10月27日(3)
光に包まれる体。聡史君の姿が目の前から消え、替わりに現れたのはエンマ様の部屋。
最後に来てから二、三日しか経っていないのに、何ヶ月ぶりかに来たような――そんな錯覚に捕らわれた。
「どうしたミリア。お前が帰ってくるにはまだ早いが。それとも、あれほど嫌がっていた夜勤を希望しているのか?」
上方から冗談交じりの、エンマ様の声。
もちろんわたしに、笑っている余裕なんてなかった。
「エンマ様! お願いがあります!」
土下座をして、床に頭をこすりつける。
「聡史君を、どうか聡史君を殺さないでください!」
「聡史君?」
顔を上げると、少し考える素振りをしてから、資料を探し始めた。
机上の資料から一枚の紙を取り出すと、それを淡々と読み上げた。
「竹下聡史。この子か?」
「そうです! わたしをかばったせいで死にそうなんです! お願いします! 助けてあげてください!」
わたしの頼みに返事もせずに、エンマ様は資料に軽く目を通す。
「この子はあと三十分後に死ぬ予定だ。すでにカルバドスが迎えに行ってるぞ?」
「そ、そんな! どうにかして助けてあげられないんですか!」
「お前ならよくわかっているはずだぞ。運命は変えられないという現実を」
顎鬚をなぞりながら、エンマ様は続ける。
「それに、ミリアの言葉を借りて言えば、幸せなのではないか? すぐに二人は、この世界で一緒になれるのだからな」
「えっ?」
「そう言ったんだろ? 鷹野信也に」
「そ、それは……」
畏怖を生み出すエンマ様の視線に、言葉を詰まらせ、ただ口ごもるしかなかった。
「確か死んだ人達に、こうも言っていたはずだ。何をやっても無駄。別れを言っても絶対に聞こえない。ミリアはよくわかっているではないか」
全身を脱力感が襲い、わたしはその場に膝をついた。
今まで自分が言っていた言葉を、初めて生きていた人の立場になって聞いた。
そして、その言葉の残虐さ、非道さも同時に理解する。
涙を溜めながら、わたしを軽蔑の眼差しで見下す――そんな亡くなった現界人の顔が、走馬灯のように蘇っていた。
「わたし……今までなんてことを」
「分かってくれたか? 死んだ人達がお前に言われた言葉で、心に受ける傷の苦しみを」
無言のまま、力なくうなずく。知らなかったとはいえ、許される行為ではなかった。
「それなら、わたしも嬉しい」
「分かりました……だから、だからお願いします! 聡史君を!」
エンマ様は目を閉じると、うつむきながら首を横に振った。
「それは無理だ」
「どうしてですか!」
「運命は変えられない。それだけは紛れもない事実だからだ」
「そんな、どうして! 聡史君はずっとわたしの助けを待ってるんです!」
必死の形相で訴えても、エンマ様は首を縦に振らなかった。
「ミリア、わたしはお前の言った言葉が、間違いだと言っているのではない。それを死者に伝える必要はないと言っているのだ」
そんなことは、言われてなくても分かっている。だからといって、何もしないで聡史君を待つなんて、無理な話だった。
「信也君は……」
わたしは思い出していた。唯一人、愛する人を救うチャンをもらえた人物を。
「信也君は優美ちゃんを助けられるじゃないですか! どうしてわたしは聡史君を助けてあげられないんですか!」
「まだ助けられるとは決まってない」
「助けますよ! 大事な人なんだから! わたしだって、聡史君が同じ運命になるってわかってたら、絶対に助けてみせます!」
胸の内が、異様に熱い。それが嗚咽になって、口から漏れる。
もう一度、頭を地面へと擦りつけ、最後の嘆願を試みた。
「お願いします、お願いします! わたしはどうなってもいいんです! 聡史君はわたしの為に体を張って、助けてくれました。今度はわたしが体を張って、助ける番です!」
床を濡らしていく涙が、飽和上に広がっていく。
刹那、笑い声がわたしの耳を急襲した。
「フフ、ハハハハハ!」
慌てて顔を上げるとエンマ様が口を大きく開け、部屋中に伝わる笑声を響かせていた。
振動で部屋がわずかに横揺れしている。
――人の苦しみを笑うエンマ様が、異様に腹立たしかった。
「何がおかしいんですか! 好きな人を救いたいって気持ちが、そんなにおかしいんですか! 矛盾してますよ! エンマ様だって人の気持ちをわかってない!」
エンマ様は笑いを止めたものの、謝りはしなかった。
「まあ、落ち着けミリア」
「愛する人を失ったつらさなんて、まったく理解してない! わたしよりも全然です! それなのに、偉そうにのけぞって、天界行きだの地界行きだの威張りちらして!」
「いいから落ち着け!」
エンマ様が机をおもいきり叩き、辺りに爆音を響かせる。
積み重なった資料が宙に浮きあがり、そのうちの何枚かが足元へと落ちてきた。
「笑ったのは謝る。予想以上にうまくいったのでな、つい笑ってしまったのだ」
「うまく、いった?」
「おい!」
エンマ様が呼ぶと、奥の扉から一人の青年が現れた。
頭を掻きつつ、のそのそと近づいてくる青年。近づいてくるにつれ、その正体が明らかになる。
――現れたのは聡史君だった。
「さ、聡史君!?」
わけがわからないまま、歩み寄っていく。聡史君は頬を緩めながら、
「何を泣いてんだ美利亜? お前らしくないなあ」
鼻で笑ってみせる。聡史君と同じ声で、聡史君とは違う口調。
全身を覆っていた重傷も、すべて消え去っている。
「ど、どういう、ことですか?」
「こういうことだ」
エンマ様が、パチンと指を鳴らす。
「そう。つまり、こういうことだ」
聡史君のいた場所から、今度は聞き覚えのある声。
慌てて視線を聡史君へと向けると、そこにいたのは――。
「カ、カ、カ」
「蚊? どこに蚊がいるんだ?」
そんなジョークも無視して、わたしは指を差して叫んでいた。
「カルバドス!」
「はいはい、なんでしょうか? お姫様」
カルバドスは手を胸の前に当て、執事のようなお辞儀をしてみせた。改めてエンマ様を見上げる。
「言いたいことはわかる。実はなミリア。わたしは保険をかけておいたのだよ」
「保険?」
「そうだ。お前が駅で好みの男性と出会えればいい。だが、出会えなければ、この一週間無駄に過ごしてしまう」
「そこでおれの登場って訳だ」
カルバドスはわたしの肩を抱えながら、親指で自分を指さした。
「鷹野信也の家に行くために、一度戻ってきただろう? ちょうどあの時カルバドスがいたからな。ミリアが戻った後で頼んでみたんだ。カルバドスなら生きていた経験もあり、ミリアとの付き合いも長いしな」
「おれの芝居、上手だったろ? でも焦った時もあったんだぜ? なんで家を知ってるのかって言われた時は、正直やばかったな。中界から来たなんて言えるはずもないし」
「まったくだ」
エンマ様が豪快に笑い、カルバドスもそれに続く。
わたしはというと――呆然としていた。少なくとも一緒に笑う気にはなれなかった。
それよりも、頭の中を整理するのが精一杯だった。
「結局……全部芝居だったんですか?」
そう尋ねるのが、やっとだった。
「まっ、そういうことだ。でもこれで少しは分かっただろ? 愛する人を失った現界人の気持ちがな。これでミリ……」
カルバドスの得意げな高説が終わる前に、わたしはカルバドスの頬をぶん殴っていた。
不意をつかれたのか、カルバドスはあっさりと倒れてしまった。
「な、何しやがるんだ、ミリア!」
即座に起き上がり、頬を押さえながら反論してくる。
「わたしが……」
パンチ一発程度で、わたしの高ぶった感情は治まらなかった。
「どれだけ聡史君を心配したと思ってるの! この二、三日、聡史君が頭から離れなくて、さっきだって本気で自分の命を捨ててでも、聡史君を救いたいって思ってたのよ! それなのに芝居ですって! ふざけないで!」
やっと現状を把握したのか、カルバドスは顔をうつむけながら立ち上がった。
もう一度殴ろうと繰り出した拳を、カルバドスが受け止める。
あろうことか、そのままわたしを抱きしめてきた。
「な、何よ! 放しなさいよ!」
「悪かったよミリア。でもな、おれもエンマ様も、お前には死んだ人の気持ちの理解できる案内人になってほしかったんだ。分かってくれ」
「知らないわよ、どうだっていい! あんたなんか、エンマ様も、みんな大嫌いよ!」
カルバドスの背中を、両拳で何度も殴りつつ、わめき続ける。
「それとも何? わたしは中界で造られたから、現界人じゃないから、わたしの気持ちはどうだってよかったっていうの!?」
「違う、そうじゃないんだ。ただ、わかって欲しかったんだ」
「他にも方法はあったでしょ! こんな目に合わされたら、一ヶ月ぐらいわたしの仕事もやってくれないと、許さないんだから!」
「わかった。今から一ヶ月の間、ミリアの仕事は俺が引き受ける。だから機嫌直せって」
カルバドスの言質を取ったわたしは、うっすらと笑みを浮かべながら動きを止めた。
「やった! ありがとうカルバドス!」
「へっ?」
油断した隙にカルバドスの腕から離れる。
呆気にとられる二人を尻目に、バンザイを繰り返した。
「わーい、わーい! 仕事をしないで一ヶ月間、朝寝を堪能できるぞー」
カルバドスとエンマ様が顔を見合わせる。
一瞬だけ早く、カルバドスのほうが現状を理解していた。
「わかったよ、おれの負けだ。一ヶ月の間、仕事やってやるよ」
「フフッ、ありがとうカルバドス」
頭を下げると、カルバドスが首をかしげながら、逆に尋ねてきた。
「でもお前、一ヶ月の間、仕事もしないで何をするつもりだ? 暇じゃないのか?」
「あっ……」
口をあんぐりと開けて呆けていると、カルバドスに頭をはたかれてしまった。
「まったく、考えなしだなお前は」
「しょうがないなぁ、今回は許してあげる」
「ああ、悪かったよミリア。本当にごめん」
「もういいよ。終わったことだし。それに、人の気持ちがわかったのは確かだから」
「そうだな、ミリアは立派に成長したよ」
わたしの頭を押さえつけ、カルバドスが激しく撫でる。
その影響で、わたしの髪はぐしゃぐしゃになってしまった。
「なにするのよ!」
「まあ、いいじゃないか。ご愛嬌だ」
豪快に胸を張って笑うカルバドスを前にすると、怒る気力も失せてしまう。
「それにしてもよく気づかれなかったわね。わたしが抜けてるだけかもしれないけど」
カルバドスは腰に手をやり、下目づかいでニヤリと微笑んだ。
「当たり前だ。おれの演技力をなめるなよ」
「全部演技だったなら、ばれていたかもしれんがな」
「それって?」
即座にカルバドスの微笑が消え、あたふたと狼狽し始める。
「なっ、なんでもない。なんでもないぞミリア! それよりこれを見ろ」
カルバドスが取り出したのは一枚の紙だった。それを広げてわたしの前に掲げる。
「そ、それは!」
「さっきまで公園で描いてたミリアの肖像画だ。いい出来だろ?」
「まぁモデルがいいからじゃない?」
冗談で言ったつもりが、カルバドスは意外にも真に受けていた。
「確かにな……っていうか、こんな笑顔初めてだぜ」
「本当に?」
「あぁ、いつもは笑っていても、どこかかげりがあったんだけどな」
あまり実感が湧かない。ただ一枚目の絵よりは、笑顔がより鮮明に、輝いているのは間違いなかった。
「あっ、でもこの絵、変な奴らに投げ飛ばされなかったっけ。も、もしかして?」
「ああ、彼らはは全員、地界の鬼だぞ」
エンマ様の想像外の言葉で、わたしの動きが止まる。
「ミリア達の姿を変えるのと同じ原理だ。現界の空気が気に入ったと言っていたぞ」
「まったく、本気で殴りやがって。高校生があんな力出せるかっての……」
どうやら傷はなくなっているものの、殴られた痛みはあったらしい。
「そ、それって……本当ですか?」
半信半疑で訪ねると、カルバドスが白い歯を見せた。
「嘘じゃないさ。俺たちを助けてくれた女性も、クレアだしな」
「ク、クレアって、待合室の!?」
「緊張してまともに喋れなかったから、気づかれたんじゃないかって、心配してたぞ」
愕然とするというより、唖然としてしまった。ようするにわたしは、エンマ様たちの手の上で踊っていたに過ぎなかったのだ。
「みんなしてわたしを騙すなんて、もう知らない!」
そっぽを向くと、エンマ様がパンパンと手を叩き、会話に入ってきた。
「これにて一件落着だな。さてミリア。帰ってゆっくり休むといい。明日はいよいよ、鷹野信也の運命の一日だからな」
「家って、中界の家ですか?」
「もちろんだ。鷹野信也に助言をする必要もない。結果は神のみぞ知るというやつだ」
慌ててエンマ様の意見に食いつく。わたしにはまだ、やり残した約束があるのだ。
「待ってくださいエンマ様。お母さんの下に帰らないと……」
カルバドスはまったく理解していなかったが、エンマ様はわたしの真意を瞬時に理解してくれていた。
「だがなミリア、すぐにお前の記憶はなくなる。なにをやっても彼女の記憶には、お前の断片すら残らないぞ?」
「わかっています。だけど、約束したから。絶対に無事に帰るって。わたしはお母さんの娘だから、約束を守るのは当然です」
エンマ様は大きく、そして何度も頷いた。
「ではこうしよう。今は大体二十時ぐらいだから、明日になる瞬間――つまり二十四時に鷹野信也の母親の記憶を戻す。同時にミリアも中界の姿へと戻そう。それまではゆっくりしてくるといい」
「わかりました!」
「では送り届けてやろう」
エンマ様の言葉と共に、温かい光に包まれていく。
目を開けると、わたしは信也君の家の前に立っていた。
家の中の電気が、暗闇の中に煌々と光っている。
「ただいま!」
「よく帰ったな。待ってたぞ美利亜!」
居間から勢いよく出てきたお母さんは、すぐさまわたしを力強く抱きしめてきた。
「だから言ったでしょ、お母さん。約束は守るって」
「あぁ、さすがわたしの娘だ!」
わたしの背中を二度三度と叩き、ようやくわたしを解放する。
「夕飯はもうできてるぞ。美利亜の好物ばかりだ!」
「そ、それってもしかして、おでんとか?」
恐る恐る聞くと、お母さんは口をへの字に曲げた。
「そんなわけないだろ。美利亜が嫌いなおでんを、どうして準備しなきゃいけない」
「そ、それじゃあ」
「ああ、エビフライにハンバーグだ! 遠慮せずにどんどん食べろ!」
「やったあ!」
エビフライにハンバーグは、正真正銘わたしの好物だった。
中界がある上方へ向かって、親指を立ててみせる。間にある天井が視界を阻んでいるけど、エンマ様には伝わっているはずだ。
わたしはすぐさま席に着くと、フォークとナイフを両手に持った。
「いただきまーす!」
「あぁ、たくさん食べてくれ!」
二人で会話を楽しみながらの食事に、後片付けも手伝い、お風呂にまで一緒に入った。
同時に、着々と別れの時が近づいてくる。
二十四時はもう間近にまで迫っていた。
「お母さん」
「ん? なんだ?」
部屋で布団を敷いているお母さんに、背後から近づいていく。
自分でも分かるぐらい、顕著に声が震えていた。
「今日はすごく楽しかった。多分今までで一番楽しい思い出だよ」
「あぁ、わたしもだ」
涙が出るのを堪えようと、目頭に力を込める。それが逆効果になり、搾り出された涙が頬に弧をえがいていった。
「なんで泣いているんだ?」
慌ててお母さんが、わたしの側に駆け寄ってきた。
力強い両手で、わたしの肩をやさしく支えてくれる。
「う、嬉しくてさ! こんなにお母さんと仲良く接したのって、初めてだから」
「そうだな。まあこれからもどんどん仲良くしていけばいいさ! なんなら、次の連休にでも家族三人で旅行に行くか? きっと楽しいぞ!」
何度もうなずくお母さんの提案に、わたしは辛抱できずに抱きついてしまった。
「楽しいだろうね! 家族三人! きっと、きっと楽しいよ!」
「あぁ、楽しいに決まってる! どこに行くか計画立てないとな!」
お母さんはわたしを抱き返し、大きく体を持ち上げてくれた。
視界に入った柱時計は、二十四時まで残り一分をきっていた。
「お母さん、わたしね」
「なんだ?」
「お母さんの子どもで、本当に良かった!」
「なんだよ急に、改まってさ」
「一生誇りに思うよ、お母さんの子どもだったこと」
「な、何を言ってるんだ?」
お母さんの目が、愁いを帯びだしていた。瞬きのたびに瞳が、潤みを増していく。
もしかしたら、わたしがいなくなると、気づき始めたのかもしれない。
頃合いを見計り、わたしはお母さんに聞こえる最後の声を出した。
こんなことなら、もっといい言葉にしておけばよかった。そう思いながら――。
「カルバドスのおたんこなす」
「美利……」
その瞬間、柱時計が時刻を知らせる鐘を響かせた。




