10月26日(2)
次に目を覚ました時、時計は十三時を過ぎていた。さすがに昨日の夕食と今日の朝食を抜いているので、お腹が悲鳴を上げる。
信也君に遭わないよう願いつつ、階段を下りていく。食事をする部屋で、お母さんはテレビを見ていた。
「信也は?」
「ああ、優美ちゃんのお見舞いだよ」
「そっか……」
椅子に座ると、お母さんはサンドイッチを出してくれた。
「ほら、腹減ってるんだろ?」
「うん……」
出されたサンドイッチは、卵とハムのサンドイッチだった。口の中に入れると、柔らかい甘みとハムの塩加減が絡み合い、口の中へと広がっていく。
「何があったかまでは、詳しく聞かないけどな。元気出せよ?」
サンドイッチを頬張りつつ、頷く。心配しなくても、中界に帰れば元の日常へと戻る。
そうすれば聡史君なんて、思い出さなくなる――そう自分に言い聞かせた。
サンドイッチをすべて胃の中へ収めて、わたしは席を立った。自室へ戻って、もう一眠りするためだ。
考えてみれば、中界に戻ればすぐにまた仕事が始まるのだ。こんなに惰眠をむさぼれるチャンスはそうそうない。
ちょうどその時、インターホンの音が鳴り響いた。
「はぁーい!」
お母さんが玄関へと向かう。わたしは自室へと戻ろうと、廊下へ出た。
「美利亜!」
わたしを呼ぶ声がこだまする。だけど、それはお母さんの声ではなかった。
「聡史君……」
インターホンを押した張本人が、玄関でわたしを悩ましげに見つめている。背中には昨日は持っていなかったリュックサック。運悪く、聡史君と鉢合わせをしてしまったのだ。
「何しに来たの?」
「美利亜に会いに来たんだ。あんな別れ方で終わるなんて、嫌だったから」
「言ったはずよ。もう会わないって。会いたくないのよ」
「だけど……後悔はしたくなかったんだ。逃げるのは簡単だけど、逃げても何も変わらない。それを教えてくれたのは美利亜だろ?」
何も言えずに、わたしは口をつぐむ。
と、お母さんがわたしの頭を、思い切り押さえつけてきた。
「美利亜。こんなに熱心に想ってくれる人なんて、そうそういないぞ? この子の何が不満なんだ?」
事情も知らずに、言いたいことを述べる。
「そんなこと……分かってるよ」
わたしだって、本当なら喜んで聡史君と一緒にいる。喜んで迎え入れて、一緒に雑談でもしたい――信也君と優美ちゃんのように。
「とにかく、もう一度きちんと話をするんだな。最初からうまくいくような恋愛じゃ、先は見えてるよ」
無理やりに聡史君を家に上げて、わたしと一緒に階段の上へと押し上げる。
仕方なくわたしは、自分の部屋へと聡史君を招きいれた。目を合わさないよう、ベッドへと腰をかける。
「あの、美利亜」
「なに?」
わざとぶっきらぼうに、聞き返す。それでも聡史君は、めげずに話を続けてきた。
「美利亜とお別れしなきゃいけないのは、分かったよ。言えないなら理由も聞かない」
「それで?」
「だから、最後に、美利亜の肖像画を書きたいんだ」
「わたしの……肖像画?」
今日初めて、わたしは聡史君と目を合わせた。聡史君はリュックサックから、スケッチブックと鉛筆を取り出している。
「美利亜の顔を、残しておきたいんだ。会えなくなっても、美利亜の顔を忘れずに済むように」
聡史君の申し出に、瞳が潤むのが分かる。
わたしの苛立っていた理由――それは、わたしの現界での生活が、意味を持たなかったから。
だけど今、現界で生きた意味がようやく生まれた気がした。聡史君の手元に残る肖像画は、言い換えればわたしと聡史君が出会った証になる。
中界へと戻っても、聡史君の心の中にわたしが残ってくれる。
長い期間を要するけど、いつかわたし達はまた会える。肖像画が、そのバトンの役目を果たしてくれる。
わたしは聡史君の胸の中へと、埋もれていた。聡史君の黒い服が、涙で色濃く染まっていく。
「ごめんね、聡史君。本当にごめんね」
泣きじゃくるわたしを、聡史君は優しく撫でてくれた。全身から余計な力が抜ける。
「じゃあ、モデルになってくれる?」
「うん、喜んで」
「じゃあポーズをとって」
聡史君は簡単に言うけれど、とっさにポーズなんてとれない。
わたしはとりあえず座ったまま、膝の上に手を置き、聡史君に体を向けた。
「表情が硬いかな? ほら、笑って!」
ぎこちない笑顔を聡史君に送ると、どうやら納得してくれたようだ。鉛筆を動かし描き始める。
「できた!」
「えっ、もうできたの?」
「ほら、これ!」
その絵は、『へ』で描かれた眉毛に『の』で描かれた目、そして『も』と描かれた鼻。
その下にまた『へ』の文字。輪郭は右側が途中で止まってしまっている。
「な、なにこれ?」
「これはへのへのもへじって言うんだ。美利亜にそっくりでしょ!」
「もう、聡史君! ふざけないで!」
軽く頬を膨らます。聡史君は笑いながらも、素直に謝ってきた。
「ハハッ、ごめんごめん! でも、今の表情は良かったよ!」
「えっ?」
「さっきまで表情が硬かったから、ちょっと笑わせようっと思ってさ」
優しく微笑む聡史君は、わたしの精神に快い安らぎを運んでくれた。
自然とわたしの口からも、笑みがこぼれていく。
「それだよ、その表情! そのまま動かない
でね!」
再び鉛筆を動かし始める聡史君の期待に、必死で応える。
鉛筆を目の前に立てたと思えば、スケッチブックへとはしらせる。いらだち、悲鳴をあげていた心は、今では完全に落ち着きを取り戻していた。
感謝を繰り返しながら、身動きせず聡史君を見守り続けた。
先ほどまでとは打って変わり、真剣な表情で描き続ける。
二時間後、疲れを吐き出すような大きなため息とともに、聡史君は鉛筆を置いた。
「ふぅ、できたよ!」
「お疲れ様! ちょっとみせて」
仕上がった自分の肖像画へと目を通す。
目元に愁いを帯びつつも、微笑んでいるわたしがそこにはいた。
まるで、鏡を覗いているような――そんな感覚に捕らわれそうだった。
「う、うまい……」
「僕ね、将来は漫画家になって、小さい子供に夢を与えたいって、思ってるんだ」
「すごいすごい。びっくりしたよ!」
興奮してしまったわたしは、聡史君の手元からスケッチブックをくすねた。
それでも聡史君は、和やかな微笑を浮かべている。
「それじゃあ、その絵は美利亜にあげるよ」
「えっ? でも……」
「どこに行っても、この絵だけは持って行ってほしい。たまに眺めることがあったら、その時は僕を思い出してくれないかな?」
聡史君が頬を染め、恥ずかしそうに顔を伏せた。
「うん、わかったよ」
「たとえ離れていても、心は一緒だよ」
そう言ってくれた聡史君の笑顔に、身の毛がよだつ。涙が溢れてきそうなのを、ぐっとこらえるのに必死だった。
聡史君はスケッチブックから絵を切り離すと、筒状に丸めて渡してくれた。
中界にこの絵を持って帰れるかどうかは、定かではなかった。
だけど、エンマ様なら絵の一枚や二枚、持って帰る方法を知っていてもおかしくない。
「でも、聡史君の分は?」
「そこでお願いがあるんだけど」
聡史君は真剣な表情を取り戻す。まるでわたしの瞳の奥を突き刺すように。
「明日の夕方、もう一度だけ美利亜と会いたいんだ」
「えっ? 明日?」
「美利亜と初めて会ったあの公園で、美利亜を描きたい」
「あの……」
「明日で最後なんだよね? 十六時に公園で待ってるから」
わたしが返答を渋っていると、聡史君は立ち上がった。そのまま扉に手をかける。
「ずっと、待ってるから!」
返事を聞くのが怖かったのか、聡史君は逃げるように、部屋から飛び出していった。
階段を下りていく足音に続いて、玄関の扉が開閉する音が耳に入ってくる。
わたしは改めて、聡史君の絵を広げた。どうすればいいか絵に問いかけても、返事はしてくれない。
胸中ではもちろん、会いたい感情で埋めつくされている。
だけど、会ってしまえば絶対に別れるのが辛くなる。
タイムリミットまでずっと、聡史君から離れられないかもしれない。
それだけならまだしも、自分の正体を明かしてしまい、信也君の計画をぶち壊しにしてしまう可能性だってある。
枕に顔を押し付けて、わたしはしばらく動かなかった。異様なまでに静かな室内が、逆に落ち着かなかった。
会いたいけど会いたくない、会いたくないけど会いたい。そんな矛盾した感情が、わたしの中で渦巻いていった。