10月27日(1)
十月二十七日 月曜日
今日でわたしの、現界での生活は終わる。明日は信也君を迎えに行かなければならない。
サーカス会場で起こる爆発事故。悲惨な事件から優美ちゃんを救えるかは、信也君の腕にかかっている。そして、それが終われば信也君は死ぬのだから。
目を覚ましたのは昼過ぎだった。信也君はすでに修学旅行へと向かっただろう。
わたしは昼食をとるために、階段を下りていった。するとなぜか、一階全体に嗅ぎ慣れた匂いが充満していた。
「これって……お酒だよね?」
一部屋だけならまだしも、一階全体に広がっているとなれば、相当な量のお酒が動いたに違いない。
わたしは食事をする部屋を覗いてみた。踏み出した足に何かがぶつかり、床を転がっていく。
それは、ブランデーの空き瓶だった。よく見るとビール、ワイン、日本酒など――ありとあらゆるお酒のビンが、あちらこちらに散らばっている。
「信也君が……まさかね。じゃあ……」
呟きながら周囲を見渡すと、台所の隅から人間の足が見えた。どうやら床に倒れているらしい。
「お母さん?」
近寄りながら、尋ねる。倒れている人物の全貌が明らかになると、やはりその人物はお母さんだった。
シャツと短パンという女性らしからぬ格好と、手に握られた一升瓶。顔を真っ赤にして薄目を開けて、酒臭い声を出す。
「うーん、なんだぁ、ミリアかぁ。今日も遅起きだなぁ」
遅起きとは、ようするに早起きの反対という意味だろう。
「ちょっと、大丈夫?」
「なんだぁ、お前。母親を心配できるほど、高い身分になったのかぁ?」
「いや、身分とかじゃなくて」
「だったら、黙ってろ!」
怒鳴りつけてから、手に持った一升瓶を口元へ運ぶ。
「どう考えても飲みすぎだよ、お母さん。ほら、しっかりして」
「しっかりしてますよぉ、わたしはいつだってしっかりしてますよぉだ!」
お母さんの体を起こして、壁へと寄りかからせる。それからコップに水を汲んで、お母さんへと渡した。
その水を一息で飲み干し、大きく息を漏らす。酒の強烈な匂いが、わたしを襲った。
「わうっ!」
いくら酒好きのわたしでも、思わず鼻をつまんでしまった。匂いだけで酔ってしまいそうな、まるで瘴気だった。
「美利亜! たまには肩でも揉め!」
「えっ?」
「えっ? じゃないだろ! 母親を敬う気持ちが、お前には足りないんだよ!」
仕方なくわたしは、お母さんの肩を揉んであげた。時計を見ても、まだ約束の時間には早い。
口やかましかったお母さんとも、今日でお別れなのだ。感謝の気持ちを肩揉みで表すのも、悪くはない。
「あのさ、お母さん」
肩を揉みながら、わたしはお母さんに尋ねた。
「んっ? なんだぁ?」
「わたしがいなくなったら、寂しい?」
言った後で、後悔する。愚問であるのは明らかだった。
わたしが中界に帰れば、お母さんの記憶は元に戻されるだろう。
実際には、美利亜という娘はいなかった。元々いないのだから、寂しい、寂しくない以前の問題だ。
だけど、お母さんは極端に顔を強張らせていた。わたしの胸元を掴み、壁へと叩きつける。
「いだっ!」
うめき声を発したわたしにもかまわず、お母さんはまくし立てた。
「バカやろう! なんでお前までそういうこというんだよぉ! 悲しいに決まってるだろぉが!」
「そ、そうだよね。悲しいよね」
言いながら、わたしの手を握り締める
悲しいに決まっている――その言葉はすごく嬉しかった。心配してくれて、一緒になって悩んでくれるお母さんの気持ちが、ちくりと胸を刺す。
「ごめんなさい。変なこと言っちゃって」
謝りながら、お母さんの手をゆっくりと外す。これ以上ここにいては、何か大きな失敗をしそうな気がした。
いったん出直そうと、その場を離れようとするも、背中からお母さんが、覆いかぶさってきた。
「お、重いよ、お母さん」
「なあ、美利亜」
「な、なに?」
「お前達、どこかに行っちゃうのか?」
「えっと、その……」
返事を先延ばしにしつつ、お母さんの束縛から逃げ出す。二、三歩間合いを取ると、お母さんはその場から動かなかった。
「なぁ、わたしを置いてどこかに行っちゃうのか?」
「い、行かないよ」
「嘘だ!」
「嘘じゃないって」
「だったらなんでいなくなったらとか、そんな話をすんだよ!」
お母さんは大きく拳を振り上げ、わたしに向かって突進してきた。
「ちょっ、お母さん、やめて!」
殴られる! と思って目をつぶった瞬間、わたしを襲ったのは痛みではなかった。
腕を通して伝わってきたのは、力強さと温もり――それは抱擁だった。
「お、お母さん?」
お母さんの目から、大粒の涙が幾重にもこぼれていく。
その涙は、わたしの肩にと落下し、大きな痕跡を残していった。
「どこにも、どこにも行かないでくれ。わたしを一人にしないでくれ!」
「お母さん……」
「もう一人は嫌なんだ、誰も失いたくないんだよ!」
泣きじゃくるお母さんの姿は弱々しく、まるで迷子の子どものように震えていた。
普段のお母さんのりりしさからは、まず想像できない。
「お前たちはわたしの希望なんだ。お前たちがいたからどうにか頑張れたんだ。頼む、どこにも行かないでくれ。お願いだよ!」
わたしは目をつむると、お母さんの肩を軽く叩き、微笑んでみせた。
「大丈夫だよ。どこにもいかない。行くわけないじゃない」
ふと、優美ちゃん伝えた信也君の嘘が、頭をよぎる。あの時の信也君の気持ちが、ようやく理解できた。
わたしが聡史君に事実を告げたのは、聡史君を想っていたからじゃない。聡史君の愛情が苦しかったからだ。
だから逃げ出した。叶うはずのない巨大な愛情に、押しつぶされるのを恐れて、全力で逃げ出した。
信也君は違う。たとえ未来は決まっていようとも、優美ちゃんからの愛情へと勇敢に立ち向かった。
最終的には嘘になるとしても、優美ちゃんには必要な言葉だったから。
今ならわかる。お母さんの愛情を受け、逃げることをやめた今なら。
「本当か! 本当だな!」
「当たり前じゃない。どうしてわたしたちがどこかに行っちゃうのよ」
聞き返すと、お母さんはばつが悪そうにうつむいてしまった。
少しの沈黙が流れ、お母さんがゆっくりと口を開く。
「いつもお前たちを叱ってばかりで、嫌いなんじゃないか? もう一緒に生活するのが嫌なんじゃないかって……」
「そんなわけないよ。お母さんはわたし達を心配してくれてるんだもん。逆に感謝しなくちゃ。それに」
「それに、なんだ?」
満面の笑みで、お母さんへと告白する。
「わたし、お母さんのこと大好きだもん!」
「ほ、本当か!」
「嘘なんて言わないよ」
「嘘じゃないなら、もう一回言ってくれ!」
「何度だって言ってあげるよ。お母さん大好き、大好きだよ!」
これは、建て前でも、嘘でもなくわたしの本心だった。
たった一週間だけのお母さんでも、本当の家族のように、わたしの行動に一喜一憂してくれた。言葉だけでは足りないぐらいだ。
「ありがとう、ありがとう!」
お母さんはわたしの胸に顔をこすりつけ、嗚咽まじりの涙を流し続ける。
数分後、泣き止んだお母さんは、涙を拭いながら力なく微笑んでいた。
「なぁ、美利亜。頼みがある」
「なあに?」
「今日は一日、一緒にいてくれないか?」
「えっ!?」
突然の申し出に、口をつむぐ。もちろんそうしてあげたいのは山々だけど、わたしは聡史君に会いに行く約束がある。
「いや、なのか?」
「違う、違うよ! ただ、夕方から用事があるから」
「あの、男の子か?」
わたしが無言でうなずくと、お母さんは小さく息を漏らした。
「しかたないな。じゃあ約束してくれ」
「約束?」
「遅くなってもいいから、無事に帰ってきてくれ。元気な笑顔でな」
頭を撫でてくるお母さんに、わたしは力強く頷いた。
「うん、わかった。約束は守るって言ったもんね!」
「あぁ、わたしの娘なら当然だ!」
お互いに抱きしめていると、お母さんの鼻から安らかな寝息が漏れ始めた。
「お母さん。わたしにとって、お母さんは一人だからね。約束、絶対に守るから」
お母さんをソファへと運び、自分の部屋から持ってきた布団を掛ける。散らばった酒瓶を一箇所に集めて、軽く掃除をした。
あとは部屋のベッドに腰を掛けて、時間が来るのをひたすらに待つ。
最高の一日として、胸に刻み込める日にするんだ――そう、自分に言い聞かせながら。