ローズロザリンドローザ
ピンクのドレスには見覚えがあったのだ。ぼくは自分で見ていたくせに、今までは思い出さずにいた。画家は素晴らしい仕事をしている。その色だ。
目の前で今彼女はたのドレスを身にまとっているのだ。あの頃、あの絵で見ていた、あのドレスを。
――あなたのドレスだ。
ぼくと出会う、ずっと以前の。
なにかが頭の中で動き出し、ぼくはすべてを思い出した。衝撃などではなく、ゆったりとした大河の流れのように、確実に進んで行く水のように。
パラソルは白だ。髪は薄いブラウン。光を浴びると、金の色に見える。大きなつばの帽子。ぼくに向かって、手を振っている。階段の下。風と同じ波動で、椅子は揺れる。
すべて。
夢が現実に滑り込む。この空間は、そのために造られているから。
ぼくは目を閉じ、それから開いた。見えるのは、絵の中のあなたよりもまだ幼い、あなたの娘。
薔薇のフォークを口へと運びかけて、ぼくの視線に気づいて手を止める。そして、……微笑むのだ。そう。そうして。
「一番下の階段からのぼってきたの? 長かったでしょう」
「一番下?」
「客間の壁よね。階段の数、数えたことあるの。三階まで普通に上がって、そこから入る方がずっと楽よ。次からはそうしていらしてね」
「招待もされないのに、押しかけてしまって、悪かったね」
「いいの。あなたは扉を見つけたんだもの。お客様だわ、お母様の」
お母様。
「きみはここで、いつもこんな風にお茶を飲むの?」
「お母様の気持ちになっているのよ」
彼女は立ち上がり、テーブルを離れると、くるりと回った。華やかな、そして優美なドレス。平面で見ていたものが立体となる。絵が、現実へと。
「これはお母様のドレス。お父様とご婚約なさった頃のお母様よ。きっと、素晴らしい日々だったわ。六月の花園。結婚式を夢に描いて。まるで雲の上を歩くような気持ち」
美しい季節。花の頃だ。ぼくのこのイメージは、すべてあの絵に由来している。座るあなたの肖像は、花園の中に溶けるようだった。どんな花よりも美しく、優しく。
「さっき驚いたのはね、あなたをお父様だと思ったからなの」
「ぼくを叔父上だと?」
「びっくりしたわ。たぶん、もう少し背が高くて、髪ももうちょっと明るい色だったと思うんだけど。だけど」
「似ているのかな」
「私の想像するお母様が間違えたんだもの」
似ているんだわ、きっと。
そう決めつけてぼくを見つめる。ぼくたちはお互いに、――同じように幻を見ているのだ。
きみももう少し背が伸びたら。髪を結い上げたなら、もっと。
「きみも叔母上に良く似ているね」
「お母様を知っているの? クリス」
「何度かは会ったことがある。避暑に行ったんだ。そう、」
夏の短い間、すれ違うようにあの屋敷で過ごした。子供には相応しくないという当時では理解できなかった理由で、あっという間に連れ戻されたけれど。
なんて偏見だろう。しかもなんて矛盾だ。振り返って初めて言えることなのかもしれないが、ぼくに相応しくなかったのは、誰よりもあの人だったのに。
「叔母上は、体が丈夫な方じゃなかった」
「えぇ。生まれつき細い命だったのね」
椅子に戻った彼女と、ぼくは静かにお茶を飲んだ。不思議なほど冷静に、やわらかに包まれている悲しみがあった。
まるで美しい詩のように。あなたの死は、あなたが望む形で。
「あなたの記憶の中で、お母様は幸せそう? お父様と一緒にいる?」
「いつもパラソルを持っていたよ。強い日差しは体に悪いから」
「そう、そうなの。だからいつも、お父様が」
「そうだね。叔父上が」
ロザリンド。それがあなたの名だ。
ぼくの記憶の中で、あなたは微笑んでいる。叔父上は常に傍らに。パラソルを差しかけ、詩をよんで。
「屋敷を移った時に、お母様のものはすべてここに運び込まれてしまったの。気にするといけないでしょう。だから、……目に入らないところにって」
運び込む? まさか。妻の感情ではなく、自分の感情であったはずだ。
ぼくはすべてを覚えている。壁にかけられた、あの絵のことだけではなく、あなたたちの幸せな微笑みを。この部屋がどこから現れて、ここに在るのか。
望んだのは塔の上。あの部屋の住人となることだった。魔女や妖精の住む、空の中の窓。だからこうしてこんなに上まで引き上げて。
新しい妻を迎えてもなお、手放せないものが彼にはあったのだ。その美しいものを、自分の側に止めておくために、この部屋を彼は造った。
『のぼってみてね、クリストファー』
「土地に行ったことはない?」
「えぇ、ないわ。すてきなところ?」
「そうだな。記憶の一部では、確かに」
きみもいつかは知るのだろう。この部屋の意味を。あの屋敷に行ってみればわかる。二階の南端の部屋の扉を開くといい。
窓からはオークの巨木が葉ずれを聞かせ、日だまりの中に座りごこちの良い揺りいすが置かれる。
この部屋と同じ世界。なにもかもがひとりの人を指している。ベッド、ワードローブ、カーテン、壁紙、ランプのひとつに至るまでが。
決してほこりの積もらない隠された部屋。いつでもスムーズに動く、あの扉。
塔への階段をのぼりながら、思いを馳せるのだ。長い階段の『どこからか』、時間をも超えて、そして、……あなたに会う。
あなたの夫だ。ロザリンド。
「こうしてお母様を順番に辿っているの。どんな気持ちでいるのか考えていると、答えが返ってくるような気がする」
「答え?」
「幸せな気がするの、私」
そして、あなたの娘。
名前は。メアリーアン。
幸せに生きること。幸せに気づくこと。
あなたの夏を、ぼくは生涯忘れない。幾度も思い返し、そこにゆったりと浸ることだろう。あたたかな記憶は心からあふれるほどに。
あなたの口から語られる物語が、ぼくの唯一の子供時代だった。清かな月明かりがこぼれ、幻が大きな顔で草原を横切る。走り去る雲の影、漂う艶やかな花の香り。
『幸せに届くのよ、クリストファー。手は思い切り伸ばすの。忘れないで』
ただ一度、二度とない日々をそうして過ごす。夏の生命。輝く一瞬。
幸せな娘は、確かにロザリンドを身につけていた。
光に眩しそうに目を細めて、おいしそうに冷めた紅茶を口にする。ひとつひとつが大切な儀式の手順のひとつのように、ドレスの裾の揺れ方ですら。
憶えているよ。すべてを憶えている。きみのお母様も同じように、時間をあたためていたよ。
ぼくが浸るのは心地よい陶酔。懐かしい時間が自分にあることすら忘れていた。今まで。
ここで。この場所で。きみに出会うまで。
ずっと、一枚のガラスを間に挟んで歩きながら、それに気がつかないでいたんだ。
今。ガラスは消え失せた。




