10月25日α(3)
園内で整備された乗り物は、わたしにとって新鮮な刺激を与えてくれた。
「ねえ、次はあれに乗りたい!」
「うん、いいよ」
乗り物に乗ってはしゃいでは降り、走って次の乗り物へと移動する。中界にはない乗り物の数々に、疲れなんて感じなかった。
「次は、あれかな?」
「ちょ、ちょっとまって!」
聡史君に止められて、ようやくその場に踏みとどまる。
疲れを感じないのはわたしだけの都合だった。聡史君は疲労の色を匂わせている。
「だ、大丈夫?」
「な、なんとか、でも、ちょっとさ、休憩しようよ。ほら、お昼の時間だし。焦らなくたって乗り物は逃げないからさ」
聡史君が腕時計をこちらに向ける.針は確かに正午を少し回っていた。
「そうだね。なにか食べよう!」
「じゃあさ、ここで待っててね」
近くにあった青いベンチにわたしを座らせると、聡史君は辺りを見回して、走り去ろうとしていた。
「ちょっ、どこ行くの!」
「すぐ戻るから」
軽く手を振りながら、人ごみの中に姿を消していく。
辺りに目を配ると、わたしの目に飛び込んできたのは、子連れの家族の姿だった。晴天の下で遊園地を楽しむ表情は、喜びに満ち溢れている。
ふと、信也君の顔が浮かぶ。優美ちゃんが母親に殴られる時間は、とうに過ぎている。
電話をかけて確認しようにも、電話番号が分からなかった。
「おまたせ。どうかした?」
「うわっ!」
困惑するわたしの顔色を伺い、いつの間にやら戻った聡史君が尋ねてくる。
「び、びっくりした」
「ごめんごめん。はい、食べ物と飲み物!」
聡史君から手渡されたのは、レタスとフランクが挟まれたホットドックと、日光の反射で淡く光る、黒い炭酸飲料だった。
「遠慮しないで、どんどん食べてね」
聡史君は笑顔でそう言ったけれど、あまり食事は喉を通りそうになかった。
先ほどまで楽しすぎて忘れていた優美ちゃんの運命が、気になり始めたからだ。
「あの、聡史君」
「ん?」
口いっぱいにホットドッグを頬張っている聡史君に、謝罪する。
「ごめん、そろそろ帰らないと」
「あ……そうなの?」
「うん、ちょっと用事を思い出しちゃって」
「そっか……」
残念そうに顔を曇らせる。ホットドッグを食べる手も止まり、落胆していた。
「急ぎの用事なの?」
「ううん、そこまで急ぎじゃないけど……」
「じゃあさ、もう少しだけ話がしたいんだけど。ダメかな? 美利亜に伝えなきゃいけないこともあるし」
ホットドッグを傍らに置いて、真摯な眼差しを向けてくる。
わたしとしては、優美ちゃんについての結果をいち早く知りたかった。
だけど、今さら急いだところで、結果は変わらないのも分かっている。
「うん、いいよ」
「よかった……」
快諾すると、聡史君は大きく深呼吸していた。そしておもむろに告げた。
「僕は……、僕は美利亜が好きなんだ……」
震える声で、わたしへと告白してきた聡史君に、わたしの心が大きな変化を遂げた。
胸の中心が急に締め付けられ、頬が熱を帯びていく。
お母さんに抱きしめられた時と、ほとんど同じ感触だった。
「初めて会った時、美利亜に一目ぼれしたんだ。初対面は格好悪いところ見られたけど、美利亜に応援してもらえたから、あいつらにも向かっていけた」
わたしはたまらず、胸を押さえつけた。呼吸が速くなり、荒々しい音をたてる。
「ど、どうしたの? 大丈夫?」
わたしの異変に気がついたのか、聡史君が心配そうに、顔を覗きこんでくる。
「なんだか胸が、苦しくて……」
正直に話すと、聡史君は慌てて側に近寄ってきた。
「む、胸が苦しいって、痛いの?」
「痛くはないよ。ただ、無理やり押さえつけられるような」
顔を火照らしつつ、答える。すると、聡史君はすぐに落ち着きを取り戻した。
「あぁ、なんだ。びっくりした」
「わたし、病気なの?」
聡史君は小さく首を横に振った。
「違うよ。ぼくも今、美利亜と同じ状態だからさ」
「聡史君も?」
今度は首を縦に振る。聡史君はすべて理解している――そんな表情だった。
「じゃあ、聡史君はこの苦しみの正体がわかるの!?」
「わかるよ。大体だけどね」
「教えて! これは一体なんなの? わたしには、まったく分からないの」
尻つぼみに、声が小さくなっていく。うつむいたわたしの肩に、聡史君がゆっくりと手を回してきた。
聡史君の手のひらから、わたしへと温もりが伝わってくる。
「その苦しみの正体は愛情だと思ってる」
「愛情?」
「あくまでぼくの見解だけどね」
一呼吸おいてから、聡史君は続けた。
「好きになった人を想ったり、その人の側にいたりすると、すぐに胸が苦しくなる。これは偶然なんかじゃない」
だとすると、わたしは聡史君が好きなのだろうか――考えた瞬間、今までで最高の苦しみが、わたしの胸を襲っていた。
「変な気持ち」
「その気持ち、嫌かな?」
「嫌じゃないよ。だけど、なんて言えばいいのかな。苦しいけど苦しくない、心地よい苦しさ。そんな感じ」
ぎこちない表現だと、自分でも思った。それでもなんとか伝わったらしく、聡史君は何度も頷いてみせた。
「でも、お母さんに抱きしめられた時も、同じように胸が苦しくなったよ?」
「お母さんのこと、嫌いなの?」
「嫌いじゃないけど……」
少し考えてから、聡史君が結論を述べてくれた。
「それは、お母さんの愛情が美利亜に移ったんじゃないかな?」
「愛情って、移るものなの?」
「わからない。だけど、きっと美利亜のお母さんは、美利亜のこと凄く愛してるんだと思う。その膨大な愛情が、体を通して美利亜に移ったんだよ」
「でも、わたしもお母さんも女だよ?」
「愛情っていうのは、なにも男と女の間にだけに生まれるものじゃない。大事に、そして大切に、安否を気遣ったり幸せを願うのも愛情の一つじゃないかな?」
今まで感じたことのなかった愛情が、聡史君の見解で少し身近になった気がした。
大事に、そして大切に思う、それがすなわち愛情――今までのわたしは、愛情という大層な言葉に惑わされて、本質を見失っていたのかもしれない。
「僕も美利亜に愛情を抱いている。だから、今美利亜と同じように、胸が苦しいんだ」
聡史君から愛情という言葉を受けて、わたしは素直に嬉しかった。
仲の良い友達はいても、大事にされたり、大切にされたという記憶はなかった。愛情は友達よりも、暖かくて、楽しくて、少し苦しいけど――何より幸せな気分になれた。
お母さんに抱きしめられた時も、わたしは苦しかったんじゃない。お母さんに愛されて幸せだったんだ。
「ありがと……わたしなんかを好きになってくれて。よく分からないけど、わたしも聡史君のこと、嫌いじゃないよ」
まだ好きという感情を、完全に理解できていると、自信を持っては言えなかった。
ただ、ここで聡史君にいなくなられたら、今まで経験したことのないような、深い悲しみに捕らわれてしまうだろう。
それが好きという感情なら、わたしは間違いなく聡史君が好きだ。
聡史君は力強く頷き、わたしを思い切り抱きしめてきた。
「だったら、お願いがある。僕と付き合って欲しい。これからもずっと、一緒にいて欲しいんだ」
そう言われて、わたしの胸の苦しみが、爆発したかのように膨れ上がった。
だけど、その苦しみの元は、幸せとは程遠い――むしろ絶望の感情だった。
「ずっと……一緒に?」
「うん、これからも遊びに行ったり、食事をしたりしてさ。お互いの愛情を深めて、もっと幸せになりたいんだ。一生、いつまでも、何があっても美利亜と一緒に……」
自分の想いをまくし立てていた聡史君は、わたしの異変に気がついて口をつぐんだ。
わたしは泣いていた。今まで嘘泣きは何度も経験しているけど、本気で涙を流す日が来るとは思わなかった。
「どう、したの?」
恐る恐る、聡史君が尋ねてくる。聡史君の手を振り払い、わたしは顔を押さえて立ち上がった。
乾ききった唇が、おもむろに動く。
「ごめんなさい。ずっと一緒になんて、無理なの」
「えっ?」
聞き返してくる聡史君に、わたしはもう一度、本心を伝えた。
「一緒には、いられない。すぐにお別れになるから」
「どうして? やっぱり僕みたいな情けない男は嫌い?」
力いっぱい首を横に振り、全力で否定を伝える。
「嫌いじゃないよ。ううん、きっと好きなんだと思う。だけどずっと一緒になんて、不可能なのよ」
「なんで、どうして! わけを言ってくれないと納得できないよ!」
強い調子で、聡史君が尋ねてくる。
説明できたら、どれだけ楽だろう。わたしは中界で生まれた――いわゆる死者だから、ここにいてはいけないのだと……。
「言えない」
「引っ越すの?」
「言えないわ」
「どこかへ行くの?」
「それも言えない」
「遠くへ、外国にでも行っちゃうの?」
「言えないのよ! わかってよ!」
大声で聡史君を怒鳴りつけて、両手で自分の顔を塞ぐ。
溢れ出る涙はそれでも止まらず、手の隙間から流れ落ちていった。
「わかったよ、もう聞かない」
悔しさと悲しさを混合させた、苦渋の表情で、聡史君がぼやく。
「だけど、一つだけ教えてほしい」
「……なに?」
勇気を出して手をどけると、聡史君と目を合わせる。
「いつまでなら一緒にいられるの?」
聡史君から洩れた問いには、再び顔を隠すしかなかった。
「答えてくれよ。どうして黙ってるんだ!」
わたしの手を無理やりどけて、聡史君が睨みつけてくる。
わたしは涙声で、簡潔に結論を伝えた。
「来週の、月曜日まで」
信也君は火曜日まで生きるけれど、わたしは月曜日まで。火曜日は正式に、信也君を死者として迎えに行かなくてはならない。
信也君が優美ちゃんを救えても、救えなくてもだ。
「来週の月曜日っていったら、今日を合わせてもあと三日じゃないか! せっかく出会えたのに、そんなのないよ!」
「ごめん、ごめんね」
謝るしかなかった。元々中界で生まれ育ったわたしに、決定権なんてない。
聡史君は諦めたのか、それ以上何も言わなかった。
「もう、帰ろうか」
聡史君の申しでに、わたしは頷いた。
遊園地を出て、無料送迎バスに乗る。わたしも聡史君も、一言も喋らなかった。
来る時と同じ三十分が、一時間にも二時間にも感じられた。早く駅に着いてほしい。わたしの願いはそれだけだった。
駅でわたし達はバスを降り、わたしは無言のまま駅から去ろうとした。
背後から、聡史君の声が聞こえる。
「美利亜。明日はまだ、会えるんだよね?」
「えっ?」
振り返ると、無理やりに微笑んでいる聡史君。なぜだか、とても遠くに見えた。
「明日また、会えないかな? こんな別れ方はしたくないんだ」
わたしは首を横に振った。先ほどまでの幸せの苦しみは消えうせ、今ではどうしようもない絶望が、わたしの脳裏を執拗に追い詰めていた。
「もう、会わないほうがいいと思うんだ」
「ど、どうして?」
予想外の返答に、聡史君は驚きを隠せないようだ。歩み寄ろうとする聡史君を、手で制する。
「これ以上会うと、お互いに別れるのが辛くなるでしょ? 別の相手を探さなくちゃいけないんだし」
「そんなの関係ない! できる限り美利亜の側にいたい! 明日も、明後日も、お別れの
直前まで、一緒にいたいんだ!」
聡史君は納得していなかったけれど、わたしにはもう限界だった。
初めて受けた愛情、大好きな聡史君からの抱擁、そしてやるせない別れ――これ以上、執拗に襲ってくる胸の痛みに、耐えられる自信はなかった。
「さよなら!」
吐き捨てるように言い放ち、わたしは駅前から走り去った。
背後から聡史君が、渾身の力を込めて叫んでいる。
「明日の朝九時! ここで待ってるから! ずっと、ずっと待ってるから!」
『待ってなくていい! もうわたしのことなんて早く忘れて!』
心の中で絶叫すると、再び涙が流れ出し、風に乗って飛び散っていく。
一度も振り返らず、わたしは信也君の家へと向かった。息は切れ、足は披露で震え始める。それでも無我夢中で走り続けた。