10月24日α(7)
音に反応して、信也君と優美ちゃんが部屋から出てくる。
「し、信也君……」
出てきた信也君を見上げると、嘆息まじりにわたしを見下ろしていた。
散乱したコップの破片を、わたしと信也君と優美ちゃんの三人で拾う。
「いま、なんか変な音しなかったか?」
コップの割れた音は、お母さんの部屋にまで聞こえたようだった。お母さんが部屋から出てきて、まくしたてる。
「ど、どうしよう」
昨日から、お母さんには怒られてばかりなのだ。コップを割ったといえば、またどやされるに決まっている。
そんなわたしの気持ちを察してか、信也君はわたしの肩にそっと手を乗せてきた。信也君がなんとかしてくれる――そんな安堵の気持ちが浮かび上がる。
だけど、そんなわたしの期待を、あっさりと信也君は裏切ってきた。
「しっかり怒られてきなよ、姉さん」
「えっ、ええぇ!?」
わたしは全力で首を左右に振った。
「いやだよ! 絶対怒られるもん!」
「だけど、グラスを割ったのは他の誰でもない姉さんだろ? 早く行かないと、怒られる量が倍になるよ?」
「うぅ……」
事実なのだから、そう言われては、返す言葉もない。
渋々と、わたしは階段を降りていった。信也君の視線を、背後から感じる。
「美利亜、なにがあったんだ?」
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
わたしは怒られる前に、手っ取り早く謝った。早く謝れば、それだけ早く説教も終わるかもしれない。
だけど、現実はそう甘くなかった。
「ごめんなさいじゃ、なにがあったか分からないだろ!」
わたしの気持ちとは裏腹に、お母さんは余計に怒りだしてしまった。
両手の指先を軽く擦り合わせながら、簡潔に述べる。
「コップを、割っちゃったの」
「まあ、あの音から想像できるのはそれぐらいだろうな。で、怪我はなかったのか?」
怒られるとばかり思っていたので、不意をつかれて目を白黒させる。
自分の身体をおおまかにチェックする。特に異常は見当たらなかった。
「わたしは平気だよ。だけどコップが……」
「コップなんて、また買えばいいさ」
お母さんは鼻で軽く笑うと、わたしを台所へと連れて行った。わたしをそのまま放っておいて、何やら食器棚を探り始める。
「怒らないの?」
「ん?」
蚊のなくようなすすり声で質問すると、お母さんは少し考えてから、
「怒られたいのか?」
と返してきた。慌てて首を横に振る。
「じゃあ別にいいだろ」
「でも、昨日からお母さんに迷惑かけてばっかり。わたしなんていないほうが……」
「美利亜!」
わたしの方へつかつかと近寄り、すぐそばで立ち止まる。
「今、なんて言おうとした?」
「えっ、わたし、その……」
「わたしなんて、いないほうがいいって、言おうとしただろ」
「う、うん」
肯定と同時に、お母さんの放ったビンタがわたしの頬を襲った。何かが弾けるような、乾いた音が辺りに響きわたる。
一瞬なにをされたかわからず、お母さんの前で呆然と立ち尽くす。
お母さんは黙ったままわなわなと肩を震わせて、わたしを鋭く睨みつけていた。
「な、なんで?」
ようやく痛み出した左頬が、わたしの頭をはっきりとさせる。
「いないほうがいいなんんて、思うわけないだろ! なんでそんなこと言うんだよ!」
その声は、家に遅く帰ってきた時よりも、外出したと疑った時よりも激しく、そして大きかった。
「だって、迷惑かけてばっかりだし」
「親に迷惑かけない子どもが、どこにいる」
「だけど、だけどね!」
返事に苦しんで、息を詰まらせる。
すると、お母さんは突然、わたしを強く抱きしめた。
「えっ、おかあ……」
「あのな、美利亜。わたしが美利亜を叱るのは、お前が邪魔だからじゃないんだ。わかるか?」
お母さんの質問に、答えられなかった。
というよりも、いきなり抱きしめられて動揺し、なにも考えられなかったのだ。
「じゃ、じゃあなんのために?」
「美利亜を心配しているからさ」
とたんにわたしの胸が締め付けられ、苦しくなっていく。
味わったことのない――苦しいけど、痛いわけではなく、心臓を優しく押さえ込まれるような、そんな感触だ。
「心配しているから叱るんだ。昨日だって、帰りが遅くて心配してたんだぞ。事故にでも遭ったんじゃないか? もしかしたら誘拐されたんじゃないか? それだけ心配しているのに、お前は全然平気な顔して、のらりくらりと帰ってくる。心配している気持ちを無視されれば、美利亜でも怒りたくなるだろ?」
「うん……」
「わたしはな、いつだってお前たちを想っているんだぞ?」
「いつも?」
「ああ、お前たちには幸せになって欲しいからな」
包んでいた手を放し、お母さんは元の位置へと戻って、またなにかを探し始めた。
「ねぇ、お母さん」
「なんだ?」
探す手を止めずに、声だけでわたしの方へと意識を向けてくる。
「いや、なんでもないよ」
「そうか。とにかく約束してくれ。もう心配かけないって。わたしの娘なら、約束ぐらいちゃんと守ってくれるよな?」
「うん、わかった……」
お母さんは話を笑顔で締めくくり、あとは探しものに集中し始めた。
――本当は言いたかった。わたしの本当の名前はミリア=ミリスで、お母さんに娘なんていないのだと。
子どもは信也君一人で、わたしはなんの関係もない、赤の他人なのだと――。
わたしにとってお母さんは、一昨日初めて会った女性というだけだ。
それなのに、お母さんにとってわたしは、ずっと一緒に暮らしてきた大事な娘なのだ。
わたしの安否を気遣い、想ってくれるのはとてもありがたい。
だけど、わたしは偽者だ。すぐにお母さんの前からいなくなってしまう。
それを考えると、自分の娘を思うお母さんの気持ちを踏みにじり、騙しているようでやるせなかった。
だけど、言えない。ここですべてを話してしまっては、何もかもが台無しだからだ。
信也君が優美ちゃんを救おうとしている心も、エンマ様が成長するチャンスを与えてくれたことも。
そして、聡史君がわたしを誘ってくれたことも――。
「あった。ほら、これなら割れないだろ?」
お母さんが食器棚からなにかを取り出し、こちらに向かって投げてくる。
それはビニール袋にまとめられた、紙コップの束だった。
「う、うん。ありがと」
今までの思考を悟られないように、急いで信也君の部屋へと向かう。
散らばっていたはずの、コップの破片は、きれいに片付いていた。
ちりとりでガラスの破片を集めていた信也君の傍らで、優美ちゃんが心配そうにわたしの表情を伺っている。
「はい、信也君」
持っていた紙コップを信也君に渡すと、自分の部屋への扉を開いた。
背後から信也君が何やらお礼を言っていたし、優美ちゃんは未だ心配そうな顔で見つめていた。
だけど、何か言葉を返そうという気には、なれなかった。
自室の扉を閉めると、胸に手をやる。
「なにこれ……」
締め付けるような苦しみが、心を鷲摑みにしていた。初めての経験で、どうすれば治まるのかすら、分からなかった。
わたしは目覚まし時計を八時半に合わせてから、布団へと潜り込んだ。膝を抱えて、頭を空っぽにする。
わたしを苦しめる原因は、分からないままだった。
だけど、忙しい一日だったせいか、眠りに落ちるまでにそう時間はかからなかった。