伯爵誕生
曲がるはずのなかった角で曲がってしまったのだろうか。それとも思いがけない障害かも知れない。
それでも、歩き続ける。立ち止まることなど考えもしない。
どこかでぼくの道へと続いている、いま。それはひとつ角を曲がればいいだけかも知れないし、永遠の果てかも知れない。
だけどそれは確かにつながっていて、ぼくの一歩を待っているのだ。
どんな運命の巡り合わせかは知ったことではないが、『いつか』がこんなに近くに存在していたとは、なんとも迷惑な話だとは思う。
覚悟の程度が甘かったのだ。予定よりはずっと早い。父の跡を継ぎ、広大な領地と莫大なる財産。高貴なる身の上、および伴う義務のすべてを手の中に。
そんなものを正気で理解できるなどと、とんだ信頼を得たものだ。ぼくも。
この手にはまだ重すぎる。生涯、この言葉を繰り返し続ける気すらするほど。
まぁ、若すぎる王には摂政がつくのが当然。父の弟。つまり叔父がそれに任命される。厄介な空気の親族会議は、期待していたどんでん返しは気配すらなく、あるべきものがただあるべきところに収まっただけで幕を閉じた。
すべては初めから決まっていたのだ。ぼくの手の届かないところで。
「さすがに疲れるな。こういう席はどうも肩が凝っていけない。君はどうだい、クリストファー」
「お帰りになってくれてほっとしましたよ。ぼくは慣れていないんです。顔もろくに知りませんしね」
「これからはある程度は覚えてくれたまえよ。私もフォローはするがね」
叔父は、もう何年も前から不肖の兄を助けて、この一族を完璧なまでに纏め上げていた。助けてと言うよりも、代わってと言った方が正しい。
ぼくの父は伯爵とは名ばかりの人間だった。その身分に許されることにしか関与せずに生涯を終えた、最低の男であった。
叔父の力がなければ、彼はすべてを食い潰してしまったかも知れない。あの人の人生は守ると言う言葉とは無縁だったので、義務とか誇りとか、そんなものは見えなかったのだろう。
ぼくのような子供ですら気づく――実際、極めて幼い頃に――厳然と存在するその条件に、あの人は背中を向け続け、決して振り返ろうとはしなかった。
そんな兄の性質をどこまでも許容し、手を差し延べる。いったいどんな気持ちで、続けて行ける行為だろう。まるで逆の方向へと背を向けて。
彼が死んだ、その後ですら。
「もう親戚はたくさんだろうが、私の娘にも会ってもらおうかな。休暇で戻ってきているんだ。年が近いから仲良くなれるだろう。メドロック、メアリーを呼んでくれないか」
「それがだんな様」
「なんだ?」
どことはなしに教師然とした婦人が進み出てきて、小声で何かを訴えた。
叔父は肯いて聞くうちに、だんだんと何か大きな失敗をした時のような表情になっていく。そして口元を厳しく引きしめ、いかにも忌々しそうにメドロックを睨みつけると、席を立った。
「すぐに戻る。ここで待っていてくれ」
彼はそう言って扉へと向かいながら、奇妙な笑いを浮かべた。楽しそうに? まさか。状況的にそぐわない。何が起きたのかは知らないが、脈絡がなさすぎる。
話題になっていたのは、娘だった。
年が近いから仲良くなれるだろうだなんて、そんな言葉を聞くには、ぼくは少し大人になり過ぎている。
それに年齢は理由にならない。年が近くて仲良くなれるなら、スクール中が大親友だ。
正直なところ、叔父上の推測どおり、これ以上親戚はたくさんだった。血などにどんな意味がある? ぼくにはそこにある価値が理解できないのだ。
あの人に似ているのかも知れない。ぼくは、そうなりたくないと強く反発しているにも関わらず、こういう部分について言うのなら。
座っているとその考えに飲み込まれそうで、ぼくは立ち上がった。
目覚めた瞬間から、必ず誰かが側にいた一日だった。気が遠くなるほど遠い朝から、ぼくはひとりになることを望んでいたけれど、それほど良いものでもないらしい。
出番を待っていたおもしろくない思考。できれば目を背けていたいねぼくについてのくだらない現実だ。
何か理由をつけ、明日は一刻も早くこの家を出よう。叔父上は信頼できる人間であるというだけで、決して心安く過ごせる相手ではない。
そう、課題が間に合わないとか、学業を盾にした良い理由があるはずだ。
スクールに戻れば、楽にしまい込んで忘れてしまえるかも知れない。避けられない日が来ることなど、思い知ってはいるけれど、今のぼくにとってはその逃げ道は何にも増して必要に思える。
礼拝堂の鐘の音。転がる芝生の匂い。真冬のボート。あの騒々しさを懐かしく感じるとは、ぼくは相当参っているらしい。
慣れればどこでも城になるものだな。この屋敷も、通い続ければ馴染めるだろうか。
グリーンの重いカーテンに、壁はどこまでも白。お待たせされている間に、充分なほどの目の保養もできる、調度品の数々。
世話になっている身でこんな意見は失礼というものだろうが言わせて頂くと、すげー趣味。そんな狭い屋敷でもないだろうに。
半分ほどどこかの空き部屋にでもしまいこませた方がいいんじゃないだろうか。少なくとも、使用人は喜びそうだ。掃除に割く時間が減らせる。
修復中でスペースが半分になってしまっているが、展示品に行き場がない美術館に来ている気分で、なんとか展示に興味を持とうとしていたぼくは、壁のその部分に気づいて立ち止まった。
青磁の壷と大理石の花台の間のその部分。かすかだけれど、歪んでいるに見える。触ってみると、細く隙間が開いていた。顔を近づけて覗いて見たけれど、暗くて何も見えない。
まだ新しい屋敷のはずなのに、こんなことが起こるだろうか。確か、現在の奥方の希望に応えるべく建てられた家のはずだ。まだせいぜい、六、七年。
ここからはるかに遠い、父のあの城なら、当然のことなのだけど。
父の。
そこでぼくはひとりでにやりと笑った。なにをばかなことを。今となっては、ぼくの城だ。ぼくの領地。冬にはまさに地獄に閉ざされるあの城を一つ、ぼくは今日手に入れたのだ。
ばかばかしくて、笑うしかない。あんなもの、誰にでもくれてやる。
思考からの伝導で力が入ったぼくの右手に応えて、壁の中でなにかが動き出した。
ふいに目の前に現れる、開かれた扉。
通路。それとも、抜け道? オトナ一人がやっと通れるほどの幅で、暗がりへと続いている急な階段。
とにかく、上ってみよう。道は上へと続いているのだから。




