9.バックヤードの賢人2
瞳を開くと、ピーターが横に来ていた。タイルを踏む音は聞いていたと、今思う。同時に二箇所に存在していたのだと、飛ばした考えも。
「あぁ、聞こえるね」
「ずっとカノンね?」
「あぁ。そうだね」
どきどきと、鼓動を急ぐ心臓。こんなことは初めて。飛び立った空想を邪魔されるなんて、生まれて今まで一度もなかった。
震える右の手を、逆の手で胸にと押さえ込む。体が熱く、ざわついていた。
「なにを……。どうして追いかけているのかしら」
ブナの木から掘り出された椅子を手探りで見つけて座り込み、シェリーはピーターを見上げた。気づけば夕刻はとうに姿を消し、闇の女王の持ち時間となっていた。
目を閉じている間に、行われた毎日の魔法。ピーターは灯りをランプからテーブル中央のキャンドルボックスにと移し、用の済んだそれは足元に丁寧に下ろした。
金属部分がタイルに触れた微かな音は、自分の範囲の現実に起きているものだと、シェリーは思う。
聴こえてくる、美しい音色。これはまるで中世の吟遊詩人の奏でるリュートのうたに近く、一夜出会った夢のようでもあるのだ。そんな音は儚く脆く聞こえるが、残り続ける強さを持っている。
このカノンの音は、大勢の人間に届いている。
メアリーアンが言うようにウォーレン先生の教え子であるのなら、相手は『彼』ということになる。
現実の人間が奏でている音楽であるならば――。
もう震えてはいないことに気づき、シェリーは握り合っていた手をほどいた。開かれた指の間を、夜の空気が流れてゆくのが心地好い。
カノンは低音を走っている。より低く。低きを目指して。
「とてもきれいな曲だけれど、この音を聴いて私はひどく悲しい気持ちになるの。だけど自分の中には、どうしてそうなるのかの説明が見つからない。だからこの感情は、私に弾いている人間から伝えられているものだと思う」
ゆらゆらと揺れる火の像が目の中に残り、見えているものとの区別が難しくなっている。空気の中に溶けていく炎の端。
生まれ出た音たちも、次々と同じ空気に解き放たれて、満ちてゆくのか、飛散するのか。
「この世にはね。いろいろなことがあるものだ」
「そうよね。そういうものだって、知っているわ」
自分の中にと溶けてきたたくさんの感情は、混ざり合い、今の自分になっている。
役に立てるだろうか? この自分は。求めているものを、理解してあげられる?
言葉は通じるだろうか? 隠している言葉を、見つけ出せるのか?
今まで、人と向かい合う時に、ためらいを覚えたことなどなかった。そのような隙もなく、常にぶつかる方が先であったからだ。
いつものように、迷うより前にぶつかってしまっていれば良かった。
そういうカタチで、彼と接することができていたなら、どんな未来にたどりついていたのだろう。
それを今覗くことができたなら。正しい解答をねだる気持ちだ。しかし、誰に?
そう思うと、仮定そのものがばかばかしくなる。得られるはずもないものを、どこまでも追いかけて何になる? 目の前の現実に頷き、地に足を着けた考え方で進めなくては。
たったと言われるほど短いけれど、十五の年まで生きてきて、シェリーは『どうにもならないものがあること』を知っていた。
生まれ育った国を脱け出してロンドンの街にやって来た理由など、その最たるものだ。
そのように、きちんと経験は積んでいる。それは思い知らされるという言葉を使った方が良いくらい、襲いかかる嵐のような出来事だった。
そう、まるで嵐だ。神々の怒りの結果起こされる災難に、人など立ち向かえるはずもない。
だから、『どうにもならない』と言い、けれど潰されて足掻くのでは決してなく、その存在を認めた上で、復興を心に誓い、人にはできることがあるはずだ。
世界は閉じられたと、闇を感じたあの時を思い、今ここに立ち、あたたかな光を浴びている自分を見る。
シェリルは、静かに顔を上げた。できることは、在るはずだ。
「ピーター」
「なんだね」
「物事に向かっていくときに、自分の手に負えないかもしれないと思うことって、ある?」
突然の質問に、驚いた様子は見せなかった。パイプから昇る煙も異変を見せないまま、それまでと変わらず空気の内へと向かっていく。
「経験で補ってゆくのだよ。なにもかもすべてをだ。人はそのために生きてゆくんだろうね」
「私は正しいかしら」
「おや、シェリー。もう決めているのだろう?」
「ピーターの支援があるなら、安心できるわ。本当のところ、私、少し自信が足りないの」
街灯にも火が点され、ピーターの顔にはレンガの影がかかってしまっていた。けれど微笑んだ顔を、確かに見たと思っている。
両手を組んで胸の前に。知らず知らずに力がこもる。
上っていくカノンの旋律。より高く。高みを目指して。
街がすっかり闇へと落ちるのを待ち、今夜もこの家を抜け出そう。




