り、乾いた喉を潤した。

「だって、障害者の作業所ってさ、働いても収入につながらないらしいんだ。血も涙も無い政治家が生きにくくしちまいやがった。働くってのは名ばかりで、満足な給料を貰ってないだろうよ。年老いた母親と二人で暮らしてるのなら、生活だって楽ではないはずだ。……けどなぁ、送ってくれたものを返すわけにはいかんしさ。それに、送ってくれたケーキが旨かったのさ。誰が作ったか訊ねたら、なんとびっくり、当の本人さんだって。だから、追加注文したのさ。そのときに電話口に出てもらって……」

「おい、待てよ。話せないのじゃなかったか? そんなことしたら反って気の毒じゃないのか?」

「話せないよ。だけど、聞くことはできるだろ? 何かで受話器を叩いてくれたら返事になるからって言ってな。ところがだ、迷惑どころか、すごく喜んでくれたそうだ。それに、一瞬だけど本人の声が聞こえたよ。やっぱり、直接話すと情がわくじゃないか」

「なるほどなぁ。たまには善いこともするんだな」

「それでよ、ふと思い出したわけだ。看板にうってつけの板があることを」

「それがこの板か。それにしても……」

 宇佐美は、板を床に置いて反りや曲がりを確かめてみた。

「反って、曲がって、捻くれて。おまけに山になってる。村井さんの性格そのものじゃん」

「宇佐美さん、よく言うよ。まぁ、それでなんとかきれいな板にしようと思ってさ」

「そんなカンナで何になる? それより、フライス盤で削ったらどうだ?」

「考えたのだけど、機械にかけたら無理に平面にしてしまうだろ? するとさ、ペラペラになってしまうから」

「……じゃあ、灸を据えるか?」

「それも考えたけど、製缶屋じゃないからでっかい定盤なんてないし。あんた、電気カンナ持ってないか? 買う予定ないか? 買えよ、それで、貸せ」

「カジヤに聞くのが間違い。そんな高級品あるわけないだろ」

「だよな。だったら、サンダーで削ってやろうかな。だけど、下手すりゃ傷が入るし」

「だったら、カンナで削るしか……」

「だろ? それで、カンナをかけてたってわけさ」

 村井は、赤味がかった分厚い板を荒っぽく撫でた。



『これからも遊んでね』

 モニタにうかんだ一行がすべての発端なのだろう。その短いメールは、今でも削除せずに残してある。


 インターネットの小説サイトに、村井は何度も投稿していた。

 元々は意見発表のつもりで投稿したので、読者数はまったく伸びなかった。が、暇つぶしに載せた小説が成功した。そうして少しづつ村井の名前が浸透し、気をよくして次々に書いては投稿していた。しかし、物書きというのは孤独なものである。投稿した作品に感想が寄せられないかぎり、誰とも関係をもつことができないのだ。


 あるとき、村井は心安くなった者を誘って勉強会を始めたのだが、参加者を募るために短い作品を読み漁っていた。その時、妙に気になるタイトルをみつけ、交流が始まった相手だ。

 勉強会に誘ったところ、心安く応じてくれた。でも、他の仲間とは違い、意思表示をあまりしない人という印象をもっていた。が、勉強会での課題を重ねるにつれ、少しづつ意思表示をするようになってきた。


 ある日、その相手から短いメールが飛び込んできた。

『これからも遊んでね』

 たったそれだけのメールだったが、村井は嬉しかった。自分に心を開いてくれたと解釈したからだ。

 それから、その相手との個人的なメールが往来するようになった。といっても、送られてくるのはきまって午後九時半。メールの内容も、長くなったとはいえ、三行か四行である。

 きっと事情があるのだろうと訊ねるのを憚っていたのだが、とうとう相手から事情を説明されたのだ。およその予想は、投稿された作品を読んで想像していた。それが的外れでなかったのだ。


『長い文章は苦手。文字を打つにも時間がかかる。飽きっぽいのもあるけど』

 そうなのかと村井は気づいた。

 文字を打つのに苦労するから、無駄を省いた文章が書けるのだ。

 きっと、考え抜いて文章にしているのではあるまい。エッセンスを抽出することが習慣化されているのだろう。とても真似のできない人だと思った。



 ジャリッ、ジャリッ

 村井は、大きめのカンナで板を削っている。刃を出してガリガリ削るつもりだから、少しぐらい食い込んでもかまわないのだ。


 ジャリッ、ジャリッ

 山形をしていた板が、ずいぶん平らになってきた。


 ジャリッ、ジャリッ

 捻りを修正してやろう。反りを目立たなくしてやろう。そんなことを考えながらカンナをふるっている。


 ジャリッ、ジャリッ

 削るたびに板の色が変わってきた。

 はじめは赤褐色をしていたのに、徐々に薄茶色の肌をみせるようになってきた。


 ほんのわずかに刃を出したカンナに持ち替え、表面をきれいに均してみると、方々に食い込みの痕が残っていた。

 機械で削りたいという欲求が湧く。だが、そんなことをすれば、最終的には全面を平面にせずにはいられないだろう。それじゃあつまらない、味気ない。

 もう少し、あと少しと削るうちに、蒲鉾の板みたいになってしまうことは目に見えている。それほどに反りと捻りがひどいのだ。


 機械屋の考えは捨てようと村井は思っている。だからカンナだけで削っているのだ。



 友人が取り入れのすんだ田んぼで大根を育てている。村井は、そこで育てた大根が好きだ。甘くて瑞々しくて、火の通りが早く、味がよくしみる大根だ。二叉や三叉は当たり前で、ほとんどが湾曲しているが、太くて長い大根である。そしてなにより、味に自信があった。

 いつも貰うばかりでは心苦しいので、村井は謝礼を払って作らせてもらっているのだ。


 何度か霜が降り、甘味が増してきた大根を送ったら、それは喜んでくれた。彼女が通う作業所で大根パーティーをしたらしいが、十人か二十人なら二本もあれば十分に堪能できるはずだった。

 そして三月。田起しのために残った大根を抜きに行ったら、とてつもなく大きい大根に育っていた。

 この前の大根が大きいと驚いていたくらいだから、どんなにびっくりするだろう。村井は完全に子供のようになっていた。

 その答礼の品に添えられたのは、彼女が描いた一枚の絵。そして、不自由な手で書いてくれた、『村井さん、ありがとう』というメモだった。

 メモ用紙いっぱいに書かれた文字は、震えにふるえていたし、裏に深く痕をつけるほどの筆圧だった。

 心を開いている。間違いなく自分に心を開いている。

 胸にこみあげてくるものがあった。が、村井はニヤッとしただけである。たとえば自分が相手と同じ状況になったとしたら、自筆でありがとうと書くだろうか。

『わたしの形で、わたしの色で実りたい』

 ヘタから上半分のナスの絵に、そう添え書きされていた。

 光の当たり具合でそう見えたのかもしれないが、薄くまだらな色をしたナスだった。ところどころ瘤があるような、いびつな形のナスだった。

 ナスを自分に見立てているのでなければ良いがと、そればかりが気になる絵だった。

 でも、それが彼女なのかもしれない、とも思う。


 遠慮したり萎縮したりしていなければ良いが、もしかすると、絶えずそういう想いで生きてきたのかもしれない。

 自分は社会に対する不満を平気で口にしてきた。しかし、不満を口にすることすら遠慮する人もいることにようやく気づいたのだ。恥ずかしいことに、還暦を過ぎた歳になってだ。

 そんな相手なら、反って曲がって捻った板でもニコニコと受け入れてくれる。なんの根拠もなく村井はそう思う。

 だから、平たくするだけの目的で、ひたすらカンナをかけている。




「おおっ、やってるな。どうだ、誘惑に勝てるか?」

 一拍遅れてコーヒーの香りが漂ってきた。

「どうだ、ここまで平らにしたら合格だろう?」

 村井は満足げに板の表面をなでまわした。


「ずいぶん削ったなぁ。これなら合格、と言いたいところだけど、深い食い込みが残ってるぞ。まだまだ、使い物にはならないな」

 宇佐美はチョークでところどころを丸く囲った。その丸がどんどん増え、ほとんど全面に丸が書かれている。


「だから、まだ形を整えただけだって。仕上げはこれからだから。嫌な奴だなあ、まったく。あんた、従業員を雇わないほうがいいぞ」

 村井は、宇佐美からコーヒーをひったくると、折り畳み椅子を出してきた。


「大丈夫だって、ろくでもない職人なんて願い下げだから。村井さんだって一匹狼のまま滅びる運命だろ?」

「そうだな、お互いに一人親方がいい。気楽で善いや」

 他愛ないやりとりと熱いコーヒーが、仕事を終えた二人にとって精一杯の娯楽だ。


「なあ村井さん、ちょっとカンナかけてみろよ」

 やはり二人とも根っからの職人だ。畑違いのことにも興味津々なのである。


 コンコン、コンコン

 村井は、出し気味にしていた刃を慎重に引っ込め、何度か試し削りをした。


「マルチカジヤの腕前に関心しろよ」

 言い捨てて、カンナをふるった。


 スーッ、チッ、チッ、チッ……

 断続的に紙のような削りくずが出てきた。うねった表面の高いところだけが削れているのだ。


「なぁるほどなぁ、これが村井鉄工所の実力ってわけだ」

 宇佐美がゲラゲラ笑いこけた。いったいどういうつもりで笑っているのか、村井にはさっぱり理解できない。

「どうして? どこがおかしい?」

「だってさぁ、これって……。ま、漫画だよ」

「どこがさ?」

「紙は紙でもさぁ、これって襖紙くらい分厚いよ。せめて薬を包む紙にしなきゃ」


 なるほど、刃の調整に自信があるわけではない。だからといって、精いっぱい薄っぺらく削っていたつもりだったので、そう言われるとムッとした。


「だったら、あんたがやってみろよ。お手並み拝見させてもらうよ」

 村井は予備のカンナを差し出した。

「見てろ、オブラートより薄ぅい屑を出してやるからな」

 宇佐美は、豆ハンマでコツコツ刃の出入りを調整していた。


「いくぞっ」

 威勢よくカンナを引いたはいいが、ジャッという硬い音とともに動きが止まった。

「いよっ、名人! うまい具合に食い込ませたなぁ」

 村井がゲラゲラ笑いこけた。

「あぁ、おかしいったらありゃしない。ところでさぁ、これ、見てみないか?」

 村井は、懐から再生和紙に印刷されたものを取り出した。


「これは? ナスだな。わたしの形で、か……」

「どうだ?」

「重い言葉だなぁ……。俺だったら投げやりになってるだろうに」

 宇佐美がしんみりと言った。

「そうだろ、俺には声も出ないよ」

 村井もしんみりと木肌をさすっていた。



「名前の件ですが、『きらめき』でお願いします」

 作業所の職員から連絡があった。作業所には看板がなかったそうで、村井の発案をとても喜んでいてくれる。村井にとっての、それは遊びでしかないのに、つまらない申し出を素直に喜んでくれる人がいる。電話を切っても胸に暖かい血が流れるのを感じた。


 字の下手くそな村井は、いつも妻に書いてもらっている。看板の下地ができた今、どんな字にするかで看板の性格が変わってしまう。

 村井の妻は、言葉にしなくてもそれを察してくれるのだ。作業所に通う人たちが元気になるような字を入れてほしい。わがままな頼みだが、村井は妻に頭を下げた。

 きれいに仕上げた木肌にチョークを塗り、字を書くまでにしておいて仕事場を後にした。


 朝、仕事場へ下りてゆくと、丹念に磨いていた板に命が吹き込まれていた。

 大きく太い字で、『きらめき』とだけ書かれている。

 素っ気ないかもしれない。しかし、何かを書き足す必要はないし、書けば無粋になるだけだろう。

 存在感のあるそれを、村井は満足気に眺めた。


 完成間近の看板を前に、むらむらと村井の心は躍った。

 さっそく塗ってやろう。吹き込まれた命を輝かせてやろう、きらめかせてやろう。




 透明の合成漆。村井が好んで使う塗料である。

 塗ってはかわかし、乾いたら水研ぎをする。そしてまた塗る。



 二度目の水研ぎを終えて、村井はふと考えた。もう研ぐのはやめようと。


 水研ぎをすれば、乾いた表面がたしかに平らになる。見た目も滑らかで美しいとも思う。しかし、平板になった塗装面は光を単純に反射してしまうことに思い至った。作業所の存在を知ってもらうにはそれではいけない。より個性のある看板に仕上げなければならないのだ。

 塗りむらがあってこそ味わいがあるのではないだろうか。乱反射するからこそ、きらめき、輝くのではないだろうか。


『わたしの形、わたしの色……』

 塗りむらがあってこそ、その言葉に近づくのではないだろうか。

 よし、きめた。あと二度だけ重ね塗りをして終わりにしよう。

 村井は、なるべく刷毛跡を残さないよう、丹念に塗り重ねる。狭い工場の中は、すっかり塗料の臭いが充満していた。



『素敵!』

 たった一言のメールが届いた。

 下塗りしたものを玄関に立てて写した写真の感想だ。

 それを見て、村井はわずかに頬をゆるめただけである。しかし、心の中では雄叫びが上がっていた。


 村井の仕事は、機械部品を作ることだ。そんな仕事をしていると、作った部品を喜ばれているのかなんてまったくわからない。図面通りにできているか、納期通りにできているか、そして、安くできているか。それしか見てくれないのだ。


『すごいものを作ったなぁ、この図面だと、実物はこういう形になるのか』

 そういう評価を得ることはある。が、そんなものは営業用のお世辞でしかない。

 作って当たり前。納期に間に合わせて当たり前。できれば無料で作ってほしい。客はそうとしか考えていないのだ。だから、たった二文字の評価でも叫びそうになるくらい嬉しい。

 仕事をして嬉しいと思えなくなったのはいつだろう、村井はそうとも思った。

 彼女の短い一言が、明日を生きる糧になる。それは間違いなく、村井の体を突き動かす原動力になっていた。


 よし、作業所の改装が完了したら持って行ってやろう。作業所の人は皆体が悪いのだろう。腕力もないだろうし、高いところには手が届かないだろう。

 自分が運んで取り付けてやろう。そうだよ。作業衣姿なら俺が誰かわからないだろう。

 取り付けたあとで自己紹介すればいい。

 まてよ、勝手に取り付けてしまうと洒落にならないよなあ。やっぱり自己紹介が先か。

 皆に披露して、それから皆の見ている前で取り付けるべきか。

 うん、そうだよな。

 まてまて、そうなら、相手に報さずに行かなきゃいけないな。となると、皆が仕事に出ているときだから平日になってしまう。

 よし、休日の調整をしなきゃいかんな。


 そんなことを考えながら仕事を終え、村井はメールを点検してみた。

『おーい!』

 村井が送ったメールの表題が返っていた。

『村井さん、金沢へ来れん? 看板持って』


 やられた!

 腹の底から笑いがこみあげてきた。村井の考えていることが筒抜けになっているのだ。しかも遠く離れた金沢から、まるで村井の心を覗き見でもしたかのように直球勝負をなげかけてきた。

 単純な男の考えることなど、彼女にはお見通しなのかもしれない。しかし、それも心地よかった。


 カチャカチャカチャカチャ……

『こらっ! 心を読んだな? 突然行って驚かせてやろうと思ったのに、帳消しじゃないか。持って行こうって、ずっと前から決めてたんだぞ。ずっと前って、今日の昼すぎだけど。改装が完了したら特急に乗るからね』

 クスクス笑いながら入力するのを、妻が気味悪がっている。それでも、金沢へ行こうと考えていると説明すると、

「それが男ってもんだよ」

 妻の心遣いが身に沁みた。




 着慣れぬ背広姿で、村井は人々の目に耐えていた。

 職種が職種だけに、人と接する機会の少ない村井にとって、何人もの前に立つだけで緊張してしまう。なにか挨拶をと思いはするのだが、それが言葉になって口から出ないのだ。もちろん、席に着けば流麗な詞がうかんではくるのだけど、やはり人の前に立って挨拶をするのは苦手だ。名古屋からの道中でもそれを予想して挨拶を考えてはみたのだが、いざその場になるとまったく見当はずれなことばかりを話してしまった。が、ともかく最初の難関はなんとか突破。そして、いよいよ看板を披露するときになった。


「それでは、あまり待たせてはいけないから見ていただきますが、実は布で覆ってあります。わがまま言って申し訳ないですが、あおいさんにそれを取っていただきたい。それでいいですか?」


 さいとう あおい

 それこそが村井の友人なのだ。自分で作っておいて除幕式はないのだけれど、それも思い出になるだろうと村井が仕込んでおいたことである。

 職員が支えてくれている看板の前にあおいをつれてきて、村井は立たせた。


「それでは、一二の三で取りますからね」

 布の端をあおいに持たせ、ゆっくり数を数える。


「いーち、にぃーの……」

「その前に、ひとつお願いがあります」

 布を引く寸前に村井が割って入った。

「見てがっかりしても、怒らないでくださいね」


「いーち、にーのぉ……」

「ちょっと、ちょっとだけ待って。やっぱりドキドキする」

 またしても村井が割って入った。


「いぃーち、にぃーのぉ、さん!」

「ああっ」

 村井の悲鳴と同時に布が引かれた。

 どこで手に入れたか、看板全体を覆っていた小紋の絹がハラリと落ちた。


 暫くの静寂があり、笑い声が上がった。看板を赤い布が覆っているのである。

 数をかぞえることを遮ったのも、二重に布を巻いたのも村井の策略だった。

 どんなものが出てくるのか期待させようという魂胆は、まず成功したとみていいだろう。

「へへへ、ちょっと悪戯をしました。こんどこそ、ちゃんとやりますから」


「いぃーちぃ、にぃーぃ、さぁーん」


 赤布がはらりと落ち、深い色に染まった一枚の板が姿をあらわした。

 いびつな形だが、陽の光を受けてピカピカ光っている、

 板の中心には年輪が一点に集まっていて、節でもあったのか小さな窪みもある。元々赤味を帯びていた木肌だが、塗料のせいで赤味は失われている。しかし、濃い飴色で艶々している。年輪が流れる線をうねらせているのが印象的だ。

 その真ん中に、『きらめき』と大きく墨書された名前が精一杯胸を張っていた。

 きらきら煌めくそれを、村井は誇らしく思った。


 どんなものが出てくるのだろう。期待して見つめるあおいの顔が膨れ上がった。

 口を開け、手を叩いて喜んでいる。そして、左の親指と人差し指で輪を作った。

「とても満足しているようですよ。ほら、輪がひしゃげているでしょう。あんなに力を入れているのは珍しいです」

 施設の職員が教えてくれる。

 こんな具合に喜んでもらうことは、村井にとって初めての経験だった。

 皆でゾロゾロ表に出て、入り口に看板を掲げる瞬間を見ていてもらう。銘々が、自分で掲げた気になってもらう。そうすれば明日からの励みになるだろうと考えたのだ。

 各々が新たに輝きを放つ記念日になったのかもしれない。村井はすっと目を細めた。


 それから何をしたか、村井はなにも覚えていない。

 ささやかなタクラミがどんな結果を招くのか、ただ素直に喜ぶだけの村井には考えられなかった。


 仕舞いこまれ、忘れ去られていた一枚の板。

 命を吹き込まれた板は、いったいどんな朽ち方をするのだろうか。


 二人にはそれを知る由もない。

 ただただ、今日も遠慮のない言葉を交わす。


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[良い点] 『わたしの形で、わたしの色で実りたい』 親父の言葉と茄子の花。万に一つの無駄もない。とは、死んだ親父の親友が言った言葉です。今になってその意味が沁みるのです。親孝行したいときには……ですね…
[一言] 温もりある素敵な作品をありがとう おもいっきり泣きました…>_<…
2015/09/16 18:58 退会済み
管理
[一言] 初めまして。 好奇心で、迷いこんでここに来たような者です。 それで、ここにいて教えられました。 なろうって若い人たちだけのモノじゃないんですね。 何か?驚きです。 色々な…
2015/04/19 15:25 退会済み
管理
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