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10月27日(2)

「よし、行こう」

 十五時三十分を時計が指した頃、わたしは勢いよく立ち上がった。

 一階に降りて、お母さんのようすを伺う。まだお母さんは、深い眠りの中だ。

「行ってくるよ。お母さん」

 そう呟いてから、玄関から外へと出た。

 青く晴れわたった空に、わたがしのような白い雲。これから始まる二人の時間に、雨の入り込む可能性はなさそうだ。

 わたしは地面を強く蹴って、公園へと駆け抜けた。まだ約束の時間よりは早いけれど、聡史君は待っている。そんな予感がした。

「美利亜!」

 公園に入ると、わたしが声をかけるよりも早く、聡史君が声をかけてきた。

 予想通り、聡史君はすでにいた。ベンチに座って、スケッチブックと鉛筆を早々に準備している。

「ごめん、待った?」

「ううん、今さっき来たところだよ」

 近寄っていくと、聡史君は立ち上がり、わたしの手を握り締めた。

「来てくれてありがとう。嬉しいよ」

「もちろんよ。聡史君の頼みだもんね」

 ウインクしてみせると、聡史君は頬をふくらませた。

「昨日は来てくれなかったじゃないか」

「それはそれ、これはこれよ」

 聡史君が先に笑い出し、わたしも口に手を当てて一緒に笑う。

「本当に……ありがとう」

 もう一度お礼を言ってから、スケッチブックを握りなおす。

「じゃあ、そこのベンチに座って!」

「うん」

 聡史君に言われるままに座り、微笑んでみせる。瞳が熱くなっていくのを、我慢しながら――。

 聡史君は時折唸り声を上げながら、鉛筆をスケッチブックへと走らせていった。二人に会話はなくとも、胸は弾んでいた。

 この絵が完成すれば、聡史君ともお別れになるだろう。

 それでも、わたしに後悔はなかった。こうして笑顔で分かり合えたのだから。

 昨日と同じ二時間が経過して、辺りが夕焼けに包まれていく。

 それでも聡史君の手は、止まらなかった。それだけ真剣に描いてくれているのだろう。

 時が重なるにつれ、幸せが無限に蓄積されていく――そんな感覚だった。

 だけど、そんな静寂の時間を破る、とげとげしい声が聞こえてきた。

「ん? 聡史じゃねえか」

 招かれざる客を、わたしと聡史君が同時に捕らえる。

 初めて聡史君と出会った時に、聡史君を脅して金を巻き上げようとしていた連中だ。

「んっ? この間のかわいい姉ちゃんもいるじゃねえか。やっぱり幽霊なんていないって言っただろ?」

「お前だって逃げたくせに、よく言うぜ」

 醜い争いを始める三人を、横目で伺う。嫌な予感に身をすくませていると、三人はゆっくりと、半笑いでわたし達に近づいてきた。

「おっ、肖像画か? なかなかうまいじゃないか」

「お前にこんな才能があったとはな。初めて知ったぜ」

せせら笑う三人に聡史君は、

「どうも……」

 形だけのお礼を述べて、尚も描き続けた。

「せっかくだから、俺たちも描いてくれよ」

「おぉ、面白そうだな」

 乗り気の三人に、聡史君の答えは当然ノーだった。

「悪いけど、いま忙しいんだ。また今度にしてくれる?」

 平然と言ってのける聡史君。以前いじめられていた光景が、嘘のようだった。

 だけど三人にとっては、その態度が気に食わない。

 一人が突然に、聡史君からスケッチブックを取り上げる。そして遠くへ向かって放り投げてしまった。

「なにするんだ!」

 当然のごとく食って掛かる聡史君に、平然と答える。

「いや、忙しいって言ったからさ。肖像画なんて描いてる暇ないんじゃないかと思ったんだよ。悪気はなかったんだ」

「そうそう、悪気はなかったんだよな」

 三人が三人、腹を抱えて笑い出した。聡史君の歯軋りが、わたしにまで聞こえてくる。

 もちろん、わたしだって黙っていられるわけがなかった。

「ちょっと、いい加減にしなさいよ!」

 ベンチから立ち上がったわたしは、力いっぱいのビンタを叩きつけた。

 だけど、相手は子どもとはいえ男の子。ビクともせずに、わたしを睨みつけてくる。

「調子に乗ってんじゃねえぞ、このアマ!」

 今度は相手の攻撃だった。拳を頬に叩きつけられ、わたしは声も出せずに、背中から地面へと倒れた。

「美利亜!」

 慌てた聡史君が、倒れたわたしを抱き起こす。

 殴られた頬に響く、痺れるような痛み。

 口の中に広がる、血液の味。

 わたしでは到底敵わない、そう思い知らされた一撃だった。

「さあ、聡史。どうすんだ? その子を守る騎士にでもなるか?」

「もちろん逃げてもいいぜ? いつもみたいにな。その後は、俺たちがこの姉ちゃんの相手をしてやるさ」

 聡史君がわたしの前に立ちふさがる。

「ここは僕が食い止めるから、美利亜だけでも逃げて」

 小声で、聡史君がわたしに告げる。

 だけどわたしは、即座に拒否した。

「無理だよ。聡史君を残して逃げるなんて」

 確かにわたし一人なら、中界の姿へと戻って逃げる方法もある。

 だけど、残った聡史君はどうなるだろう。考えただけで、身震いに襲われていた。

「だけど、このままじゃ二人とも……美利亜だって、何をされるか分からないんだぞ?」

「それでもいい。聡史君と一緒なら……最後のお別れがこんな形なんて、絶対に嫌だ」

 聡史君の背中に抱きついて、わたしは離れなかった。離れたくなかった。

「美利亜……」

「今日が最後だもん。大好きな聡史君と一緒にいられる、最後の日だもん」

 わたしは目を閉じて、聡史君の背中に顔を押し付けた。

「なに、いちゃいちゃしてんだ?」

 そんな声が聞こえたと思うと、わたしの体は吹き飛んでいた。

 正確には聡史君の体が殴られた衝撃で、体を掴んでいたわたしも一緒になって飛んだらしかった。

 顔を上げると、聡史君の口元から、赤い液体が流れている。

「聡史君!」

「大丈夫、大丈夫だよ。これくらい」

 わたしを押しのけて、聡史君は颯爽と立ち上がった。だけど、小さく体が震えている。

「無理しないで、寝てた方がいいんじゃないか?」

 相変わらずにやけたままの男に、今度は聡史君から殴りかかった。

 だけど、その一撃もあっさりと止められてしまう。

「パンチってのは、こうやるんだよ!」

 言いながら放たれたそれは、まるで金槌で殴られたような威力だった。先ほどよりも遠くまで吹き飛ばされた聡史君の体は、小刻みに痙攣している。

「聡史君!」

 駆け寄ろうとしたわたしの腕を、殴った男とは別の男が掴む。

「へへっ、あんな弱い奴は放っておいて、俺たちと遊ぼうよ」

「いや、放して!」

「俺たちと付き合ってくれるっていうなら、聡史を見逃してやってもいいぜ?」

 そう言われて、抵抗を止める。大人しくしていれば、これ以上聡史君は殴られない。

 たとえどんな目に遭おうとも、殴られ続ける聡史君の姿を見せられるよりはましだ。

「どうすんだ? 俺たちはどっちでもいいんだぜ?」

 悪魔の囁きに、わたしは無言で頷いた。悔し涙が溢れて止まらなかった。

「だとよ。よかったな、聡史」

 倒れたままの聡史君を見下ろし、男が吐き捨てる。

 だけど、それで話は終わらなかった。

「待、て……」

 ゆっくりと、聡史君が地面に手をつける。

 懸命に起き上がると、口から何かを吐き出した。

 それは、血まみれになった歯だった。先ほど殴られたせいで、折れたのだろう。

「美利亜は、渡さない……」

「へぇ、いい度胸じゃねえか」

 指の関節を鳴らしつつ、男は聡史君の前に立った。数秒後には、再び聡史君の体は地面に転がっている――それは誰の目にも明らかだった。

「聡史君! もういいの! 早く病院へ行って!」

「美利亜、今、助ける……」

 歩み寄ってくる聡史君に、男のパンチが再び唸りを上げる。

 鈍い音がする――わたしの予感は、幸運にも外れていた。

 紙一重で聡史君は、男のパンチを避けた。そして脇をすり抜け、力強く一歩踏み込む。

 狙いはわたしの腕を掴んでいる男だった。

「うああああ!」

 拳に全体重を乗せて、手を掴んでいる男の頬を殴りつける。またも吹き飛びそうになったわたしを、今度は聡史君が掴んでいた。

「聡史君!」

 抱きつくわたしを引きずりつつ、聡史君はベンチのそばまで歩いていった。そこでわたしを下にして、地面へと倒れる。

「さ、聡史君!?」

「美利亜、少しだけ、我慢してね」

 聡史君はわたしを下にしたまま、左腕をベンチの脚へと絡ませた。右腕はわたしを抱えたまま、動こうとしない。

「へっ、それで守ってるつもりか?」

 言われてわたしは、ようやく聡史君の目論見に気がついていた。

 聡史君はわたしを渡さないために、身を挺してわたしをかばっているのだ。ベンチに腕を絡ませたのも、持ち上げられないようにするため。

「聡史の分際で……生意気なんだよ!」

 聡史君が殴った男が、容赦なく仕返しを始める。他の二人もそれに続き、あっという間に聡史君は傷だらけになっていった。

「いつまで持つかなぁ、聡史」

 まるで飽きたおもちゃでも扱うように、聡史君をひたすらに痛め続ける。

 単に殴るだけでなく、蹴ったり踏み潰したり――もはやなんでもありだ。

「もういいから、やめてよ聡史君!」

 大粒の涙が、止め処なく零れ落ちていく。

 わたしにはそれを拭うことすら、許されなかった。

「わたしにそんな価値なんてない! 聡史君が身を挺してまで、守る価値なんてないんだから!」

 絶叫すると、聡史君が顔を上げる。その顔は迷いのない、すがすがしい笑みに包まれていた。

「僕にできることを、やりたいようにやってるだけだよ。後悔はしたくないから……」

 それだけ言うとわたしの頭を抱え、再び身動き一つしなくなった。

「聡史君お願い、もう離していいから。あんたたちも、もう気がすんだでしょ! これ以上聡史君を痛めつけないで!」

 わたしの叫喚も、暴行の音でかき消されていく。

 聡史君が殴られる音と、型のはずれた無邪気な笑い声だ。

 叫ぶだけで何もできないわたしは、自分の無力さを呪いながら、ひたすらに涙を流し続けた。

 聡史君の体を通じて、わたしに伝わってくる衝撃が、ようやく収まる。

 それはある声がきっかけだった。

「こ、こら、何をやっているの! け、警察呼ぶわよ!」

公園の前を偶然に通りかかった、見知らぬ女性が、小さな声を懸命に張り上げていた。

「やばい、逃げるぞ! 捕まって学校や親に連絡されたらたまんないからな!」

 三人は慌てて、公園から逃げ出していた。

「だ、だいじょうぶですか?」

 心配そうに声をかけてくる女性に、わたしは泣きながら絶叫した。

「聡史君、聡史君が!」

「ほ、本当にひどい怪我ね。えっと、すぐに救急車を呼んでくるわ!」

 女性はいい残すと、足早に公園から去っていってしまった。

 公園にはわたしと聡史君だけが残され、急激に静かな空間へと戻っていった。

「聡史君! あいつらもう行ったよ! もう大丈夫だから!」

 だけど、聡史君から反応がなかった。ぐったりとしたまま、痙攣すらしていなかった。

 裂傷や打撲で体中を包まれていて、傷がついていない場所を探すほうが難しそうだ。

「聡史君! 聡史君ってば!」

 手を握りつつ、何度も名前を呼ぶ。すると聡史君はうっすらとまぶたを上げて、力なく微笑んだ。

「美利……だ、じょぶ?」

 全身に広がる傷よりも、わたしを心配してくれる聡史君。わたしは鼻をすすりながら、頷いた。

「待ってて、また傷口を拭いてあげる!」

 初めて会った時と同じハンカチを、同じように濡らす。

 違うのは、聡史君の傷が尋常じゃないところだ。ハンカチで拭いたぐらいで、どにかなるようなものではない。

「聡史君、すぐ救急車が来るから、ちょっとだけ我慢してね!」

 ゆっくりと頷く聡史君。だけど、さっきの女性が呼んだはずの救急車は、一向に現れる気配をみせない。

「美利亜……」

 聡史君が、わたしに顔を向ける。だけど視点が定まっていないのか、わたしと視線が交わらない。

「ぼくは、もうダメかもしれない」

「ば、馬鹿なこと言わないで! ダメって何よ、死んじゃうってこと!?」

「体が、思うように動かないんだ……」

 諦めかけている聡史君を、わたしは力いっぱいに否定した。

「そんなの関係ない! 漫画を描いて、子ども達に夢を与えるんでしょ! だったらまだ死んじゃダメ!」

 傷だらけの聡史君を胸に引き寄せ、思い切り抱きしめる。

 わずかに動く腕をわたしにまわし、逆に抱きしめ返してきた。

「そうだったね。こんなところで、死んじゃダメだよね」

「そうだよ、絶対ダメだよ!」

 再びボロボロと、わたしの目から涙が溢れ出る。もう止まらないし、止める気もない。

「絶対に死なないよ、死ぬもんか……」

「その意気だよ。絶対にあきらめないで」

 聡史君と同時に小さくうなずく。

 だけど、言葉とは裏腹に、聡史君の体から次第に力が抜けていった。

「聡史君!」

「ちょっと疲れちゃった。少し休むよ」

 微弱な声を最後に、聡史君は身動き一つとらなくなった。

 聡史君の生きている証は、わずかに動く心臓だけだ。それも心なしか、弱まっている気がする。

 感覚では、すでに数時間が経過している。にもかかわらず、救急車の高鳴るサイレンは未だに聞こえてこない。

 先ほどの女性が本当に救急車を呼んでくれたのか、不安になってくる。

「最後の手段しか、ないよね……」

 脳裏に聡史君を助ける、唯一の方法が浮かぶ。手段を選んではいられなかった。

「聡史君、少し待っててね!」

 聡史君の頭を軽く撫でてから、わたしは大きく深呼吸をする。

 そして、空に向かって絶叫した。

「エンマ様ぁぁぁ!」


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