10月22日(3)
だけど、こんなことで諦めるほど、物分りは良くない
最初の曲がり角を曲がったところで、足を止める。
「信也君、まだまだ甘いようね……」
わたしはほくそ笑むと、小さな声でエンマ様と決めたキーワードを唱えていた。
「カルバドスのおたんこなす……」
エンマ様の話が本当ならば、これで生きている現界人――つまり信也君には見えなくなるはずだ。
急いで引き返し、信也君の下へと戻る。
信也君は再び、門の横へと指を伸ばしている所だった。
「やっほぉ! 信也くーん! わたしはまだいるよぉ!」
信也君の目の前で、ひらひらと手を振ってみせる。やはりというか当然というか、信也君からの反応はなかった。
これで準備は万端だ。あとは優美ちゃんが家から出てくるのを待てばいい。
信也君の指先がインターホンを押したらしく、大きな音が鳴り響く。
すると、どこからともなく女性の声が聞こえてきた。
「どなたですか?」
「あ、あの、同じクラスの鷹野信也だけど」
門に向かって喋りだす信也君。死んだ影響で頭がおかしくなってしまったのか――。
「……信也君? ちょっと待ってね」
女性の声が聞こえなくなると、今度は置くの館から女性が駆けてきた。
「あっ、本当だ」
「まさか、嘘だと思ってたの?」
「いや、なんていうかさ。突然の訪問だったから信也君の名前を語る誰かかなって気がしたの。悪気はないから気にしないでね」
親しげに話す女性が、優美ちゃんと分かるのに時間はかからなかった。
ただ、中界で見たDVよりも、数倍美しい女性だった。
長くのびたサラサラの髪と、調和の取れている整った顔立ち。もしも中界に優美ちゃんがいたら、きっとカルバドスが黙っていないだろう。
もしもわたしが男だったら、信也君と優美ちゃんの取り合いをしたかもしれない。そこまで考えるほど、優美ちゃんは可憐だった。
もっとも、勝ち目のない勝負になりそうだけど。
二人は何やら、会話を続けているようだけど、わたしは家に帰ることにした。優美ちゃんの姿に興味があっただけで、信也君の説得には興味がない。
二人の姿に背を向けて、わたしは道を進んでいった。信也君に教わった現界のものをおさらいしながら、歩みを積み重ねていく。
ふと気がつくと、そこはわたしのまったく知らない場所だった。通った覚えも、案内人としてきた覚えもない。
「えっと、信也君の家は……」
考え始めて、ようやく気がつく。わたしは信也君の家の位置を、誰にも聞いていないという事実に。
「ど、どうしよう……信也君の家、どこだっけ!」
懸命に資料に書いてあった、信也君の住所を思い出す。
だけど、中界の住所ならまだしも、現界の住所を思い出したところで、分かるはずもなかった。
「仕方ない。中界に戻ってから出直すか」
三度思い直す――と同時に、三度新たなる絶望へと遭遇していた。
「ど、どうやって中界に帰るのよ!」
案内人の仕事をしている時は、動く階段で現界へと降りて、中界へと戻る。
今回は、エンマ様に現界へと送ってもらった。中界に戻る力なんて、わたしにあろうはずもない。
「ど、どうしよう! このままじゃ迷子のまま……餓死?」
のたれ死ぬ自分を想像して、かぶりを大きく横に振る。
どうにかして中界へと戻らなければ、わたしに未来はない。
「ど、どうにかして……あっ!」
中界の姿でいたのが、幸いした。遠くを指差し狂喜する。
そこにはぼんやりと、七色に輝く、動く階段の姿があった。
「だ、だれが使ってるのかな……この際だれでもいいや!」
わたしは動く階段へと、全速力で向かっていた。
使っているのが誰であれ、中界に戻った時点で消されてしまう。そうなる前に、わたしが中界へたどり着かなければ。
「だああああぁぁぁぁ!」
雄たけびを上げながら、速度を緩めず階段を駆け上る。階段の動きも加わり、瞬く間に現界から離れていった。
中界にたどり着き、足を大地に乗せる。ようやくそこで、わたしは一息ついた。
どうやら階段の使用者は、まだ中界には戻ってきていないらしい。
額に浮き出た汗を拭いつつ、別のパソコンへと移る。
だけど、運悪くすべてのパソコンは使用中だった。
「うーん、仕方ない。誰かが戻ってくるのを待つか」
パソコンが並ぶ前で、しばらく時間をつぶす。すると、わたしが上ってきた動く階段から、人の気配が感じられた。
「君の声なら、どこにいようと聞こえるさ。困った時はすぐに呼んでくれ」
さびついてしまったネジのように、ゆっくりと声に向かって首を回す。そこにいたのはカルバドスと、まだ若い女性だった。
「カルバドス……」
「ん? 可愛らしい女性だ。こんなところでなにをやってるんだね?」
歯が浮きそうな口説き文句を並べ、カルバドスが近寄ってきた。
「なに血迷ってんのよ、カルバドス」
「わたしの名前を知っているのかい?」
「当たり前じゃない。なに寝ぼけ……」
言いながら、わたしは鳥肌が立っていた。カルバドスの目は普段と違い、女性をくどく時の真剣さがあった。
同時に、自分の体を確認する。現界の人には見えない――中界の姿に戻ると思っていたわたしは、自分の姿がエンマ様に変身させられたままだと、ようやく気がついていた。
そして緑色の腕章をつけずに、私服でいるわたし。誰が見ても死んで中界に来た現界人だ。
「まったく、君のような美女をほったらかしにして、案内人はどこへ消えたんだ?」
「いや、そうじゃなくて」
「ついでだ。君も一緒に連れて行ってあげよう。なぁに、お礼は君の愛情だけで十分さ」
「だから、わたしはミリア……」
「ミリアが担当者か。まったくあの中界一の嘘下手は、仕事ほったらかしてどこに消えたんだ。どうせ拾い食いでもして、お腹を壊したんだろ」
「この、おっちょこちょいの腐れ脳みそ!」
わたしの話をまったく聞かず、一人で納得すると、カルバドスはわたしの手をつかんで引っ張った。
「さっ、行きましょうか。麻奈ちゃん」
「はい……」
一緒に来ていた女性――カルバドス担当の死者だろう――は、頬を赤らめつつ頷いた。
「……こんなのがいいのか、現界人は」
カルバドスには聞こえないよう、ぼやく。
わたしがもし現界で恋をするとしても、カルバドスのようなタイプは絶対に嫌だけど。
結局わたしはカルバドスに引きずられ、中界の門をくぐる破目になってしまった。
「すんませーん、カルバドスでーす。門を開けてくさーい!」
「カルバドス……いい加減さ、子どもみたいなこと言うのやめなさいよ」
「へいへーい!」
受付の説教も軽くかわし、門を潜り抜けていくカルバドス。
待合室は珍しく人がおらず、中央の赤い柱に、クレアが寄りかかって呆けていた。
「よっ、クレアちゃん。今日も綺麗だね」
「カルバドスさんの話は、信じるなって言われてますんで」
にべもなく言い放つクレアに、カルバドスは半笑いで反論していた。
「だれだ、そんな根も葉もない噂をばらまいている奴は」
「根も葉もない噂だから、ばらまかれてるんじゃないですか?」
軽く返されて、カルバドスが後ずさる。
「おっと、こいつは手厳しい。でも確かに、ミリアが『中界一の嘘下手』だって噂を流した時も、瞬時に広がっていったからなぁ。説得力はある」
「噂を流したの、アンタだったわけね……」
内から奮い起こる怒りで、全身が強張っていった。
そんなわたしの変貌にも、カルバドスは気がつかない。
「んじゃ、エンマ様に謁見しますねー。今度一緒にデートしようよ」
「やめときます。カルバドスさんの他の彼女に恨まれたくないですから」
「やだなぁ。本気なのはクレアちゃんだけなのに」
「そうだったのね!? ひどいじゃない!」
最後の言葉はもちろんわたしではない。今日のカルバドスの担当で、一生懸命口説いていた麻奈ちゃんだ。
「いや、これはね、麻奈ちゃん」
「知らない!」
弁解する余地もなく、麻奈ちゃんはそっぽを向いてしまった。
気まずい雰囲気の中、落胆しながらカルバドスが先頭で、エンマ様の部屋へと入っていく。わたしたちはそれに続いた。
「カルバドス入ります……糸井麻奈とミリア担当の女性を連れてきました」
「ミリア担当の女性?」
当然のごとくエンマ様からは、疑問まじりの返答が聞こえてきた。
ぎょろっとしたエンマ様の眼球が、わたしの姿を見下ろしてくる。
とりあえず、軽く会釈しながら、苦笑いを返すしかない。
「何をしているのだ? ミリア」
「まったくです。こんなかわいい女性をほったらかして。当分の間、減給処分にした方がいいですよ。ついでに減った給料を、おれの給料に上乗せ……いてっ!」
エンマ様の問いに答えようとしたわたしを無視し、さらには好き勝手をのべるカルバドス。わたしはその足を、思い切りかかとで踏んづけてやった。
足を持ってぴょンピョンと飛び跳ねる。
涙目になっているカルバドスを、麻奈ちゃんが指をさして笑いとばしていた。つられてわたしも笑みこぼれる。
「で、どうしたのだ、ミリア」
「あ、すいません。つい面白くて」
「まあ、否定はせんがな」
よくみると、エンマ様もうっすらと微笑んでいた。
「実は迷子になってしまいまして」
「そうなんですよ。ミリアがほったらかすから、こんなに美しい女性が……いてぇ!」
もう一度、今度はカルバドスのでん部めがけて、背後からおもいきり蹴り飛ばした。
油断していたカルバドスが、前へつんのめると、頭からエンマ様の机へと激突する。
再び巻き起こる爆笑の渦。麻奈ちゃんは抱腹しながら涙を流し、さすがのエンマ様も大きな口を開けて、存分に笑っていた。
「なんだってんだ、今日は厄日か?」
へたり込んだカルバドスが、肩で大きく息を吐く。
わたしはカルバドスの前まで移動すると、腰に両手を当てて見下ろした。
「人の噂を勝手に流すからよ、カルバドス」
「へっ?」
「勝手に人の給料を減らして、自分の給料を増やそうとするからよ」
「エ、エンマ様、これは?」
ようやく事態を把握して、カルバドスが真偽を確かめようとエンマ様を見上げる。
「まあ、そういうことだ」
エンマ様が肯定すると、震えた手でわたしを指差してきた。
「お前、ミリアなのか!」
「そういうこと」
腕を大きく振り回しながら、カルバドスの次の言葉を待つ。
カルバドスは頭を両手で抱え、首を振り乱しながら答えた。
「ミ、ミリアをナンパするなんて、人生最大の汚点を作ってしまった!」
「言いたいことはそれだけかぁ!」
わたしの放った渾身のストレートは、カルバドスの腹をを的確に捉えていた。
「ぐえっ!」
一瞬だけうめき声を上げると、そのままカルバドスは尻餅をつき、のびてしまった。
「で、お前はどうしてここにいる?」
ひと段落着いたところを見計らって、エンマ様が再びわたしに質問してくる。
事情を一通り説明すると、エンマ様はすぐに納得してくれた。
「次からはわたしの名前を大きな声で呼べ。そうすれば中界へと引き戻してやる」
「分かりました! それじゃあ、すぐに現界へと戻ります!」
敬礼してから、その場を立ち去ろうとするわたしを、エンマ様が呼び止める。
「待て、ミリア」
「はい?」
「彼女をどうするつもりだ?」
エンマ様の視線の先には、のびてしまったカルバドスと、我に返っておろおろとする麻奈ちゃんの姿があった。
「カルバドスを気絶させたのはお前だ。ついでに案内してこい」
「そんな!? 悪いのはカルバドスで、わたしじゃ……」
「彼女は天界行きだな。鷹野信也に負けず劣らず、良い人生を歩んでいる」
わたしの訴えを無視し、エンマ様が判決を下す。
しかたなく、わたしは麻奈ちゃんを連れてエンマ様の部屋を出た。すれ違い際にカルバドスを軽く蹴飛ばして――。