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封魔の城塞アルデガン

『人狼』 ~アルデガン外伝2~

<目次>

 第1章 焼け落ちた村

 第2章 大草原

 第3章 戦禍の大地

 第4章 砂漠の街

 第5章 占師の家

 第6章 沼地

 第7章 燃え上がる村

 第8章 小川のほとり



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----------



 第1章 焼け落ちた村



「これが……、これが人間のしたことなのか」

 斬首された村人たちの死体の山を前に赤毛の若者は呻いた。

 アルデガンがレドラスからの巨大な火の玉の襲撃により破られて五日後、アルデガンから逃れ出た魔物たちの足跡を追って三人はこの村にたどり着いのだった。だが、そこに広がっていたのは想像を絶する破壊の跡だった。


「魔物はこの村に入ったんですよね? グロス師父」

 赤毛の剣士の鳶色の目が隣に立つ巡礼姿の小柄な中年男にすがるように向けられた。

「私たちは足跡を追ってここまで来たんですから……」

「そなたもわかっているだろう? アラード」

 グロスは沈痛なまなざしを死体の山に向けたまま応えた。

「これは剣による傷だ。それに魔物の足跡は固まったまま村の反対側を突っ切っていた」


「レドラス軍はここで魔物どもに遭遇したようだ。連中の紋章の入った装備があちこちに散らばっているし野営の跡もある」

 グロスと同年配の熊を想わせる巨漢の戦士が歩み寄った。

「やはりそうか。ボルドフ」

「ああ」

 ボルドフは苦々しげに唸った。

「レドラス軍はこの村を襲うと村人を皆殺しにして火を放った。そして村の反対側に野営するため邪魔な死体をここにまとめた。魔物たちが村にきたのはその後だ。足跡は奴らが野営した場所をまっすぐ突きぬけている。それに王の乗り物らしい派手な戦車が横倒しになっている」

「では、王が吸血鬼に襲われたというあの話も」

「やはり嘘ではなかったのだろうな」


「……これじゃ魔物となにも違わないじゃないですかっ!」

 アラードが叫んだ。叫ばずにいられなかった。

 村を焼かれたノールド出身の仲間の気持ちが、憎しみが初めてわかった。そう思った。そう信じた。

 けれど、ここは彼の村ではなかった。殺されたのは見知らぬ者ばかりだった。



----------



 レドラス軍が最初に踏みにじった国境近くの村にノールドの遠征隊の姿があった。王城リガンで組織された遠征隊は集めた兵士たちの村々を回りながら国境へ向かったのだった。

 王宮は彼らの憎悪と敵意をあおるためにそうさせた。兵たちも自らの目で確かめずにはいられなかった。

 彼らが見たのは地獄だった。


 金髪を振り乱したその長身の兵士は、青い瞳の色さえ血走って定かでなくなった目で二つの首を凝視していた。

 父の首はカラスについばまれ、顔の肉が半分そげていた。崩れかけた母の首は、にもかかわらず苦悶の痕跡を留めていた。


 ほんの一週間前まで、彼グランはアルデガンの剣士として魔物たち相手に死闘を繰り広げていた。二十五歳というアルデガンで戦う者としては年長の部類に入る年齢こそ彼の力の証であった。仲間が次々と倒れる中グランは死力を尽くして戦い抜いた。

 それも家族をはじめとする背後の人々を守る意志ゆえだった。決して魔物の牙になどかけてはならぬという思いに支えられてのことだった。


 その彼の背後で、父は、母は惨殺された。人間の手で。

 いや、人間であろうはずがなかった。レドラスの者が。

 守っていた者を襲ったのは魔物でなければならなかった。彼は皆を守るために魔物と戦っていたのだから。

 自分は魔物から守るために戦っていたのだから。父を、母を、妹を……。

 ……ミラはどこだ?

 グランは幽鬼のごとく立ち上がり、憑かれたように死体の山を掘り返した。

 首はどこにも見つからなかった。だが、無残な狼藉の跡を残す首なし死体が見覚えのある腕輪を着けていた。


 それを見たとき、彼の心のなにかが砕けた。決して失われてはならぬものが。

 迸しる絶叫はもはや言葉の態をなしていなかった。獣のごとき咆哮だった。それは血風に乗りどこまでも尾を引き続けた。焼け落ちた家々と死体ばかりの平野のただ中で。






 第2章 大草原



 レドラスとの国境近くの荒野のただ中に、激しく打ち合う音が響いていた。

 激しい気合とともに一閃した褐色の稲妻を、皮一枚ぎりぎりでやりすごした巨体の繰り出す黒い旋風が打ちすえた。木が折れたとは思えない音とともに木刀が砕けた。

 湯気を上げるほどの汗にぐしょ濡れになった赤毛の若者が膝を屈した。衝撃でしびれた両手が木刀の残骸を取り落とした。

「突き技の速さだけはたいしたものだが、後先なしではどうにもならん」ボルドフが黒塗りの木刀を突きつけた。

「おまえの戦い方だと相手を倒せても刺し違えになるだけだぞ。それでは勝ったとはいえん。生き残らねばそこで終わりだ」


 アラードは返事もできず、荒い息をつきながら巨体の剣の師を見上げた。その視線を受けたボルドフの黒い目が細められた。

「忘れられないのか。村で見たことが」

 アラードは答えなかったが、ボルドフは続けた。

「忘れられないのは仕方がないが呑まれるな。心乱れたままではとうてい戦えんぞ」


「私の力が足りないからですか」アラードが呻いた。

「こうして剣を磨けば乱れを克服できるでしょうか」

「力を磨くのが自分への信頼につながれば支えにはなるだろう。だが人間に対する疑念が自分への信頼をゆるがせているのなら、それは間接的なものにすぎん。力とは違う次元の話だ。自分なりに疑念に対する答えを出すしかないだろう」

 ボルドフは木刀を納めた。

「そういえば、あいつもなにやら悩んでいるようだな」

 顔を向けたアラードの視線の先に、羊皮紙の束を睨むグロスの姿があった。



「これが解呪の技の術式だ。吸血鬼の魂を呪縛する不死の呪いを砕くことで消滅させる唯一の呪文を記したものだ」

 グロスにいわれて羊皮紙を覗き込んだが、アラードにはなにが書いてあるのかさえ読み取れなかった。

「暗号だよ。ラーダの教義に鍵をひそめたものだから教義に通じた者でなければ文言がそもそも読み取れない。そのうえもともとの邪法の術式に食い込むように教義にもとづく禁忌の術式が組み込まれている。あたかも術を使う者の心を監視するかのように。そして浄化と鎮魂の祈りで結ばれる」

 グロスの言葉がとぎれた。結びの部分を見つめていた。


「術式を変えるには教義と魔法体系の双方に深く通じた者でなければ手を出せぬ」

「変える? 師父は術式を身につけておられるのでしょう?」

「だが発動できずにいる。自分でもなぜかわからない。いや」

 グロスは嘆息した。

「実のところ私はこの術のあり方が納得できないのだ。この術は術者に無理なことを求めているのではないかと」

 グロスは傍らに立てかけた錫杖に目を向けた。それはアルデガンで彼が仕えた大司教ゴルツの使っていたものだった。ゴルツがアルデガンを守るため命を落としたあと、グロスが師を偲ぶ形見として持ち出してきたのだった。

「むろんゴルツ閣下は術式を身につけ使いこなすことができた。それでもこの技は閣下を苛んだではなかったか。そなたは閣下に同行しその戦いぶりを見たであろう。そうは思わぬか?」

 もちろん憶えていた。忘れられるはずがないものだった。


 アルデガンの洞窟で、ゴルツは二十年前に吸血鬼にさらわれたラルダと対峙した。愛娘は変わり果てていた。己に降りかかった運命の不条理に心歪ませ無残に堕ちていた。不条理を免れる者を許せずわが身と同じ地獄に落ちよと憎み呪うしかないまでに。

 ラルダはその憎悪と呪詛ゆえにリアを牙にかけながらもあえて殺さなかった。生きたまま転化した我が身の苦しみを味わえとの思いゆえ凄まじい血の渇きすらねじ伏せ吸い残したのだ。そして全ての者を同じ牙の災いに引き込まんとしていた。

 ゴルツは壮絶な戦いの末ラルダを滅ぼすしかなかった。しかも神の御許へ還れとの老いた父の願いはもはや娘に届かなかった。全てを呪いつつ彼女は霧散した。その身も魂も無に帰した。


 だから娘を牙にかけた吸血鬼に出会ったとき、ゴルツは憎悪に染められた。その憎しみの激しさは術式に組み込まれた禁忌の枷さえ打ち破り、憎悪の心では発動できないはずの術を暴走させてしまった。呪殺の邪法としての本来の姿をむき出しにした解呪の技は怨敵を滅殺したが、組み込まれた禁忌の術式は教義に背いたゴルツの心の奥底を大きく乱した。

 ゆえにリアがアルデガンに迫る破滅を己が心の命じるまま警告しに現れたとき、ゴルツはもはや正しく術を発動できなかった。彼女の心を感じつつも受け入れることのできぬその心を反映して術はねじれた形で発動した。少女の魂を呪縛する不死の呪いを砕くことができず、ただ不滅の肉体を無意味に苛み切り刻むばかりだったのだ……。

「これでは相手が邪悪で許せない者であればあるほど、この技は使えないとしかいえぬではないか。とても浄化も鎮魂も願う気になれぬ相手なら本来は発動もできない。できたらできたで術者の心が損なわれる。なぜこんな術式になっていると思う?」

 アラードに答えられるはずがなかった。


「……禁忌の術式を外すしかないかもしれぬ……」

 アラードは耳を疑った。「しかし師父! それでは……」

「確かに呪殺の邪法の姿に戻すことになってしまう。だから私も迷っているのだ。もともとの邪法は人間同士の殺し合いの道具として魔道の領域から生まれた。そのままの形ではこの世の災いでしかないものだ。それゆえ過剰に制限を設けた先人たちの恐れもわからぬではない」

 呻くような声だった。その目は古の羊皮紙を凝視していた。

「しかし吸血鬼と化した者はもはや人外の魔性。討つための力は必要だ。アルデガンでのリアは確かに人の心を残していた。だがいつまでもそのままでいられるとそなた断言できるか? すでにあれは牙を血で染めたはず。ラルダやその仇敵のような鎮魂も浄化の祈りも届かぬ邪悪の権化に堕ちぬといえるのか? そもそもリア本人が自らの末路への恐れゆえに己を滅ぼせと願ったのではないか。そなたに託したのではないか」

「師父!」アラードは思わず叫んだ。声に血を吹くような苦痛がにじんだ。グロスがはっと顔を上げた。それがアラードにとってどんな問いかけであるか気づいたらしかった。


 アラードはリアが瀕死となったとき自らの手を切り裂き刃をつたう血を飲ませてしまった。彼女の魂が失われることに耐えられなかったからだが、それはリアが人外の魔物と化すことへの恐怖と表裏一体のものだった。しかもゴルツの死に立ち会ったとき、血溜りからの血臭にリアは渇きに襲われた。必死で抗うその心が屈しようとするさまを、彼は恐怖に見開いた目で見たのだった。それこそ彼女に人間としての己を断念させた最後の打撃となったものだった。

 アラードの心の底に爪あとを刻んだそれらの記憶は安易な楽観を許さないものだった。彼がいまだ正面から向き合えぬものに、グロスの言葉はじかに触れたのだった。

「すまぬ! そういうつもりではなかったんだ!」

 うろたえたような師の声に、アラードはぎこちない笑みを返すのがせいいっぱいだった。



----------



 レドラス領内に入ってしばらくいくとアラードたちは大草原に出た。それとともに魔物の足跡がたどれなくなった。

「ここからどう行くかだな」

 腕組みをするボルドフにアラードはいった。

「リアは豊かな実りを求めて南下するといっていました。人里もおそらく避けていくはずです」

「大筋はそれでいいだろう。だが私たちは人里にも寄らぬわけにいくまい。水や保存食も要るし情報も欲しい」

 グロスの言葉にボルドフは頷いた。

「そうだな。それに群れからどこにどんな魔物が解放されるかも確かめて、近くに住む者がいるなら警告もしておかねば」

「では私たちは巡礼殿に雇われた護衛二人というわけですね」

「そういうことだ。くれぐれも国境を越えてきたなどと悟られてはならん。無意味な争いは避けねば」

「レドラス領の道はそなただけが頼りだ。よろしく頼む」

 グロスの言葉をアラードは意外に思った。

「隊長はこの地域のご出身だったんですか? 私はアルデガンのご出身とばかり……」

「いった端から。隊長じゃないだろ? 俺は巡礼の護衛だぞ」

 苦笑したボルドフは、遠くを見るような目で語り始めた。


「俺は西部地域の村の出だったんだ。親父が死んで何年かたつと今度はお袋が病気になった。薬代に困っている時に兵士の募集がきた。領主の跡目争いで二人の息子が兵力を増やそうとかき集めていたんだが、むろんそんな事情はどうでもよかった。とにかく金が欲しかったんだ」

「こんな体格だったからむろん村の自警団で剣を振るったことはあった。野盗や敗残兵と戦ったことも一度や二度ではなかった。だからそんなつもりで戦に出た」


 ボルドフは言葉を切った。再び口を開いたとき、声には苦渋の色がにじんでいた。

「だが、戦は予想していたのとは全然違った。自分の故郷や家族を守るのとは。領地の主導権争いだったから勝ち戦のときは村や領民に対する配慮も一応見せたりしたが、負け戦で撤退するときがひどかった。敵の拠点となるのを防ぐために村を焼き払うのが常道だった。野盗よりひどいとしか思えなかった。野盗は生きるために物を奪おうとするが、あれは敵の手に渡すまいという思惑一つで村とそこに住む者の暮らしを根こそぎ破壊することでしかなかったから。レドラス軍の虐殺に比べれば生ぬるいとはいえ、それでも俺には耐えがたかった」

 ボルドフがわざわざ身の上話を始めたのは、自分にこのことを伝えたかったからだとアラードは悟った。若き日の師もまた戦の非道をまのあたりにしたのだと。


「そんなときお袋が死んだという知らせがきた。俺は軍を脱走した。だから村には戻れなかった。行くあてもなくさまよった末に俺はさびれた寺院にたどりついた。忘れられていたその寺院こそラーダ教団の西の拠点の一つだった。そこの術者にアルデガンの話を聞いて、どうせなら人間より魔物相手に戦いたいと思いこのレドラス領を通り抜け北の王国まで旅をしたんだ。今とちょうど反対向きに」


 ボルドフは行く手を指さした。

「ここからしばらくはこのままの大草原だ。ところどころに村が点在しているし、遊牧民たちも家畜と共に旅をしている。彼らに魔物の情報を聞きながらどんどん南下すれば広大な砂漠に出る。そこで西か東かのどちらかに進路を変えるはずだから、どっちに行ったか特に念入りに情報を集める必要があるだろう」



 彼らは旅を続けたが、ボルドフの言葉どおりどこまで行っても浅い緑の海原のように草原は続いていた。国境ははるか彼方へと遠ざかり、アラードを悩ませた地獄の光景の印象もしだいに薄れ始めた。そして初めて見た外界への驚きがあのおぞましい記憶に取ってかわった。草原に暮らす様々な人々との出会いはなにもかもが新鮮だった。水辺にささやかな畑を耕す者、枯野に火を放ち芋などを育てる者、質のいい牧草を求めて羊の群れとともに青草の海原を旅する者。彼らの暮らしぶりに赤毛の若者はことごとく子供のように目をみはった。

 そして、彼らの暮らしがアルデガンを出た魔物たちに乱された形跡はなかった。遊牧民たちが月の光を浴びて南下する黒い影の群れをしばしば目撃していたが、定住する者たちが襲われた例は見つからなかった。それはグロスの言葉があらわにした恐ろしい疑念が、まだ現実のものになっていないことの証だった。


 滅びた村は地続きだったが、もはやはるか背後に遠ざかった。穏やかな旅路が続くうち、アラードの疑念もいつしか安堵の中にまどろみつつあった。






 第3章 戦禍の大地



 レドラス領の大半を占める大草原を、たった八人の兵士たちがひたすら馬を駆っていた。


 金色の髪と青い目の北方民族の徴を持つ彼らの姿は、あるいは勇壮で美しくさえありえたもののはずだった。

 だが、その鎧は北の王国の紋章も判じられぬほど汚れ、振り乱された髪も鈍く色あせていた。血走り狂おしく燃える目はむしろ赤くさえ見えた。

 たったいま彼らは五十人近いレドラス軍の一団を、魔物相手に磨いた凄まじい剣技にものをいわせて全滅させたばかりだった。流れ矢で仲間を一人失ったのに弔いもせず、敵の死体ともども打ち捨てたまま走り続けていたのだ。風にまで血臭が混じりそうな凶々しい殺気は魔狼の群れさながらだった。もはや人の放つ気配ではなかった。


 彼らがどこまで走っても焼け落ちた故郷は地続きだった。あの恐ろしい光景は彼らの魂に焼きつき、果てしなく身を駆り立ててやまなかった。彼らの村の惨劇は確かに現実だった。ならば行く手に次々と現れる光景はどれもがまやかしだった。そんなものが現実であってはならなかった。自分たちの故郷だけがあんな地獄と化すべき理由などあるはずがなかった。彼らは心狂わせつつも本能的に悟っていた。そんなことを受け入れたならば、不条理に軋む己が魂はその瞬間に砕け散ると。

 だから彼らは次々現れるまやかしを、自らの現実と同じ地獄にただひたすら塗り変えるしかなかったのだ。




 ノールドからレドラス領内に侵攻した遠征隊を待っていたのは泥沼としかいいようのない状況だった。


 遠征隊が最初に向かったのは王城ドルンだった。つい十数年前にノールドとの国境近くに築かれたこの城はあの巨大な火の玉が放たれた拠点であったので、ノールド王宮はこの城の制圧または無力化を最重視していた。遠征隊の規模は城攻めには十分とはいい難いものだったが、レドラス軍が予想外の壊走を見せた今なら混乱を突いて攻めることも可能と思われた。もしもあの恐るべき火の玉をさらに放つ余力を残しているなら次こそ標的はノールド王城リガンであるはず。むりやり掻き集めた遠征隊に頼ってでも王宮としてはなにがなんでも攻めねばならぬ場所だった。


 その危惧は外れた、王宮にとって幸いなことに。だがその判断の狂いは遠征隊とレドラスの民に悪夢と地獄をもたらした。


 ノールド王宮はレドラス王城ドルンの真の姿を知らなかった。自らの王城リガンと同じく国の中枢であると考えていた。だからここさえ陥とせば戦は自国の勝利に終わると思い込んでいた。

 だがこの城は、狂気の魔術士ガラリアンを利用し巨大な火の玉を放った砲台にすぎなかった。その役目を終えた巨大な切り株のごとき建造物は、もぬけのから同然に放置されていた。

 もしレドラスがノールド攻略に成功していれば遊牧民族が支配するレドラスもこの城を拠点とした国家形態を取り、対外的には他国を、領内に対しても領民を威圧する大いなる象徴にこの城をまつりあげたかもしれなかった。だがそうなる前にレドラス王の野望は潰え、王ミゲル自身もリアの牙にかかって果てた。

 いまだにレドラスの支配形態は武力にまさる遊牧民族が広大な領地に点在する農耕民族の集落を周期的に収奪してまわるものにすぎず、ミゲル王が王城ドルンを拠点とした十数年の間に芽生えかけていた行政組織も王の死により瓦解した。遠征隊が到着したドルンは実体のない王国の空疎な城だった。屋上の魔術士の骸と同じくぬけがらと化していた。


 そのうえレドラス侵略軍の膨大な兵士たちはそれぞれの故郷に逃げ帰った者もいれば、そのまま野盗の群れと化し領内の村々を襲い争いあう者までいるありさまだった。大陸最強の軍事国家は権力のたがが外れたとたんに崩壊して巨大な混沌と化していた。遠征隊は勝利を宣言するための目標となるべき国家の実体が砕け散り、あらかじめ失われた敵地に投入されたのだ。

 だから遠征隊は戦略も展望もなしに出会うもの全てと戦った。まわりはみな敵だった。もともとレドラスへの憎しみを煽られた者たちで構成された遠征隊はレドラス軍の残党も村を守るために鋤鍬を手に取った村人も見境いなく襲った。憎悪にかられ泥沼の殺し合いを続ける彼らは戦場の狂気に次々と冒された。指揮官が戦死すると遠征隊はついに瓦解したが、それも殺し合いの終わりを意味しなかった。凄惨さに耐えられなくなりぼろぼろの心身をひきずり故国をめざした者もいくらかいたが、似た者同士が寄り集まって野盗に身を落としたのがほとんどだった。体内で折れた蛇の牙のごとく、彼らは広大な敵領をいつまでも毒し続けた。


 レドラスの人々はこれを蛮族の襲撃と呼んで憎んだ。ノールドから逃げ帰った兵士たちが伝えた魔物の群れの噂と共に、北から襲来した大いなる災いとこれをみなした。



 だが、遠征隊の兵士の中で最も深く濃い闇に心狂わせた者たちの恐怖を伝える者はいなかった。永遠に喪われたものへの渇きに呪われた彼らは襲った相手を容赦なく全滅させた。十騎に満たぬ彼らの放つ凶々しい殺気を前に誰もがすくんだまま斬殺された。生きて逃れた者は皆無だった。彼らは眼前に現れる光景を、血しぶきと阿鼻叫喚に彩られた地獄図へとひたすら塗り変え続けた。魂に焼きつけられた己が故郷の無残な現実と同じものに。


 その恐怖の騎兵を率いる者こそ、グランだった。






 第4章 砂漠の街



 約半年かけて大草原をはるかに越えてきたアラードたち三人の前に、ついに広大な砂漠が姿を顕した。

 おりしも真上から照りつける太陽の熱に焼かれて、からからに乾いた砂の海が赤茶けた姿でどこまでも広がっていた。北の王国ノールド領内にあったアルデガンの気候に慣れたアラードの想像を絶する苛烈な熱が頭上と足元から噛み付くような激しさで身を苛んでいた。灼熱地獄さながらだった。

 はぐれた羊を探す途中に黒い影の群れが砂漠に入るのを遠くに見たという者がいたが、魔物たちの群れに関する情報はそれきりとぎれた。砂漠から出てくるところや迂回するのを見たという者には出会えなかった。魔物の群れに大きく引き離されていたため相手とは四ヶ月以上の開きができていた。魔物の群れは四ヶ月も前にこの砂漠に入り、そのまま戻っていないのだ。


「大変なことになった」険しい顔でボルドフが唸った。

「なぜですか。ただまっすぐ行っただけなんでしょう?」

「ばかいえ、この砂漠はとんでもない地獄だぞ。こんなところに踏み込んだら命がいくつあっても足りん。人などあっという間に砂嵐に巻かれて自分の居場所もわからなくなって、あとは太陽に焼かれて骨になるんだ」

「むろん踏み込んだのは魔物だ。そうやすやすと全滅などせんだろう。どこかで砂漠から抜けるはずだ、極限まで飢えた状態で。それが人間の住む場所に行けば……」

 ボルドフはあたりを見回した。

「砂漠には入れん、縁沿いに行くしかないが、どこへ、どっちに行けばいい?」

「だったら東へまわってくれないか!」

 切迫した声でグロスがいった。ボルドフが訝しげに訊ねた。

「いったいどうした? なぜ東なんだ?」

「ゼリアという名の街がこの砂漠の東にある。そっちへまわってほしいんだ。そこにもラーダの寺院がある」

「そこで情報を得たいとおっしゃるんですね」

 アラードの言葉にグロスはわずかにためらう様子を見せたが、意を決したのか彼に向き直った。

「それだけじゃない。少し前に異変が起きた可能性があるのだ。それにあそこは、そなたが拾われた場所なのだ」


「……拾われた、ですって?」

 アラードはいわれた言葉の意味がしばし理解できなかった。

「私はアルデガンで生まれ育ったはずじゃ? 父も母も私が幼いうちに死んだのだと……」

「確かにアルデガンに住む者の多くはそうだ。だが、ノールドを中心に外部からやってくる者もいた。ボルドフのように自らの意思でやってきた者はむしろ少なく、幼いうちに捨てられ拾われた者がはるかに多い。そなたや私のように……」

「師父も!」

 アラードの叫びにグロスはうなづいた。

「私は東の王国イーリアのはずれにあるラーダ寺院に引き取られた。それ以外はなに一つわからぬ。魔術師の修行を終える直前に私は育ての親からそう教えられた。そして心を乱された。初陣はひどいものだった。奇跡的に死者こそ出なんだが腕や脚を失った者たちが出た。私の呪文がほんの一瞬遅れたばかりに……」

 グロスの表情が歪んだ。

「アルデガンで戦う以上迷いは敗北と、死と同義だ。にもかかわらず私は迷いを克服するのに長くかかってしまった。迷ったところで何がわかるわけでもないのに。

 だからゴルツ閣下にお仕えするようになってから私は進言したのだ。身元のわからなかった者についてはここで生まれ育ったと押し通したほうがいいと。迷いは本人や仲間の生死にかかわる、絆に支えられ迷いなく使命を果たす方が本人のためであると。

 進言は容れられた。それ以後アルデガンでは幼くして外部から引き取られた者は両親が早くに死んだという内容で経歴も作られるようになった。実際に両親をなくす者も多かったから本人たちが気づくことはなかった……」

 言葉を切って、グロスはアラードを見つめた。


「そなたのその赤い髪と褐色の目はこの大砂漠の東部一帯に定住している農耕民族の徴だ。ゼリアの寺院に預けられた詳しい経緯は不明だが、おそらく街か近くの村で生まれ、捨てられたのではないかと私は思う」

「……わかりました、それは。では、その街に異変とおっしゃるのは?」

 アラードの言葉に、グロスは背の荷物を下ろすと中から一つの宝玉を取り出した。そして荷物で陽光をさえぎった。

「光の点がいくつか見えるだろう? 夜でなければはっきりしないが」

 アラードとボルドフが宝玉を覗くと確かに光の点が見えた。しかもそれらはどれもが違う色のようだった。

「アルデガンや四つの塔に宝玉があったように、寺院にも宝玉があるのだ。力は取るに足らないもので大したことはできないが、この玉よりはどれも大きくて呪文をかけると互いを感知して光るのだ」

「つまり、この光の点はそれぞれが寺院の宝玉を示しているというのか?」

「そうだ、ボルドフ。そなたが昔訪れた西部地域の寺院の宝玉はその紫色の光だ。逆にそれぞれの宝玉からもこの宝玉が見える。それも光の位置によってこの玉の、つまり我々のおおよその位置がわかるのだ」

 グロスは宝玉を荷物に戻した。


「私はアルデガンを出るときすべての寺院に早馬を送った。我らはアルデガンを出た魔物の群れを追う。我らの位置を常に把握し噂に惑わされぬよう対処するようにと。レドラス軍が魔物の群れに出会い壊走したのであれば逃げ戻った兵士たちの話から流言蜚語が各地に広まり無用の混乱をきたす恐れがある。だから我らの場所を把握するためこの宝玉を感知する呪文を使えと。

 むろん全ての早馬がたどり着けたわけではなかろう。初めから光が点らなかった寺院もいくつかあった」

「だが、光がいったん点ったのに消えたところが一ヶ所あった。それがこの大砂漠の東、ゼリアの街の寺院の宝玉だ。今から半月ほど前になる」

 炎天の下、司教の顔は色を失っていた。

「なにしろ迂回すれば馬でも半年かかる距離だ。私も結びつけて考えなかった。だが砂漠で迷い斜めに行けば、魔物たちの足なら三ヶ月で東に抜ける可能性もある……」

「馬が手に入らなければ俺たちは一年どころではすまんぞ」

 ボルドフが唸った。



----------



 なんとか途中で馬を手に入れてやっとたどり着いたその街は、砂漠のほとりに太陽に焼かれて横たわっていた。すでに一年近くたっていた。

 遠くから一瞥しただけでは異常はないように見えた。砂煉瓦の建物が損傷をこうむっているわけでも街を取り巻く壁が崩れているわけでもなかった。

 だが、動くものの姿がなかった。あまりにも静かだった。

 ボルドフの表情が厳しく引き締められた。グロスが生唾をのむのが聞こえた。

 近づくにつれて街の細部が見て取れるようになった。東に石を敷き詰めた街道が伸びていた。どうやらそちらが街の入り口らしかった。

 入り口に馬を回した彼らの目の前に街道からそのまま一直線に街を貫く大通りが見えた。見上げた門には「ゼリア」と街の名が彫りこまれていた。

 人影はまったくなかった。大通りにも両隣に並ぶ建物にも。

 どの建物も扉や窓が破られていた。


 大通りに馬を進めた三人は一番手前の建物の中を覗いた。

 外の光になじんだ目にはなにも見えなかったが、暗がりに目が慣れるにつれてその惨状が浮かび上がってきた。

 どうやら商店か取引所らしき作りだった。だが大きな机も椅子も散乱し、周囲の窓や奥への扉が砕かれていた。途方もない力のものが暴れ込んだようにしか見えなかった。そして床や壁には、いたる所に黒ずんだ汚れが付いていた。

 部屋の隅に散らばっている物が光った。貨幣だった。

 近くのどの建物も同じだった。

「野盗ではないな。やはり魔物か」「では、寺院も」

 寺院もすっかり荒らされていた。一番奥の破られた扉の中で、アラードは砕かれた祭壇や周りに散らばった宝玉の破片を呆然と眺めていた。

 何かを期待していたわけではなかった。ここまでの長い道中に覚悟をしていたつもりでもあった。それでも己が生地のあまりに無残なありさまは彼を打ちのめした。


 彼らは街の中央の広場に出た。広場には街から村への道しるべが設けられていた。

「これで見ると一番近いのはドーラという村か」

「無事でしょうか……」

 アラードが呻いた。旅に出てから初めて目にした魔物の爪跡の凄まじさに彼は圧倒されていた。アルデガンで戦っていたとき、ここまで恐ろしい相手とは思っていなかったような気がした。

「行ってみるしかないだろう? 滅ぼされていたならここを出てから真東に向かったことがわかる。無事なら何か話が聞けるかもしれない」

 グロスの言葉に彼らは馬首を東に巡らせた。


 この街道は商人たちの行き来を想定したのか道しるべが多く、迷わず馬を走らせることができた。けれど砂漠からの熱風は枯れ果てた怨嗟のようなひりつく音をたてて廃墟から遠ざかる三人に追いすがった。いつしかアラードは、追い立てられる心地で馬を駆り立てていた。

 木立を抜け視界が開けたとたん、アラードの視野に道の中央に立つ人影が飛び込んだ。反射的に引いた手綱が蹄にかける寸前で馬を止めた。

「大丈夫ですか!」

 声をかけたアラードの目が驚愕に見開かれた。背後の二人も息をのんだが、そんなことにはまったく気づけなかった。

 若い娘だった。頭の後ろでまとめられたまっすぐな髪は赤く、見開かれた大きな目は鳶色だった。アラードと同じだった。

 だが、彼女の顔はリアに生き写しだった。


 アラードと娘が互いに見つめ合ったまま身を凍りつかせている間、ボルドフはグロスに目配せをした。グロスはうなづくと娘に声をかけた。

「すまなかった。怪我はないか? 娘さん」

 少女は僅かにうなづいたが、すぐには声が出ないようだった。やっと出た声は震えていた。

「……あなたたち、まさかゼリアの街から? いったい誰?」

「怪しい者ではない。私は巡礼だ。たまたまあの街の廃墟の近くを通っただけだ。そなたはこのあたりに住んでいるのか?」

 娘の表情が目に見えてやわらいだ。

「巡礼の方ですか? だったら母さんのために祈っていただけませんか? ついそこの、ドーラの村なんです」

「ご病気なのか?」グロスの問いに娘は口を閉ざしたが、やおら顔を上げると訴えた。

「母さんは一年前にゼリアの街が滅ぶのを視てしまったんです。それから様子がおかしいんです。お願いです! いっしょに来て下さい!」


 娘はリーザと名乗った。彼女の母はドーラの村の占師だった。だが一年前のある夜、ゼリアの街が魔物の群れに全滅させられたのを視たのを最後に力を失った。しかもそれ以後様子もおかしいのだと。

 そんな話をするリーザを馬に乗せて手綱を引いて歩くうちに、ドーラの村が見えてきた。十数戸の農家、おそらく百人に満たぬ小さな規模の村だった。

 村人はみな髪が赤く鳶色の目をしていた。アラードは無人の廃墟だったゼリアでは感じなかった感慨を覚えた。この地が自分の故郷だったという思い。実感となるために必要な記憶はなに一つなかったが、草原で見た様々な人々の営みの記憶がありえたかもしれぬ自らの姿を幻視させた。それは彼を甘く苛んだ。

 村長に挨拶をして案内された占師の小さな家は一番奥だった。


 リーザの母ローザは背が老婆のように曲がっていたが、大きな鳶色の目が神経質な印象を与える細面からは四十前くらいと見て取れた。娘が連れてきた三人の珍客に驚いた様子で針仕事を置き杖にすがって立ち上がった。見ると左足が短かった。

「巡礼の旅の途中に砂漠で廃墟の街を見ましたが、そこからこの村へ来ましたら娘さんに随分と驚かれましてな。聞けばあの街のことをご存じとのこと。できれば宿をお借りした上でお話しでもおうかがいたいと思いましてな」

 巡礼の型どおりに癒しと招福の祈りを捧げたグロスが話す間もローザの目は彼らを値踏みするように見ていた。アラードは占師と呼ばれる者には初めて会ったが、見すかされているような気がして落ち着かなかった。

「納屋でもよければ泊めてあげるよ。でも、あの街の話は夜にはとてもできやしない。リーザ!」「なあに? 母さん」

「客人だ。これじゃ水が足りないよ。汲みに行っておくれ」

 リーザは怪訝そうに母の顔を見たが、うなづくと水桶を持って出ていった。

 リーザには聞かせたくない様子だった。アラードはどんな話になるのか、なんだかわかるような気がした。


 ローザはしばらく聞き耳をたてている様子だったが、やがて三人に鋭いまなざしを向けた。

「あんたたち、巡礼じゃないだろう?」

「……なぜ、そう思われる?」

「あれからこの道はみな怖がって来ないんだ。巡礼ならなおさらさ。だいいち街道を通らなきゃ巡礼地には行けないのに、あんたたちは砂漠のそばをずっと来ただろ。でなけりゃそんなに日焼けするもんか」

「これは参った。もっと気をつけないといけないようですな」

「これでも占師だったんだ。今はただのお針子だけどね」

 自嘲の笑みを浮かべながらも、その目は彼らを探っていた。

「で、どうしてあたしの話が聞きたいんだい?」


「我らは魔物の群れを追っている」

 ボルドフが静かにいった。

「たった三人でかい? そんな馬鹿な!」

「むろん正面から挑めはしないが、それでもやつらの被害を少しでも抑えたい」

 ボルドフはローザの目をまっすぐ見た。

「あの街が魔物に滅ぼされたのを見たと聞いたが?」

 ボルドフの視線を受けたローザの顔が苦しげに歪んだ。逡巡の後、しかし彼女は思いつめたように口を開いた。


「一年たってもまだうなされるんだ」

 声がかすかに震えていた。

「あたしはとんでもないもんを視てしまった。遠見の力があったばかりに。しかもそのせいで力まで無くしてしまった」

 ローザは椅子にかけ直すと、杖をぎゅっと握りしめた。

「この話は嫌なんだ。なるべく手短かにさせておくれ!」






 第5章 占師の家



 ローザは子供の頃から遠見の力を持っていた。それがどのようなものかは彼女自身もうまく説明ができなかったが、集中すると遠くのものが映像として心に映るということだった。生まれつき不自由なその身を天が哀れんだと周囲がみなしたため、幸いにも大きな迫害は受けずにすんだという。

 歩くのもままならぬ彼女は鳥に憧れ、空を見たり空から視下ろすのを好んだ。そのうちに遠くの空模様を視ることで村の天候を予測できるようになった。村人たちは彼女の助言がなければ対処できなかったはずの作物への被害を幾度も免れたのだ。

「おかげでみんなには大事にしてもらったよ。でなけりゃあたしなんかただの役立たずだったんだからね。赤ん坊を残して亭主に死なれた身じゃとても生きていけなかったろうよ」

 鳶色の目が哀しげに天を仰いだ。その力ももう失われたのだ。アラードは翼の折れた鳥を連想せずにいられなかった。

「もうわかっただろうけど、あたしは占いをするわけじゃない。ただ遠くが視えるだけだったんだ。みんなが勝手に占師と呼んでいたのさ」

「そんなふうにして、あの街のこともご覧になったのか?」

 グロスの言葉にローザはうなづいた。顔色が失せていた。口を開きかけて、彼女はごくりと生つばを飲みこんだ。


「……夜中に目が覚めちまったんだ。なんだか恐ろしい夢を見ていたようだった。気持ちの悪い汗でびっしょりだった。

 夢のなごりのざわめくような気配が西に固まっていくように感じた。あたしの意識も気配につられるようにそっちに伸びた。ゼリアの街を視下ろしていた。空からいつも視ていた街だった。でも、様子が変だった。視線が街に降りるにつれてうごめくものがいっぱい視えた。それがみんな化け物だったんだ」

「人間の姿は?」

 ボルドフが問うたが、ローザは首を横に振った。


「……あらかた終わっちまった後だった。よくわからない、わかりたくないものを喰ってるところだった。身震いもできずに凍りついてたくせに、もし早く目が覚めていたらもっとひどいものを視たんだろうってしびれた頭でぼんやり思ってた……。

 そしたら叫びが聞こえたんだ」

「聞こえたんですか? そんな遠くの声が!」

 アラードは思わず口をはさんだ。

「耳で聞いたんじゃない。頭に響くような感じだった。とたんに意識がそっちに引っ張られて、寺院の中が視えたんだ」

「建物の中まで!」

「あたしもそんなのは初めてだった。そもそも空ばかり見ていたからね。叫びを感じたり建物の中が視えたりするなんて自分でも知らなかったんだ」


「そこも化け物であふれていた。外と同じようにひたすら貪っていた。でも一番奥で、背の高い男が壁際に押しつけられていた。神官姿で年配の、その男が叫んだらしかった」

「生きていたのか!」

 ボルドフの声に、ローザはかぶりを振った。

「男を壁に押しつけていたやつが首筋に吸いついていた。背なんかずっと低い、か細い小娘にしか見えないやつが。あごまで血が垂れて真っ赤だった。そいつが吸いついている最中なのに化け物どもが次々と待ちきれないみたいに男の手足に食らいついた」

 思わず呻いたアラードをローザが一瞥した。

「やっぱりあいつを知っているね? あんたたちが追ってるのはあいつなんだね!」

 グロスが無言で首肯した。


「……だったらわかるだろう? あいつを見たあたしがどれほど驚いたか。恐ろしく、おぞましく思ったか」

 ローザはアラードたちを見回した。

「なんであいつはあんなにリーザに似てるんだ?」

 答えられる者がいるはずもなかった。


「そりゃあ髪や目の色は違うさ。でも自分の娘そっくりのやつが化け物どもといっしょに人間に食いついてるんだ。真っ赤な目は焦点なんか全然合ってなくて、なにも見えてないみたいだった。気が変になりそうだった。なのに目もそらせられなかった。

 とうとうあいつは男を離した。とたんに食いついていた化け物どもがあっという間に男の死体を引き裂いた。見る間に影も形もなくなった」

「あいつは放心したみたいにつっ立っていた。いつのまにか目もつぶってた。そのまぶたが震えてゆっくり開いた。そしたら瞳が青く変わってた。

 どこにいるのかわからないような顔で、あいつはあたりを見回した。手が血だらけのあごに触れた。びっくりしたみたいに赤く汚れた自分の手を見た。

 リーザそっくりの顔がみるみる歪んだ。とたんにあいつは天をあおいで絶叫した。殺された男の叫びどころじゃなかった。その絶叫があたしを直撃したんだ。頭の芯がはじけた、焼き切れたと感じたとたん、あたしは気絶してしまった」


「やっと気がついたら、リーザの顔が目の前だった。あたしを心配して、泣いて。なのにあたしは悲鳴をあげてしまった。リーザの泣き顔があいつの叫んだ顔とだぶって見えてしまったんだ。

 丸一日意識がなかったということだった。それっきり遠見の力も無くなってしまった……」

「……そのせい、なんですね……」

「あんたのせいじゃないだろ? なぜそんな顔をするのさ」

 言葉を継げなくなったアラードを見て、ローザは深くため息をついた。

「あんたたち、そろいもそろって嘘も隠しごとも下手だねえ。腕は立つのかどうか知らないが、そんなんじゃこの物騒な世の中で長生きなんかできないよ」


 言葉を切ると、ローザは姿勢を改めた。

「どんな因縁で追っているのか知らないけど、とにかくあいつを早くなんとかしてやっておくれ!」

「恨んでいるのではないのか?」

 ボルドフがいうと、ローザの表情が歪んだ。

「そう単純に割り切れるもんか。あんなのに触れちまったら」

「叫びに何か感じたといわれるのか?」

 グロスの言葉にローザはうなづいた。


「さっきもいったけれど、あたしは声を耳で聞いたんじゃない。頭に響くような感じなんだ。あいつの場合、それが殺された男とは比べものにならないほど凄かった。むき出しの感情の固まりが飛び込んできて、一瞬心が丸見えになったんだ。

 取り返しのつかないことをしたというとてつもない罪悪感。我が身のおぞましさへの底なしの嫌悪。それやこれやが何もかも、もういっしょくたになってた。ものすごい自責の念だった」

「こんなやつは許せない。この世にいちゃいけないとんでもない化け物だ。あたしだってそう思ってたさ。でもあいつはあたしの何倍もそう思って、絶望的に思いつめて、叫んで……」

 ローザは三人を見回した。熱に浮かされたような目だった。

「あれが吸血鬼っていうやつなんだろう? 血を吸われた人間も化け物になってしまうとかいう。じゃあ元はあいつも人間だったはずだよ。生まれつきああだったはずがない。でなけりゃ自分をあんなふうに思うわけがない。違うかい?」

 声がかすれていた。ローザは言葉を切り、唇をなめた。


「あんまりリーザそっくりだからいやでも思っちまうんだ。もしリーザがああだったらって。そんなこと考えたら人間と化け物の違いがどんどんあやふやになってきて、どうしようもなく不安になるんだ。あいつが化け物になったのはたまたまじゃないのか。リーザだったかもしれない。あたしやあんたたちだったかもしれない。では人間なんていつ化け物になってもおかしくないようなものなのかって。

 あたしたちは絶対に化け物なんかにならない、あいつとは違うんだって言い切れるなら、ただ許せないの一言で片付けられる。だったら安心だってできるだろう。でもリーザの顔を見るだけでそんなふうには思えなくなる。しまいに恐ろしいはずのあいつを哀れに思いそうになるんだ。一つの街を丸ごと全滅させたあんな化け物だっていうのに……」


「皆には街で見たことを隠していたのか?」

「もちろん街が化け物に滅ぼされたことは話したさ。でもあいつのことは村の誰にもいえなかった。どこからリーザの耳に入るかわからないじゃないか」

「確かめに行った方はおられるのか?」

「一ヶ月以上たってから若いのが何人かでこわごわ見に行った。あんたたちが見たのと同じだった。誰もいない廃墟だった」

「でもあたしは思ってたんだ。あいつはもうここへ来ないんじゃないか。ここを避けて行ったんじゃないかって」

「なぜ? どうしてそう思ったんです?」

「あんたたちは廃墟からここへ来た。街や街道の道しるべを見て全然迷わずに来れただろう? だったら他の化け物はともかく、あいつは来る気があれば来れたはずだ。あたしが気絶から覚める前にみんな食われていたはずじゃないか。

 あいつはわかってて来なかった。いや、わかったから来れなくなったんじゃないか。化け物としての自分を許せないんだから。我を忘れるのも狂うのも許せな……」


 足音がした。ローザが言葉を呑み込んだとたん、水桶を持ったリーザが入ってきた。一瞬、全ての視線がリーザに集中した。

「汲んできたわ」そういいながら、彼女はとまどったように皆を見回した。

 ローザの話を聞いた今、アラードはリーザの顔から目をそらすことができなかった。気づいた彼女も視線を返してきた。

 それと察したのか、グロスがアラードに声をかけた。

「ただで泊めてもらうわけにはいかないな。道中の小川に水鳥がいたじゃないか。そなた、あれを獲ってきてくれないか」




 鴨を射落として戻ったときには日が暮れかけていた。アラードは戸口の前にたたずむ少女の姿にぎくりとした。足が止まった。それを見た相手が滑るように近づいてきた。

 リーザだった。リアのはずなどなかった。だが黄昏の光も薄れゆく影の中もはや髪の色も定かではなく、酷似した顔形ばかりがやたらと目立った。アラードは息をのんだ。

 そんな彼を色あせたリーザの目が見つめた。思いつめたようなまなざしだった。やがて彼女は口を開いた。

「母さんはなにを話したの?」


 アラードが言葉を見つけられずにいると、リーザは続けた。

「あたしのことをなにか話したんじゃないの?」

 否定しようとした。だが、相手の思いつめた顔が安易な言葉を許さなかった。

「母さんも時々そんなふうになるわ。あたりが暗かったり、急にあたしを見たりしたとき。街のことを見て以来」

「あなたたちまでなによ。あたしを見てびっくりしたような顔をするじゃない! まるで、まるで母さんみたいに……」

 いつしか涙声になりかけていた。

「こんなに心配しているのに、なぜみんなで隠すのよ。あたしがどうしたっていうの? 教えてよ! 知ってるんでしょう?」


「そなたの母はあまりにも恐ろしいものを見てしまわれた。その心の傷が化け物にそなたが襲われる悪夢を見せているのだ」

 リーザが振り返った。グロスが戸口に立っていた。

「いずれ日にちがたてば記憶も薄れよう。そうなるまでしばらくかかるやもしれぬが、寄り添ってあげてはもらえぬか。そなたが一番の薬なのだから。ほらアラード、鳥を渡してあげねば仕度もできぬではないか」


 グロスをしばし見たあと、リーザはまたアラードのほうに向き直った。だが宵闇の中、その表情はもうはっきりしなかった。

 やがて彼女はうつむき、ぎこちなく差し出されたアラードの手から鴨を受け取ると足早に家の中に姿を消した。アラードの傍にグロスが歩み寄り、戸口を振り返ってため息をついた。

「納得してはくれなかったか。なにしろ私たちは嘘も隠しごとも下手だそうだからなあ」




 夕餉の仕度はリーザの仕事だった。アラードの持ち帰った鴨は簡素ながらも香り高い料理に姿を変えて出された。

 だがアラードは食事にほとんど手が付けられなかった。夕餉の支度をするリーザの姿にローザが語ったリアの姿がいやでも対比された。まるでリアがなにを奪われたのかを見せつけられる思いだった。

 リアを牙にかけたのは確かにラルダの仕業だった。だが死にかけたリアに血を与え、人の心のまま吸血鬼などに転化させたのは自分に他ならなかった。リーザのような人としての生き方を永遠に失わしめたのはラルダだったが、一歩誤れば狂気に堕ちるしかないぎりぎりの縁に在り続ける身とさせたのは自分だった。


 アルデガンで別れたときのリアはまだ人を殺める前だったが、いまや己の所業にどれだけ苦しんでいるのか。そんな苦しみの中でさえせめて自分の犠牲になる者を一人でも少く抑えよう、自分と同じような境遇の者は決して出さないようにしようともがいているのに違いなかった。吸血鬼の血への渇きは人間を転化の呪いに落とすためにこそあるものなのに、彼女は人としての心ゆえに吸血鬼の理それ自体にひたすら抗い続けているのだとアラードは悟った。

 呪いの連鎖を自分のところで断ち切ろうとする意志ゆえの行為だった。だがそれは、狂気による忘我も許されぬ戦いを、片時の安息もなく続けることだった。アラードは自分の行いの罪深さに改めておののいた。


 そしてアラードは危ぶまずにはいられなかった。そんなことをいつまで続けられるのかと。人間の心はそんな戦いに耐えきれるものなのかと。

 ラルダは地獄に落とされたに等しい己の運命を、リアが免れるのが許せぬあまりに呪ったのだった。では、リアがリーザの姿をもし見たとしたら? 彼女はリーザを自分のようにさせたくないと思えるのか。それでも連鎖を絶とうとできるだろうか。運命の不条理に耐えきれるのか。堕ちずに踏み留まれるのだろうか。


 確かにリアは人の心ゆえに抗い続けている。しかし、ラルダがリアを牙にかけながら激しい渇きに耐えてまで吸い残したのも、そのほうが相手をより苦しめると思えばこそだった。吸血鬼の渇き、理に逆らってまで目の前の少女の苦しみを求めたのだった。それもまたラルダが持つ人の心ゆえの仕業だった。人の心が歪み堕ちた結果なされた所行に他ならなかった。髪一筋の違いとしか思えなかった。

 失ってならぬものを奪われた者は、失わずにいる者にどう臨むのか。

 踏み留まれるだろうか、自分がその立場だったら……。


 リーザの人としての生が失われてならないのは当然だった。

 それを奪うのが決して許せぬ大罪なのも自明のはずだった。

 にもかかわらず、アラードは容易に答えを出せなかった。

 自分が落としたリアの苦悶を想うと確信が持てなかった。


”人間なんていつ化け物になってもおかしくないものなのか”

 ローザの言葉がより内面的な意味と化して突きつけられた。


 アラードはその夜、煩悶に一睡もできなかった。






 第6章 沼地



「つまりあなたがたは、ゼリアの街を滅ぼした魔物が近くに棲み付いていないか確かめて下さるとおっしゃるのか?」

 村長がいった。初老ながら押し出しのいい、けれど温厚そうな人物だった。

「我らは北の王国からこの地へ渡った魔物の群れを追っております。これまで大きな集落が滅ぼされた例はゼリアの街しかなく、すでに一年もたっているから群れそのものが近くにいることはありますまい。それでも一部の魔物が群れを離れて棲み付いていることもあるやもしれず、我らはそれを確かめて対策を講じるのを使命としております。ラーダの神の御心のままに」

 グロスの説明に村長は感謝の目を向けた。


「実は他の村の者がここから南東にある沼地で大きな蛇のようなものが泳いでいるのを見かけたという話がある。ずいぶん遠くからも見える大きさで、それも頭がいくつもあったように見えたとか。馬を飛ばしても往復でほとんど一日かかるような場所だが、ゼリアの街のことがあるので正直不安ではあったのだ。確かめて下さるなら旅の邪魔にならぬ食料をお分けいたそう」

 三人はまだ東の山脈の稜線からさほど離れていない太陽のもと馬に鞭を当てた。村長とローザを先頭に村人たちが見送った。




 小川の水を引いた小さな村を出ると、最初のうちは行けども行けども不毛の荒野だった。しかし砂漠を背にひたすら駆けてゆくにつれ、だんだん様子が変わってきた。丈の低い群草に背の低い潅木が入り混じるようになり、しだいに空気にも潤いを感じるようになった。はるか東の山脈が目で見ても近づいたのがわかるようになったときには、あたりの景色は山脈からのいくつかの流れが淀んだ巨大な溜りに一変していた。溜りの水には何か含まれているらしく腐臭めいたものがただよっていた。人里がこの近くにない理由が悟られた。



 目的地にたどり着いたときには、すでに太陽は真上に登りつめていた。

 広大な沼地だった。道はとうにとだえ、馬を降りて歩く足元はじくじくとぬかるんでいた。茶灰色の泥の岸と濁った沼の境界は定かでなかった。魔物の目から身を隠す魔力のかけられた隠形のマントをはおった三人も灰色の風景に溶け込んでいた。

 淡い光を放つ宝玉を覗き込んでいたグロスが無言で指差した。てっぺんが平らな大岩があった。彼らはその上によじ登り、眼下の沼地を見回した。


 南の岸辺に茂る葦原を背に豚のような顔の亜人たちが泥を漁り大きな蛭や長蟲を捕まえていた。やがて獲物を両手に抱え込んだ亜人たちは葦原を掻き分け姿を消した。人間には有害でしかない蟲ばかりが蠢くこの泥沼も、彼らには絶好の餌場なのだ。

 沼の真中で水の音がした。見ると大蛇が鈍色の胴をぬめらせて水面を渡っていた。蠢く首のうち二つが巨大な魚を咥えていた。大蛇はしばらく水面を巡ったあと、再び水中に姿を消した。大きな波紋が三人のいる大岩のそばの岸に届くまで、かなりの時間がかかった。


「この地に棲みついたのは彼らだけのようだ」

 宝玉から顔を上げたグロスがささやいた。

「当分は餌不足で出てくることはないだろう。少なくとも大蛇は自分から沼地を離れたりはしないはずだ。亜人の方は数がよほど増えればこの地を離れるものも出るかもしれないが」

「大蛇がいればそこまで数が増えることはないのでは?」

「俺もそう思う」

 二人の言葉にグロスもうなづいた。

「こちらから踏み込んだりしなければ問題はなさそうだ。こんな沼地ならそうそう近づく者もおるまい。猟に夢中で迷い込んだりしないよう警告しておくくらいだろう」


 また水の音がした。大蛇が再び水面を蛇行していた。その姿は沼地の一部のように風景になじんでいた。人間ほどもある怪魚を食らう大蛇の巨体も広大なこの沼では目立たなかった。広い水面に大きな曲線を悠然と描く大蛇の動きにはゆとりがあり、奇妙な美しささえ感じられた。彼らは雄大さと優美さをそなえた水面の舞に思わず見とれた。

 人間と向き合えば怪物としかいえぬ存在のはずだった。ゼリアの街に暴れ込み住人たちを貪った化け物のはずだった。にもかかわらず、眼下でのびやかに生を謳歌する大蛇の姿にアラードたちは生命の大きな摂理を感じ取った。その摂理の下、人間と大蛇に違いなどはなかった。


 そして人の住めない広大な沼地を占有する大蛇や亜人たちは、この世界が人間だけのものではないことをその存在自体で示しているかのようだった。かつてアルデガンが破られたとき、洞窟の怪物を守護していた金色の翼の魔物が思念の声で叫んだ宣告が、なぜか彼らの脳裏によみがえった。

>人間たちよ。汝らの種族はいまだこの世界を支配する資格を持たぬと知るがいい<


 あのとき彼らはその言葉を人間の敗北の宣言であると思った。だが、その同じ言葉がまったく違う意味のものとして聞こえた。アルデガンにおいては敵の勝鬨としか受け取れなかった言葉が、いまや高みから見た一つの真実を告げる声として胸のうちに響くのだった。

「戻るぞ」

 ボルドフの声を合図に彼らは帰路についた。



 馬での長い帰路の間、アラードは考え続けた。あるべき生き方から離れることを強いられたものが魔物となり怪物となるのではないだろうかと。それが人であれ多頭の大蛇であれ。

 そして亜人も大蛇も棲むべき場所へ還された。本来の生き方ができる所へ。人としての生き方を永遠に奪われた少女の手で。

 気高い行為に思えた。その身の悲惨を思えばなおさらだった。たとえ人間に向けてのものではなくても、人間を殺めるしかない宿業に落ちた者が魔物になしたことであっても、それは我が身にもはや望めぬ平穏を他の存在に願う心に支えられ、苦難の果てになし遂げられたものに違いなかったのだから。

 昨夜の煩悶をアラードは恥じた。リアの魂にいまだ届かぬ己を恥じた。




 ドーラ村の近くまで戻った頃には日は赤く染まり始めていた。村はこの小さな丘のむこうだった。三人は馬の歩みを止めて一息ついた。

「亜人たちが繁殖して大群になるようなことはないだろう。将来村に近づくことがあっても、数が少なければ柵を補強して夜には火を絶やさないようにするだけで大丈夫だと私は思う」

「そもそも村に近づくなんてどれだけ先の話になるか。俺たちの話を忘れずにいてもらうほうがよほど難しいだろうな」

 二人の師の話を耳にしながら、アラードは丘の彼方に沈む太陽が色濃く染まりゆく荘厳な光景に目を奪われていた。


 すると突然、赤い太陽の真中に黒いものが一筋立ち昇った。

「あれは?」

 我に返ったアラードが思わず叫んだとたん、新たに灰色の筋が立ち昇った。さらに一つ、また一つ!

「煙だ!」「村の方角ではないかっ」

 驚く師にかまわずアラードは馬に飛び乗った。二人もたちまち追い縋ってきた。丘を登りきった彼らは目をみはった。

 家々が煙と炎を猛然と吹き上げていた。

 彼らは坂道をまっしぐらに駆け下りた!






 第7章 燃え上がる村



 夕方近く、ドーラ村に八人の騎馬の男たちが来た。


 アラードたちの戻るのを迎えるためローザが村長と村の入り口近くの広場に出たところへ彼らは馬で乗りつけた。男たちは口もきかずに轡をそろえ停止した。

 汚れた装備や異様な顔つきが尋常ならざる雰囲気を醸し出していた。どんな旅を続ければこうなるのかローザには想像もつかなかった。だが温厚な村長は歩み寄り、声をかけた。

「遠くから来られたか。この村にいかなるご用ですかな?」


「……兵を出しただろう」

 ひどくかすれた、飢え渇いたような声が返された。

 それを聞いたとたん、ローザの背に悪寒が走った。

 いわれた言葉の意味がわからず立ち尽くしたらしい村長の背がローザの眼前で真っ赤に破裂し、血濡れた刃が突き出た!

「ひっ、人殺しーっ!」

 金切り声をあげたローザへ別の男が馬を駆ると、大剣の一旋が血煙を巻き上げその意識を断ち切った!


 彼らはそのまま散開するとローザの断末魔に驚いて飛び出した村人たちに襲いかかった。外に出た者をことごとく屠るや家々に火を放ち、焼け出される者をも片端から斬殺した。斬られた者の絶叫が、炎に巻かれた者の悲鳴が競い合うように響き渡った。

 もはや地獄図だった。あの日彼らの脳裏に焼きつき魂を蝕み続ける光景そのものだった。狂える心が決壊し内なる現実が外界にあふれ出た光景。だが彼らにとって、それは歪みの矯正だった。己が魂に食い込んだ光景こそが唯一の現実である以上、外界の姿が違っていてはならなかったのだから。




 馬から飛び降りた三人の目にまず飛び込んできたのは、入り口近くに倒れている村長とローザの無残な骸だった。しかも広場のあちこちに村人たちが地面を赤黒く染めて折り重なっていた。

「これは……っ」「なんという!」

 アラードとグロスが呆然とする間、ボルドフはすばやく周囲の気配を探った。間近ではなかったが遠くもなかった。しかも幾人も。蹄の轟きまで!

 「ざっと十人近く。馬もいるらしい。気をつけろ!」

 その声に重なり離れたところから悲鳴が続けざまにあがった。右からも左からも。一瞬、三人は対処に迷った。



 村の奥の占師の家にまで悲鳴が届いた。近くでもまた。夕餉の支度にかかろうとしていたリーザは驚いて戸口に向かった。

 背の高い男がいきなり行く手を遮った。

「だ、誰……」いいかけた言葉がとぎれた。

 男は血みどろだった。抜き身の刃は鮮血をしたたらせ、赤茶けた鎧や顔にまで返り血を浴びていた。血走りぎらつく目が彼女をねめつけ、リーザは恐怖に凍りついた。

「……ミラの首はどこだ」

 掠れた恐ろしい呻きだった。少女の喉からひっと裏返った声が出た。

「なぜ、どこにも見つからない……」

 リーザのわななく口は言葉を返せなかった。我知らずいやいやをするように首が動いた。

「おのれレドラスの異人になどっ!」

 狂気の渦巻く男の目が憎悪に燃えあがり、リーザの喉から遂に悲鳴がほとばしった!


 村の奥から悲鳴が聞こえた、娘の声で!

「リーザ!」

 アラードがその方向を向いたとたん声はとぎれた。アラードは一目散に悲鳴のした方へ駆け出した。

「待て、離れるなっ」ボルドフが叫んだとたん、騎馬の男たちが左右から走り出てボルドフたちの行く手に割り込んだ。

 七人いた。誰もが返り血で真っ赤だった。だが汚れ果てた鎧の紋章はノールドのものだった。しかも見覚えのある顔が混じっていた。

「ラドゥ、それにタマーシュ……」

 グロスが信じられない面持ちで呻いた。それは、アルデガンで魔物相手に剣を振るった仲間たちの変わり果てた姿だった。

「堕ちたか、きさまらっ!」ボルドフが一喝した。

 血まみれの男たちは言葉も返さず、血塗られた剣を構えた。

 ぶつかってくるような凄まじい殺気に後じさったグロスの横でボルドフが低く唸った。

「……もう、こいつらに言葉は届かん」「そんな……」

 すがるようなグロスのまなざしには目をくれず油断なく相手を睨みつけながら、しかしボルドフは続けた。

「戦になるとこんなやつらが出るんだ。戦禍の惨劇に心砕かれ、地獄の光景に呑まれたあげくに同じ惨劇を繰り返すしかなくなるやつらが」

 声に沈痛さをにじませながらも、ボルドフもまた大剣を構えて数歩前に出た。

「死にたくなかったら全力で戦え!」


 敵が動いた。二騎が左右から馬を駆った。大きく振り上げられた二本の剣がボルドフめがけ振り降ろされた。

 鋼の噛み合う音とともにボルドフが右の敵の剣を弾き返した。背後を襲った左の敵の剣が届く寸前グロスの気弾が馬に命中し、乗り手は棒立ちになった馬から振り落とされた。

 だが、男は着地と同時にグロスめがけて走った。ひるむグロスめがけ赤黒い剣が振り上げられた。

「グロスっ!」ボルドフが追いすがり男を斬り倒した。だが彼も背後から斬りつけられた。体をひねったが避けきれず、幅広い背から血しぶきがあがった。

 痛手に耐えて放たれた突きが敵の胸を貫いた。だがボルドフもがくりと片膝を落とした。

「ボルドフ!」グロスが駆け寄ろうとしたとたん、残った五騎が一勢に突撃した。

 グロスの顔がひきつり足が止まった。一瞬の逡巡の後、ついに彼は悲鳴とまがう声で人間相手には禁断だった呪文を唱えた!

「ラーダの神よ許したまえーーっ」

 結印とともに炸裂した業火が人も馬も丸ごと呑み込んだ!



 占師の家に走り込もうとしたアラードの足が止まった。

 日が落ちて暗がりと化した戸口に倒れている者の脚が見えた。血の匂いが鼻を突いた。

「……リーザ」

 ひどくかすれた声だった。自分の声とは思えなかった。

 戸口に歩み寄る足どりがふらついた。

 近づくにつれ、脚から上が目に入ってきた。おののきながらも視線が伝った。ぬらりと光る地面に仰向けに倒れた少女の腰から胴へ、そして肩……。

 そこから上が、無かった。

 室内の闇に溶けたように失せていた。


 つい昨日、夕闇の中で自分を責めた思いつめた顔が。

 リアと同じ顔、幼い頃から身近に見ていたあの顔が。


 決して失われてはならなかった人としての生が、命が。


 滅ぼされ焼け落ちたあの村の死体の山の悪夢が、あの時は想像もしなかった意味を帯びて襲ってきた。

 呑まれそうになった瞬間、家の闇の中でごとりと音がした。


「……これも違う」ひりつくような呻きが聞こえた。

 どこか耳覚えのある声が、自分以上に嗄れ果てて。

 ひきずるような足音がして、おぼろな人影が戸口に立った。

 雲が月を隠しているため、顔形も定かでなかった。


 男の右手の剣先が下を向き、滴がぼたりと落ちた。

 アラードの魂が震撼した。それは原罪の徴だった。

 刃に流した自分の血をリアに飲ませたあのときの。


 人影の顔がこちらを向いた。異様な殺気が放たれた。

 左手がつかんだ丸いものを捨て、大剣の柄に跳んだ。

 それを見たアラードの張りつめた神経がぶつりと切れた。

 同時に放たれた叫びがぶつかりぎざぎざの狂声と化すや二つの影が風を巻いた。疾った二本の刃が食い込み、突きぬけた!



「……すまない、私の覚悟が足りなかったばかりに」

 癒しの呪文をかけ終えたグロスが呻いた。

「仕方ない。おまえは人間と戦ったことがなかったんだから」

 応えたボルドフの顔が癒え切らぬ深手の痛みに歪んだ。

 グロスの顔が黒い煙を上げる無残な残骸に向いた。その衝撃と動揺から覚めやらぬ様子を見かねたボルドフが口を開きかけた瞬間、村の奥から狂おしい絶叫が聞こえた!

「アラード?」「しまった!」

 ボルドフは声のした方へ傷をおして走った。グロスも弾かれたようにあとを追った。



 雲間から出た月に、男の荒み果てた顔が照らされた。

 左肩の激痛に膝を屈したアラードの目が見開かれた。

「グラン、そん、な……っ」

 己の剣が貫いていた。アルデガンで怪物たちと戦った先輩剣士の胸板を。

「……どこへいった。ミラの、首……っ」

 無限の恨みと喪失感に染まった呻きに続き、血が吐かれた。

 それを聞いた瞬間、わかってしまった。

 彼も村を焼かれ、肉親を惨殺されたと。

 グランの長身がゆっくりと大地に崩れた。


 アラードは悟った。たったいま、自分がグランの落ちた奈落の縁にいたのを、堕ちた者の狂気をかいま見たのだと。

 ……堕ちるということなのか、これが……っ

 かいま見た奈落の恐ろしさゆえか、失血で体温が奪われたせいか、左肩の痛みが冷たい、凍てつくものにじわりと変じた。目の前が暗くなった。遠くで誰かが叫んだように感じたのを最後に、アラードの意識は闇に閉ざされた。






 第8章 小川のほとり



 村の広場の真ん中から、黒い煙が立ち昇っていた。


 ドーラの村は全滅した。生き残った村人はいなかった。

 温厚な村長、占師として敬われたローザ、母を想い悩んでいたリーザまで。今朝がたこの村を出たときにそれぞれの生を営んでいた村人たちは赤子にいたるまであるいは斬殺され、あるいは炎に巻かれて果てたのだ。

 煙を目で追いながら、グロスはひとり蒼白な顔で祈りを捧げていた。襲いくる人間の恐ろしさへの疑念のただ中で、神への祈りを通じ人間という存在を捉え直そうとして。

 それは彼自身への問いかけとならざるをえなかった。人を守り魔物を倒すために作り出された強大な魔法、その破滅的な威力の呪文を禁忌を冒し人間に向けて使うほかなかった己への。



----------



 意識を取り戻したとき、アラードは見慣れぬ部屋にいた。

 身動きしたとたん激痛が走った。弱々しく呻いた。

「気づいたか」ボルドフの声がした。

 アラードの隣の寝台に巨漢が横になっていた。

「お互いひどいざまだな。特におまえは手遅れ寸前だった」


「……隊長、私は……」

 かすれた声でいいかけたアラードをボルドフは制した。だが、アラードは続けた。そうせずにはいられなかった。

「……どうして、こんなことになるんですか?」

 赤毛の若者は呻いた。

「私はほとんど狂いかけていました。グランと同じように。人はこんなにたやすく堕ちるものなんですか?」

「たやすいわけじゃない。ひどすぎる状況だったんだ。やつらもおまえも。これがほとんどの者にとっての戦の姿なんだ」

「憎みあって、殺しあって、魂をすり切れさせて、互いに堕ちてゆくんですか? 果てしなく繰り返すしかないんですか? われ先に化け物になり相手も引き込むような、こんなことを」

 口を開くだけで激痛が走った。だがアラードは言葉を止められなかった。

「これじゃまるで呪いの連鎖じゃないですか! 吸血鬼とどこが違うんですか! 止めることはできないんですか?」


「戦は不条理だ。平時の常識も感覚も通用しない世界での無残な殺しあいの連鎖だ。簡単には止まらん……」

 ボルドフの口調は苦かった。

「戦の始まりは常に欲望だ。レドラス王家は民族の違いを支配の礎にしてきた。それがノールドに野心を抱いた。だから異民族の虐殺に躊躇などしなかった。

 グランたちは故郷を滅ぼされ肉親を殺された。だからレドラスの者を憎んだ。抑えようもない感情だ。だがそこで復讐に走れば待っているのは互いの憎悪の応酬だ。仕掛けた方は憎悪や狂気と違うもので動いたとしても、そこからあとは不条理の支配により暴走する憎悪、互いをもろとも巻き込んでゆく狂気の渦だ。

 殺しあいの連鎖を避けようとすることは不条理を受入れ耐えることを意味する。苦しみを敵にぶつけることなく己に引き受け、恨みも憎しみも、正しいはずの復讐さえ断念することを。

 もちろん、そんなことができる者はまずいない。だから連鎖は始まり、そして延々と続いてしまう。なんらかの秩序が回復するまで。それも多くが望ましからぬ秩序の回復で」

「それでも私は連鎖を止めます!」


 声に力が入りすぎ、凄まじい激痛にアラードは呻いた。だが、歯を食い縛りつつも彼は続けた。

「きっと不条理に耐えてみせます。あんな呪わしい深淵に互いに堕ちるくらいなら……」

「止められる立場に立てなければ無理だぞ。アラード」

 ボルドフのまなざしには、けれど言葉とは裏腹の感慨が込められていた。

「今のおまえでは、俺たちではなにもできない。そもそも運命の岐路にいないのだから。だが、おまえが本当にその気持ちを持ち続けられるのならば、いつかおまえはそんな機会に巡り会うかもしれん。そのとき決断を下せるかもしれん……」

 深々と響くその声を聞きながらアラードは感じた。かつて師も自分と同じようなことを思ったことがあったのではないかと。


「もうなにも考えるな。今は休め」

 胸のつかえを吐き出せたせいか既に緊張は解けていた。眠りに落ちる寸前、アラードは思った。それが人間の業ならば抗わねばならない、自分はリアを吸血鬼の業に抗い続けるしかない宿命に落としたのだからと。

 けれど悲愴感はなかった。奇妙な安堵に包まれたまま、赤毛の若者の意識は眠りの帳に閉ざされゆくのだった。



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 数日後、三人は村の広場の中央に盛られた塚の前にいた。

「ここに村の者は全員眠っている。ローザも、リーザも」

 祈りを捧げたボルドフがつぶやいた。

「まさか、グランたちも?」

 アラードの問いにグロスがかぶりを振った。

「村に葬るわけにはいかぬだろう? 彼らはここへ来るべき者でなかったのだから。こっちだ」

 彼らは廃墟と化した村を後にした。



 つい先日リーザと歩いたゼリアの街からの道の脇、流れる小川のほとりに小さい塚ができていた。

「せめて流れで狂気や罪の穢れを浄められてほしかったのだ」

 グロスがいった。ボルドフがうなづいた。

 三人は小川のせせらぎを聞きながら祈りを捧げた。


 ややあって、グロスが塚を見つめながらつぶやいた。

「私はまるで自分が化け物のような気がした……」

「師父」アラードが向き直ると、グロスも視線を返した。


「そなたと同じで私も人間と戦ったことはなかった。アルデガンで魔物と戦ったことがあっただけだった。確かな覚悟もできないまま、私は魔物を焼き払う呪文を唱えた。あっという間に彼らは全滅した。恐ろしい破壊力だった……。

 こんなあやふやな心に到底つりあわぬ力が備わっているのだと思い知らされた。アルデガンでは魔物は魔物、人間は人間という当然の前提があった。我らはその前提を疑う必要など感じぬまま巨大な力を行使していたのだ。人間である自分を根拠にして。

 だが私たちは、そんな前提が通用しない混沌の世界に出てきてしまった。剣を振るうだけの人間が村をも滅ぼす怪物になりうる世界に。ならばこの私はゼリアの街さえ一人で滅ぼせるだけの力があるのだと」


「そして、この世界は人間がいつ化け物になってもおかしくない状況にあるのだと思い知った。仮にもアルデガンで戦った仲間がかくも無残に堕ちたのだ。

 今後も私たちは力を使わねばならぬことがあるだろう。人間を相手にせねばならぬこともあるのだろう。ならば」

「私たちも怪物と化す危険のただ中で、それに抗い続ける定めにあるのだと、そうおっしゃるのですね」

 アラードの言葉にグロスはうなづいた。

 恐ろしい話のはずだった。だが、アラードが感じたのはむしろ心強さだった。自分が様々な煩悶や狂気の縁を経てたどりついた考えを師もまた共有していると知ったことで、自分の考えに手ごたえを感じることができたから。のみならず年齢の離れた師との間の絆さえ。


「思えば解呪の技を作り上げた神官たちは、決してアルデガンのような特殊な環境にいたわけではあるまい。先人たちは人間の恐ろしさにじかに触れうる立場にいたはず。だからこそ魔道に由来する禁呪の恐ろしさを過剰に封じようとしたのであろうが、反面それでは対応できない事態があることもわかっていたのではと私は思う。吸血鬼は人が変化したものであり、これほど人間に近い魔物はいない。恐ろしい力と危うい心ということでいえば、この私も同じなのだ。おそらく先人たちもそう感じることがあったと思う」

「グランたちがどれほど堕ちても人間であったように、吸血鬼と化した者も人間として接するべきだといわれるのですね」

「その前提に立ち、解呪の技の術式の意味をもう一度解き直してみようではないか。アラード」

 告げる白衣の神官に、若き剣士は大きくうなづいた。


「私はラルダが襲われたとき恐ろしくて逃げてしまった。あんな魔物を人間と同じとはとうてい思えなかった。アルデガンにいる限り、それは自明だと思えた。だから吸血鬼に変じた者に浄化と鎮魂を捧げようとする術式のありかたが理解できなかった。

 だが、私はいまグランたちの魂に祈ることができる。私自身とかけ離れた存在ではないのだと思えるがゆえに。私は自分の力の恐ろしさを、そして人の心の危うさを身をもって知った。彼らの罪は許しがたいが、そうさせた違いがあまりにも小さなものだと悟られればこそ、祈ることができるのだと思う」

「その身が人間であるかどうかが重要なのではない。降りかかる宿命に抗おうとする者もいれば無残に呑まれる者もいる。それは恐るべき戦いに臨んだ結果の髪一筋の差でしかないと、私もそう思います!」


「小難しい話は終わりか? だったらそろそろいくぞ」

 ボルドフが二人に声をかけた。

「どの道をいくのだ?」グロスがいった。

「道などいけるはずがあるか。ローザの話を聞いたくせに。リアは人里に出る道を避けたはずだといっていただろう? だったら荒野をいったに決まってる」

「砂漠の次は荒野か! 勘弁してくれないか」

「堕ちるかどうかの戦いなどといいながら情けない奴だ。そんな軟弱な肉体にまともな精神が宿るか!」

 二人の師のやりとりにアラードは知らず笑みを浮かべた。浮かべることができたのだった。


 険しくともゆくべき道は定まっているのだ。それにこれはリアが辿った道なのだ。ならば自分がゆけぬはずはなかった。自分が彼女に並び立つためにもゆかねばならぬ道だった。

 不思議と迷いも曇りもない心持ちで、赤毛の若者は荒野へ至る最初の一歩を踏み出した。その足の裏に己を支え揺るがぬ大地を感じつつ。




                   終


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[良い点] 剣による傷1つで王が吸血鬼に襲われた話にまで発展するとは思いませんでした。傷1つだけでは推論の根拠にするには不足を感じていましたが、軍の紋章や派手な戦車までしっかり残しているところが良かっ…
[良い点] 文章が丁寧なところ。 [一言] こんにちは。拝読させて頂きました。 凄惨な場面や人が堕ちてしまった状態など、とてもよく描かれていて、生々しさと恐怖を直に感じた気分になりました。 題名の…
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