10月22日(5)
先ほどお母さんが引っ込んだ部屋に入る。台所とテーブルが一部屋にあるという、変わった構造だった。
テーブルにはお母さんが作ったであろう、料理が均等に並んでいた。その臭いに、わたしは思わず顔をしかめた。
「今日はミリアの大好物だからな。しっかり食べて母さんに楽させてくれよ」
ご飯をよそいながら、お母さんが微笑んでくる。わたしはなんとか平静を装いながら、笑みを返した。
「それにしても姉さんの好物が、おでんだったとはね」
何も知らない信也君が、平然と言ってのける。
思わず飛び出しそうになるパンチを必死に抑えて、わたしは椅子に座った。目の前に並ぶおでんを凝視しながら――。
「どうかした? 早く食べなよ」
「どうしておでんなのよ……」
「姉さんの好物なんでしょ?」
ついにわたしは我慢できずに、信也君の胸倉をつかんでいた。
「な、どうしたんだよミリ……姉さん」
「おでんが好きなんていつ言ったのよ……」
「いや、それは……もしかして?」
わたしの顔色を伺いながら、尋ねてくる。
「おでん、大嫌いなの……」
真相を述べると、信也君が固まった。
初めて食べたのは、カルバドスに連れて行かれたおでん屋だった。大根を口に入れた瞬間、吐き出しそうになるのを必死に堪える。
ほとんど味がない――それがわたしの感想だった。
しかもその後、カルバドスに無理やりいろんな種類の具材を口に入れられた。味もなく熱いだけのおでんに意識が遠のき、その場で卒倒した――懐かしくも、苦い思い出。
「じゃあ、なんで母さんはおでんを姉さんの好物だなんて言ったんだろ」
「知らないわよそんなの……あっ!」
信也君から手を離し、祈るように組み合わせる。そのまま天井を見上げると、エンマ様のせせら笑いが聞こえてきた気がした。
「……エンマ様の仕業だ」
「エンマ様が? なんでそんな手の込んだことを……」
「いつも言ってるのよ、好き嫌いがあるようじゃ立派な案内人にはなれないって」
「どういう理屈なんだ、それは」
わたしは目の前の大根、白滝、牛筋など順番につっついた。
「大根嫌い、白滝いやだ、牛すじ気持ち悪いよ……」
あふれてきそうな涙を、グッと堪える。ある意味これが、本当の罰なのかもしれない。
「なんだ、行儀が悪いな。そんなに待ちきれないなら先に食べててもいいぞ」
お母さんに勧められて、わたしの箸が止まる。このままでは、わたしは本気で失神しかねない。
「んじゃ、先に食べとくね。いただきます」
何を思ったのか、信也君が率先しておでんを食べだした。これではわたしが食べないのが、不自然になってしまう。
信也君の行動は、新手の嫌がらせとしか思えなかった。
「い、いただきます」
「おう。おでんのおかわりたっぷりあるからな。しっかり食べろよ!」
最初は味噌汁から――と思っていたわたしに、聞こえてきた悪魔の言葉。口から味噌汁が噴出する。
わたしは覚悟を決めると、箸を強く握り締めた。ここからが、わたしの腕の見せ所だ。
わたしは二人の目を盗んで、おでんを信也君の皿へと移していった。
わたしの素早さを駆使すればこの程度、バレずにやるのは造作もない。
「ご、ごちそうさま!」
白飯と味噌汁だけを堪能し、わたしは勢いよく立ち上がった。
「なんだ美利亜、もういらないのか?」
疑惑の表情で、お母さんがわたしを見つめてくる。
騙すのは忍びなかったけれど、誰しも苦手なものはある。
「う、うん、もうおなか一杯!」
「いつもだったら鍋一杯に作っても、一晩でたいらげるじゃないか。どっか具合でも悪いのか?」
「鍋一杯のおでん……」
今しがた食べたものが、逆流してくる恐怖に捕らわれ、わたしは足元をふらつかせる。
――もう耐えられない。
わたしは部屋から飛び出すと、自分の部屋のベッドにもぐりこんだ。寝心地のいいふわふわのベッドが、次第に心を落ち着かせてくれた。
しばらくすると、部屋をノックする音が聞こえてきた。
「どうぞ……」
必死にひりだした声に反応して、入ってきたのは信也君だった。
「信也君……」
「ほら、また君付けする」
「そんなことより、なにか食べ物。おでんの臭いを忘れられるような、美味しくていい香りの食べ物を、ちょうだいよう」
信也君はお腹を押さえながら、
「おかげで僕はおなかが破裂しそうなぐらい満腹だけどね」
と苦しそうだ。どうやらわたしが移したおでんに気がつかず、残さず食べてしまったらしい。
「そんなことよりも……」
「そんなこと!? 信也君にとってわたしの空腹よりも大事なことがあるっての!?」
「ある」
そうはっきり言われては、わたしも返す言葉がなかった。
「じゃあ、その用事が済んだらなにか食べ物持ってきてよ」
交換条件を出すと、信也君はいとも簡単に頷いていた。
「分かってるさ。確かリンゴがあったから、剥いて持ってきてやるよ」
「リンゴ……じゅる」
口の中に広がる甘酸っぱい味覚を想像し、わたしはよだれを垂らしそうになった。
慌ててよだれをぬぐう。ちらっと信也君のようすを伺うも、バレてはいないようだ。
おでんの件といい、信也君は鈍感なのかもしれない。
「それで、わたしになんの用?」
わたしは信也君の相談を、真剣に聞いてあげた。すべては後につながるリンゴのため。
どうやら信也君は明日、優美ちゃんの骨折を防ぐために頑張るらしい。骨折のために逃げ遅れたのなら、骨折を防げばいいと判断したみたいだ。
信也君の相談が終わり、リンゴを受け取ると、わたしは口いっぱいに頬張った。おでんの嫌な臭いが、どんどん薄れていくのが分かる。
ようやく人心地ついたわたしは、お風呂に入って寝ることにした。明日はエンマ様に言われた通り、駅前まで出向かなければ。
この一週間、信也君とわたしは、無事に任務を果たせるのか――そんなことを考えながら、わたしは深い眠りについた。