10月25日(7)
辺りを見回しつつ、信也君は足元を確認した。
「地面って、雲じゃないんだね」
「雲の上にあったら、雲がないときには中界がないってことになるでしょ。ただ生きている人には見えないだけ」
せっかくの説明も聞いているのかいないのか、まったく分からなかった。信也君の周囲への興味は、まだつきそうにない。
それを遮るように、わたしは正面の赤い扉を指差した。
「ここがエンマ様が働いている場所だよ。ここで天界行きか地界行きかを判定されるってわけ。それじゃあ、サッサとエンマ様に会って天界へと行きましょうか!」
わたしは足取り軽く、正門の方向へと進んでいった。
だけど、信也君はついて来ていない。振り返りつつ、
「どうしたの、早く行こうよ」
尋ねてみる。信也君は鼻で笑ってから、
「ああ……って言うとでも思ったの?」
冷淡な囁きだった。すぐさま自分の浅はかな策略は、信也君に読まれていたのだと理解する。
「ちぇっ、やっぱりダメか……」
「当たり前だよ」
「地界の説明で恐怖心を煽って、ごまかしたと思ったんだけどなぁ」
ぼやきながら、仕方なくわたしは正門から足の向きを変えた。
「それじゃあこっちに来て。わたし達の仕事場で話をするわ」
「仕事場なんて、僕が入り込んで大丈夫なのか?」
確かにこのまま入れば、信也君が部外者であるのは明らかだった。
「それもそうね。んじゃこれをつけといて」
わたしはポケットから、緑色の腕章を取り出して、信也君へと差し出す。
「これは中界で働く人の身分証明書みたいなものなの。色によってどの部署か区別が付くようになってるわけ」
以前、仕事中に無くしてしまった為に、職場へと戻れなくなった。それ以来わたしは、予備としてポケットに腕章を入れている。
――こんな時に役に立つとは、思いもしなかったけど。
「これをつけておけば……」
「あなたも案内人として働いてると思ってくれるでしょうね。もっとも同じ部署で働いている人に見られたら危ないけど。とりあえず見習いだってごまかすしかないわね」
テラに遭遇という一番最悪なパターンが、ふと頭に浮かぶ。
もしも信也君が本当の見習いなら、わたしよりも先にテラへと連絡が回るはずだ。
つまり、テラに出会った時点で、わたしの罰則は必至となる。
夜勤移動、テラへの肩もみや土下座――絶対に御免こうむる。
信也君が腕章をつけたのを確認してから、わたしは歩みを進めた。
職場へとつながる黒い扉に、問題なくたどり着く。
『関係者以外立ち入り禁止』
今さらながら、その看板に脅えが生まれていた。
いつもこの扉の前に来るたび、関係者以外が入るなんてあり得ない――と、思っていただけに、いっそう強い罪悪感が沸き起こる。
だけど、真の勝負はこれからだ。この中に緑色の腕章を持った人間が、まったくいない状態を願うしかない。
「じゃあ、行くわよ。下手な演技でバレないようにね」
「それはこっちの台詞だよ」
まるで見下しているかのように、あきれ果てた口調でぼやく。
『何よそれ! わたしのせいでばれるって言いたいわけ!?』
心の中で反論しながら、頬を膨らませる。
ゆっくりと扉を開けると、中から喧騒が聞こえてくる。案内人だけでなく、中界で仕事をしている人は多い。
わたしが前へ進もうとすると、信也君は立ち止まったまま、動こうとしなかった。
「どうしたの? ポケーッとつっ立って。なんかあった?」
「いや、忙しそうだなって思って……」
確かに職場では、紫や赤、青色などの腕章が、職場を乱舞している。
だけど、その光景は、大して珍しいわけでもない。
「そうかな? いつもこんな感じだと思うけど……」
信也君が混濁した、深いため息を漏らす。
「さっ、こっちよ」
わたしはそんな信也君を引っ張り、目的地へと急いだ。
その場所とは、優美ちゃんが死ぬビデオを見た部屋だ。あの場所でビデオを見せれば、信也君も納得してくれるだろう。
「おい、ミリア!」
背後から聞きなれた声が響き、わたしの心臓は高らかに鳴り響いた。
振り向くと、そこには仕事を終えて帰ってきたカルバドスの姿があった。
「あ、カ、カルバドスか」
「珍しいな。仕事が終わってるのにまだいるなんて……」
「えっ、あっ、うん、ま、まあね」
一生懸命に頭をフル回転させ、わたしは信也君を背後へと隠そうとした。
だけど、信也君はわたしの心をまったく理解していないのか、動いてくれない。
カルバドスはあっさりと、わたしの行動に違和感を感じ、首をかしげている。
信也君の顔と腕章を交互に見やりながら、わたしに当然の質問を投げかけてきた。
「ん? 誰だこいつ……案内人の腕章をつけてる割には見かけない顔だな」
「あ、この子はね、そのぅ……」
満面の笑顔で、ごまかそうと試みる。
――と、突然何を思ったか、信也君がわたしの前へと足を踏み出していた。
「あ、あのですね。僕は鷹野信也というものです。このたび命を落としたため、こちらで案内人の仕事をすることになりまして。それで仕事をミリアさんに教わってたところなんです」
「なんだ、そうだったのか。そうならそうと早く言えよミリア」
わたしは笑うしかなかった。いきなりのピンチに平然と嘘をつく、信也君という人間に脅威を抱きつつ――。
「おれはミリアの同僚……つまり君とも同僚になるカルバドスってもんだ。まあこれからよろしく頼む」
「こちらこそ、若輩者ですがよろしくお願いいたします」
「おぉ、礼儀正しい子じゃないか。ミリア、しっかり仕事を教えてやれよ?」
言いながら、わたしの肩に手を乗せて、耳元でぼそりと呟く。
「テラには内緒にしといてやるから、焼肉食い放題な?」
そのまま勝ち誇ったように笑いながら、カルバドスは職場から去っていった。
やはりというか、当然というか、長い付き合いのカルバドスを騙せるはずもなかった。
これでわたしは、焼肉食い放題をカルバドスへと奢らなければならない。
それでも、テラに見つかった事態を考えれば安いもの――そう、自分に言い聞かせた。
「ミリア、大丈夫か?」
焼肉の予算を計算していると、信也君が心配そうに声をかけてくる。
全ての元凶のくせに、まったく悪気がないのが口惜しかった。
「なんとかね、相手がカルバドスで助かったけど……とんだ貧乏くじだわ」
わたしは首を左右に振って、考えるのを止めた。もたもたしていると、今度こそテラに発見されかねない。
わたしが歩みを再開すると、信也君も黙ってついてくる。