そこは危険な町らしい
結局、出かけたのは午後になってからだった。
観光案内の約束が果たされるまでに、二週間経過。
この街に出てきさえすれば、『お兄ちゃん』とべったりくっついていられると思っていたシェリルにとって、このフレディの忙しさは、桁がずれるほどの計算違いだったけれど、同時に彼が自分の居場所をしっかりと持っていたことを嬉しいと感じてもいたのだ。この都会で。
本日の休暇もかなり無理して手に入れたものらしい。
せめて一日のスタートはゆっくりにしてあげましょう、と言うおばさまの言葉に素直に従って、彼が自然に目覚めるのを待った結果が、この昼下がりの散策なのである。
観光という言葉を使ったけれど、実際はそれとは内容が少々異なる。これから暮らしてゆく街の、名所旧跡を案内しても仕方がない。
それらは追々見えてくるものと期待して、彼が妹に叩き込みたいのは、『決して危険に遭遇しない効率の良い暮らし方』であった。
ひとりで歩いていいエリア、曲がってはならない小道。助けを求めることのできる家や相手。そしてその時に言うべきこと、言うべきではないこと。
「そんなに危険な街なの? フレディ。そんなこと、手紙にはなにも書いてなかったじゃない」
「書いたら喜ぶだろうと思って」
「喜んじゃいけないの?」
「ここに来たくなるから。それが、僕には嫌だったんだ」
「どっちにしても来ちゃったけど」
「……対岸の火事の方が良かったかな」
わかるようでわからないその一言を小さくつぶやくと、フレディは妹の肩を抱き寄せた。この季節にしてはめずらしく太陽の光が射す公園を抜けて、再び馬車の行き交う大通りへと。鳥の声と水の音が遠ざかり、人々がうつむいて先を急ぐ道へ。
「フレディのいるところなら、私はどんなところだと思わされていても行くの。ほんとは知っていたでしょ、そんなこと」
国を離れて二年の間、シェリルへの手紙は、義務としては一月に一通だったが、実際のフレディのペースは三週間に一通。自身の仕事内容にはほとんど触れずに、その報告をよく乗り切ったものだと思う。
シェリルを相手にする時には、必ず義務以上の仕事ぶりを見せるのは、極めて幼い頃からの彼の習慣であった。
それに、実のところ仕事ではなく、そこにはただ愛情だけがある。ほぼ盲目に近いような、言うなれば溺愛に近い感情のみが。
その感情が、見事にまっすぐに過保護へと向かっている。なまじ彼がほとんどすべての面において、完璧であるから始末におえないと言えよう。
反動が、感情面に現れているのだとすれば、その欠点の大きさくらい、許して差し上げてもいいのではないだろうか。
そして愛情というものは、対象が増えたところで分割されるものではない。少なくともフレディの場合。
それはどこからともなく現れるのか、あるいは泉のように湧いて出るのかはともかく、総量として増加しているのが明白たる事実なのであった。
つまり、妹だけではなく、このロンドンで彼は、――今この瞬間、視界にしっかりと入ってしまった『彼女』を……、――今?
……眩暈がしそうだ。
「絶対にここを離れないで待っていなさい。いいね。この絶対は、絶対だ」
返事をする間も与えないで、フレディはシェリルを中途半端な路上に残して行ってしまった。歩いている人達のためにも、ここ、の範囲を広げるべきだと思い、シェリルは三歩、前へ進む。
そして、頭に閃いたのは、例によってろくでもない考えだが、彼女にとっては至極当然に導かれた言い訳ではなく意見。
私は返事をしなかったのだから、守らなくてもいいはずだ。他の誰でもないフレディが、私に言ったことがある。納得のいかない命令であるのなら、意見を述べるべきなのだと。
意見を述べる時間を与えなかったのは、フレディの過失だと判断していいところじゃないかしら。これは。
もし見つかったら、そう意見することにしよう。言い訳ではなく。そう決めたシェリルは、彼の後を追うことにした。
静かに静かに。
なにかが起こってるのだとすれば、シェリルはそれを見ずにはいられない。好奇心、猫を殺す。なんて忠告でなんとかなるものならば、こんな性格は形成されていないのだ。
持って生まれたものだから仕方がないと言えば、あきらめがつくかもしれない。ため息のうちのいくつかくらいは。
どこまでも猫を見習い、足音を立てず、彼女は常にフレディの死角をついていった。絶対の効力を信じてでもいるのか、彼は振り返ろうとはしない。
大通りから外れて細い道へ入る。三軒目のドアの前に、人だかりができていた。異常があったことは、一目でわかる。煤にまみれた煉瓦の壁。
足は止めないままにしても、シェリルは少し考えた。
フレディは、職業意識に動かされているのかもしれない。だとすれば、絶対は確かに絶対になる。本気で怒ると、お兄ちゃんは怖いのだ。それはそれは。
到着した日、そして続く二日目に、すでにそのような騒ぎを起こしていた彼女が、先程の意見も忘れ去り、弱気になって引き返そうとしたところで、フレディが一人の女性の腕に手をかけた。
職業、とはもしかしたら関係がないかも。
その通りであることは、すぐに証明される。シェリルは夢中で建物を見上げているご婦人の横にぴたりと張り付き、ふたりの会話までも聞き取れる位置に移動した。
ご婦人が面積の豊富な方で助かった。願わくば、もう少し、昨夜の出来事に熱中して下さいますように。
右足に重心を移動させて乗り出すと、フレディだけではなく、お相手の顔も見ることができた。あの人は。
「フレディ。あなた、どうしてここにいるの?」
「それは僕が言おうとしていた言葉だよ。なにをやってるんだ、君は」
「ここ、昨日の夜、放火されたんですって。二階の角、ほら」
フレディの怒った声などにはまったくひるまず、二階の窓なんかを指差しているのは、昼食時、食卓を飾ったバラを授けて下さったお姉さまだった。
いろいろなことが頭の中でごちゃごちゃしている。これは混乱と表現される場合だと思われる。とりあえず断言できるのは、フレディとこの人が知り合いなのだということくらい。
だけど、真剣に怒った様子を前にして、こんな調子でいられるというところからすると、かなり親しい感じがする。
そもそも、フレディが真剣に怒ろうとしているという点だけでも、その結論は出てくるものではあるのだけれど。
「どうして君が。社交欄担当になったんじゃなかったのか? 今日はレセプションだって聞いたと思うけれど」
「通りかかっただけなの。人が集まっていると気になるじゃない、やっぱり」
「ほほう」
「信じてない」
「信じてるよ。君がまっすぐに家に戻って、夜のための仕度をしてくれることをね」
「そうだわ。それで私、急いでいるところだったわ。大変。ジェラルド様を待たせたら、またどんなことを言われるか」
熱中度の非常にお高くていらっしゃるご婦人の横から、お姉さまは飛び出した。会話の終了を予期したシェリルは的確に移動しながらも、その最後の部分を聞き逃しはしない。
「またね、フレディ。行って参ります」
「気をつけて。転ばないように」
それは、何度も聞いたことのある言葉だ。走り出す時には必ず。側にいなくなってからも、自然に頭に浮かぶほどに。
いつも自分が走り出した後に、フレディがどんな表情を浮かべているのか、シェリルは初めて見ることができて、――
反省もするけど、とにかく今は全速力で走ろう。
じゃないと、もっと深く反省しなくてはならない羽目に陥ってしまう状況なのだから。




