危険は起こるべくして起こる
ウォーキングツアーは日が暮れてからも続いていた。
たくさんの人の顔を短時間に頭に押し込むのは、なかなかご苦労なことだ。誰よりも正確にシェリルの能力を把握しているはずのフレディがそれを続けているところをみると、できるはずのことではあるらしい。
一応は努力などをするものの、すでにシェリルは似たような町並みにだけでも翻弄されていた。なんて細かく区切られた街。クレタ島もびっくりだ。
今日わかったことと言えば、お兄ちゃんの顔がとても広いということ。
相変わらず、年上の人間に男女を問わず人気が高いらしい。礼儀に適った行動を取れるというのは、一流の処世術なのだろう。どこの国においても。
そんなことを思い、口元をほころばせていたシェリルは、自分から離れたところでフレディの声がすることに驚いて振り向いた。
たった今までいつものように、横に立っていたはずなのに。いつものように。いつの間に?
彼が話している相手は、彼よりもまだ背が高かった。背だけではなく、全体的に一回り大きい。フレディにはない逞しさがある人だ。
「お、こちらが妹さんかね」
「シェリルだ。シェリー、こちらが」
「レスリー・コクラン。頼りにしていい相棒だよ」
「いつも兄がお世話になっています」
「そんなことより」
まだ続くはずだった挨拶は、そんなこととして片付けられ、フレディは多少慌て気味にふたりの間に割り込んだ。
お兄ちゃんの、聞かせるわけにはいかない話を、どうやらコクラン氏は握っているらしいことが、これではっきりしてしまった。
いずれ隙を見て聞き出そう。シェリルはもちろん、決意を固める。
「何かあったのか? レスリー」
「あぁ、まぁ、面倒なことになっている。いいタイミングの休暇だよ、君は」
おぉ。
フレディは瞬く間に後悔の表情を浮かべ、シェリルの顔に目を向けた。本当に事件が起きていようとは思わなかったのだ。
彼女はフレディの視線などには気付こうはずもなく、熱心極まりない顔でレスリーの言葉を待っている。こんな時ばかり、そんな顔を。
しかし。
「この先の公爵の館だ。事情は追って調査中なんだが、どうやら何者かが、王子と他二名を人質にして立てこもっているらしい」
その話が与えた衝撃は、フレディの方に非常に大きかった。顔色を変えて、彼は相棒に詰め寄る。
「公爵。ベニントン公爵か?」
「レセプションが開かれていたんだ。聞いたことのないよーな国の王子がロンドン入りしてて、その歓迎がどーたらの――、おい、聞いてるか? おーい!」
どこまでを聞いていたのかはわからないが、必要な情報は手に入れたらしい。走り出した彼を、ぼんやりと見送っている場合ではない。シェリルとレスリーは、同じタイミングで走り出した。
歩くつもりで慣れた靴を履いてきて良かった。新生活のために用意したあの素敵な黒い靴だったりしたら、この速さでは走れない。
フレディの背中を本気で追いかけて、彼らが着いたのはいくつもの馬車の並ぶ、館の裏側だった。
何かを探して視線を走らせていたフレディは、目指すものを見つけたらしく、一台の馬車に向かって声を張り上げた。
「メレディス!」
「フィデリティ様ですか? そのお声は」
「頼みがあるんだ、メレディス。シェリー」
「はい」
その強い調子に負けて、シェリルは文句も言わずに彼の伸ばした手に進み出る。
何がなんだかわからないけれど、忘れられていたわけじゃなかったということらしい。自分が走り出せば、確実についてくると、そんな絶大な信頼があったとの表現が正しいところなのだろうか、これは。
馬車の中から姿を現した人物は、シェリルも一度ならずお近付きの機会のあった、ローダーディル家の執事だった。執事――なのかどうかは、このフットワークの軽さを思うと、役職は違うものなのかもしれないのだが。
ここにこの人が待機しているとなると、館の中には、お仕えしている伯爵様がいらっしゃる。あの伯爵様が、ここに。
ご自分で語っていたように、彼の行くところに事件あり、なのか。
動かぬ証拠を目の前に突きつけられたシェリルは、館の壮大なファザードを見上げる。公爵殿には同情を差し上げるべきだ。客人はその資質をも考慮に入れて、慎重に選ばなくてはなるまい。
フレディはそんなシェリルの腕を取り、メレディスに押し付けながら、緊迫した早口でこう言った。
「僕の妹だ。家まで送り届けてくれないか」
「フレディ、私はでも」
「クリスには僕から説明をする。頼めるかな」
「わかりました。お預かりしましょう」
「フレディ?」
「大丈夫だ。先に戻っていなさい」
妹の頭を軽くなでて、彼はそう命令を下した。そこに含まれた複数の感情を、正しく受け止めた上で、その判断を取ったのだ。
安心できる人物に妹を託して、フレディは彼女に背を向ける。内ポケットから取り出し、手に握ったそれは、……ちょっと、お兄ちゃん。
館へ向かって歩き出した彼に、レスリーが並んだ。
「それでおまえは? どこへ行くんだ?」
「中に入る」
「なんだよ、それは。まだ指示は出ていないんだ。なんの命令もない。これは高度に政治的な問題なんだって、フレディ、聞いてんのか? さっきから人の話を、いったいなんだと思ってんだよ」
「僕は休暇中だよ。レスリー」
銃には弾が装填されている。フレディに本気でそう言われ、レスリーは空を仰ぎ、唸る様な声を出した。
「メアリーアンか……」
メアリーアン?
「わぁっかったっ。一緒に行くぞ」
「いいよ。命令違反になるぞ、レスリー」
「オレのサポートをおまえが断れる立場か? 行くぞ、フレディ」
怖いものなど何もないように、ふたりは館の方向、その建物の影に姿を消した。
シェリルは湧いてくる様々な感情を頭の中で整理しようと努力していたが、勝利をおさめたものはなによりも。
「シェリー様、参りましょう」
「だめ」
「シェリー様?」
「だめよ、メレディス。私、行けない」
「そう仰られましても。フィデリティ様とのお約束ですから」
柔らかな笑顔だけれど、メレディスが目的のためには手段を選ばない人間であることを、シェリルはすでに承知していた。それだからこそ、フレディは彼に自分を託したのだ。
だけど。切り崩すところがひとつだけ残されている。真なる目的の為なら、シェリルの頭はものすごい速さで回転する。
有能な執事、メレディスにとっての最優先は、当然。
「だって、このまま帰れるわけないじゃない。いったいなにが起きているのか、あなただって気になっているでしょ? クリスだって中にいるのよ。どうなっちゃってるかわかんないのよ」
反応は顔には出さない。そんなことはわかっていたけれど、自分の台詞がどう受け止められたのか、やっぱり不安だった。
策略などとは関係のない言葉が、最後に口から出てくる。考える様な手順を踏まずに、それは心から真っ直ぐに。
「メレディス、お願い。フレディが心配なの。あの人、私のお兄ちゃんなんだから」
しばし佇んだ後、彼は馬車の扉を閉じた。方向を百八十度転換する。栄華を極めるその館に、向かい合うために。
「わかりました。シェリー様」
「メレディス、ほんとに?」
「私もご一緒に参りましょう。こちらですよ」




