7.お兄様方とお茶の会4
「こんな気持ちになるのはおかしいわ。リースも聴いたらわかる、あの音はね、――おかしいのよ……。なにかが押さえられて詰まっている。ただの『カノン』なんかじゃないわ」
「ただの、じゃないって、どういうことなの?」
「きれいなのに」
自分の呼吸する音すらも、意識してしまえるほどに、静かなテーブルとなってしまった。
シェリーはうつむき、視線はカップの縁に落ちている。赤に近い茶の色の液体に、輪郭が揺れているのを見る。
「うまく言えない……」
小さくつぶやく声は、悔しそうにも聞こえた。探すのに言葉は見つからない。上手に説明ができなくて、もどかしい想いなのだろう。
シェリーが物思いに耽り、半ば瞳を閉じているその姿を、私は描き止めたいほどだと思って見ていた。このモデルならば、気難し屋で名高い画家先生、かのハリス大老も快諾くださるのではないだろうか。
そう考えた矢先、私の耳はテーブルを叩きつける音を聞いた。
そして目はシェリーの拳が振るわれるのを、見ていたのだった。残念ながら。
「もう確かめに行くしかない」
この衝撃で、カップたちは震え音を立てていた。私の心も同じような有様だ。瞬間の夢は無残に弾き飛ばされ、現実は良くない方角へと向かっている。
「シェリー、でも、そんなことを言っても、確かめるなんて」
「危ないことはしないわ、もちろんよ。そんな顔で見ないで」
その言葉を、そのまま信じられたならいいのだけれど。
もちろん、危ないことはしない。この言葉を聞くのは初めてではなかった、私は。
今までにも何度だってシェリーはそうはっきりと言い切って、直後しでかしてくれたことを、私たちは忘れたくても忘れられないでいるのだ。
ヴァイオリンの弾き手を確かめること。それだけ。
危険なことはなさそうな、音楽という優雅なものが相手となっている事柄だけれど、すでに屋根の上をさまよい歩くという危険は冒されている今回の一件。
危険の中へととび込んで行き、ないなら自ら作ってしまう、シェリーはまさしく何をするかわからない。
私は当然、不安になった。シェリーには、『ただの毎日』はないのだろうか? ただ過ぎてゆく日常は。
「あのね、リース」
諭すような言い方をする。私は警戒を固めた。絆されてはいけない事情がある。
「クリストファーやジェラルドはフレディの友達だし、メアリーアンは恋人なんだから、立場上フレディ的に私を見ているのは仕方ないんだけど、どうしてあなたまで一緒に私をそう扱うの? 味方は少ないんだから、あなたは私の方にいてくれなきゃ。リース、私たち親友でしょ?」
「出かける前にフレディと約束したの。私もシェリーのことには気をつけているからって」
「フレディったら、何人に手配したら気がすむのかしら」
「一人じゃシェリーを押さえられないからだわ」
「むむう」
どうしても聞かないようなら、一人で行かせなさい。
あきらめて手を放してしまえと、シェリーには勝手に暴れさせればいいと、そう言ったフレディは、私がそんなことはできないと即座にアドバイスを否定したことを、その場で確実に読んでいた。だからわざわざ付け足したのだ。
『君だけでも無事でいれば、僕は救われるよ』
妹のシェリーと同じほどに私を思っていてくれるんだって、その気持ちはとても嬉しかった。あまりに印象的だったために、切なそうな顔が思い出せてしまう。
あの人の言うことは、きかなくてはならないと思う。けれど、苦しいジレンマだ。それでも、一人でなんて行かせられないと思うから。
側にいたら、何か助けになれるかもしれない、私でも。シェリーが困って周りを見回したときに、私を是非とも見つけて欲しい。
すべてはこのことが、日常の範囲にあれば済むことなのだけれど。何も危険ではないのなら、なにも問題ではないのだから。
「その、カノンの人って、どんな人だったの?」
「どんな」
「覗いて見たんでしょ? 顔とか、姿とか、雰囲気とか。見えなかったと言っても、なにか感じたものはあるんでしょ? シェリーなら」
シェリーの細い指が絡めるようにカップを持ち上げるのを、見る。背景に、はらはらと散る花びらは、ヴェルベットの白い色。
「なんとなく、遠くにいるみたいな人。そう思ったの」
カップが顔を隠してしまったので、表情がうかがえない。所在なく、私もカップに手を伸ばす。聞いた言葉を頭の中に並べながら。
遠くにいるみたいな人。その言葉はとても曖昧で、いろいろな方向にいろいろに想像するばかりで、嵌る絵が浮かんでこない。
ヴァイオリンを弾く人。その人が弾くのは常に一曲だけ。
『カノン』……。
遠くから聴こえる音楽だ。
この曲をヴァイオリンの音で私は聴いたことがない。
ピアノで聴かせてくれたのは、フレディだ。私もいつかは彼のように、自分の指から生まれさせたいと思っていた、美しく心地よい曲。
聞いて悪い印象なんて受けるはずはないのだけれど、どうしても私はシェリーが心配だった。
物事に向かってゆくシェリーは生き生きしている。
向かっていく先に障害があるのではないか、などという仮想に恐れは抱かない。そして実際にぶつかった時となっても、やはり恐れはしないのだ。
あわてて騒ぎ無駄に動くシェリーなど、見たことがない。ものを考えるスピードが、私たちとは比べものにもならないほどに速いのではないだろうか。それが最近になって、私が思いついた一つの解決。少なくとも、私にはその跳躍力はまるでない。
風が急に強くなり、載っていたものが食べられてしまったために押さえを失った紙ナプキンが、お皿から離されて飛んで行った。緑の芝の上をふわふわと飛び、すぐに蝶ほどの小ささに遠くなる。
日はまだ高いところにあるけれど、夜は真っ直ぐに近づいて来ることを、私たちは知っていた。
シェリーは、ゆったりと椅子に座って空を見ている。その時の訪れまでの緩やかな時間を、まどろみ待とうとでも言うように。
魅入られる。
そんな言葉を思い浮かべた。




