シェリーちゃんと新しい町
シェリル・フィデリティ嬢が国を離れて二週間め。その夜は何かがいつもとは違っていた。この二週間で少しずつ形成されてきた日常の規格、それから外れた何かが、確かに存在していたのだ。
珍しいことだと認識してしまった、フレディが夕食の席に一緒に着いている、ということが原因なのかもしれない。
犯罪を抑えるために走り回る職業についている兄上は、多忙な日々に生きており、暇だらけなおばと妹と共に、こんなに穏やかな夜を過ごすことは難しいことらしいのだ。
季節もあるけれど、とは彼の言葉。それがどういった統計学的根拠からくるものなのか、シェリルはまったく理解していない。(おそらくは兄上も)
やがて、食後のお茶の香りを楽しみながら、おば上・ヘンドリックス夫人がこんな話を切り出した。自然なように意識されながらも、唐突に近いタイミングで。
「明日の午後にはくるみのケーキを焼くわね」
「くるみ? 私、大好き」
「評判いいのよ。きっとシェリーも気に入るわ」
も。
「私、手伝うわね。メグおばさま」
「でも、あなたたちは明日は出かけるのでしょう? また次にお願いするわ」
夫人はシェリルに優しく微笑みかけ、くるりと首を回すと、取りようによってはキツイと表現されないこともない目をフレディに向けて、それがこの世で一番大切なことであるように、しっかりと念を押した。
「いいわね、フレディ。明日、焼きますからね」
フレディは視線をカップの中の液体に落として、答えを返す。
「わかりました。おばさま」
ほぼ脅しに近い夫人の言葉に、彼は決死の覚悟で、確実に苦手な何かに近付いていこうとしている、らしい。
二人の間に席を置きながらも、くるみくるみと嬉しそうに唱えるだけでまったく空気から浮いているシェリルが、なんだかとても、……かわいらしく思える夜だった。
その、『明日』。
ご近所の様子に慣れるために、最近では夫人のこまごまとしたお使いを引き受けていたシェリルは、道を一本隔てたところに下宿しているウォーレン教授にお届け物をした帰りに、今朝も、曲がり角で他人様に迷惑をかけてしまった。
頭の中を午後の予定に支配されていたために、こういうこととなる。考えごとをしながら歩くことくらい、そろそろマスターするのはどうだろう。
「っとと、と」
「ごめんなさいっ。だいじょうぶでした?!」
二三歩ステップを踏んで、見事に体勢を立て直した相手にあわてて声をかける。
女の人で良かった。がっしりとしたおじさんにぶつかっていたら、勢いがついていただけに、無事ではすまない。しかし、ほとんどの衝撃を相手に負わせてしまったという状況も、ある意味無事ではすんでいないような気もする。
「あ、はい。だいじょうぶみたい。あなたは?」
「私はぜんぜん」
「良かった。気をつけてね」
あまり身長は変わらなかった。それでもその女性の微笑みはは、優しく柔らかいお姉さま風のものだったの。
いい香りがしたわ。お母様みたいに、花の香り。
そう思ったのと同時に、足元に落ちている本物の花に気付く。これは。
「あの、バラ、」
振り返った彼女が、やはり花束を抱えていた。見たような気がしたんだ。
「あなたにあげる。今朝開いたものなの。いい香りでしょう」
「えぇ、とても」
「気をつけてね」
走るようにして去って行くお姉さまを、バラ一輪を手にシェリルは見送ってしまった。
白いバラは幾重にも花びらを重ね、朝露の滴がまだ残っているくらい新鮮。
やがてシェリルの足が、意を決したように前に出された。薄紫のスカートが人ごみに吸い込まれるところを、ぎりぎりでとらえることに成功する。
清楚で上品なすみれ色のドレスを着て、白バラの花束などを持つあの人が、いったいどんな人なのか知りたくなってしまったのだ。困ったことに。
ただものではない気がする。きっと何か仕事を持って、表に出ている人だと思った。
突然角から飛び出してきた子供に怒りもせずに、すぐに相手の心配をできる人。まだ若そうに見えるのに、できた人だわ、あの人。
たくさんの人々が思い思いに進む中を、お姉さまは器用に自分のペースを崩すことなく進んでいく。見失わないようにするのは、意外と大変なことだった。
でも知らない相手だから、見つかっても言い訳する必要がないと思うと、大胆に追える。それに、普通のお姉さまなんだから、まさかつけられているとは考えるはずもないし。
三叉路で視界から消えられてしまったと思ったら、道の隅で背の高い紳士と話をしているのを見つけた。花束はその紳士の手に移っていて、二人とも楽しそうに笑っている。
恋人といった雰囲気ではないわね。なんて分析をしているシェリルはレンガの壁にぺたりと張り付いていて、不審な人物に他ならない。
話していることまでは聞こえない。もっと近付かなくちゃ。
と思っている間に、二人は手を振って別れてしまった。くるりと振り向いて満足そうに息をついて歩き出したお姉さまを、そのまま隠れてやり過ごす。
小さく口ずさんでいる曲は、確かシューベルトの歌曲。よっぽど良いニュースを聞いたのか、それとも今日が良い日であるのか。
足取りも軽く、来た道を戻って行く彼女に、一台の馬車が近付いた。優美な造りと美しい馬と、専任の御者。扉には紋章がついている。
窓が開かれて、見事にハンサムな貴族様が顔を覗かせた。一瞬、息を飲むほど。
「見つけましたよ、メアリーアン」
あ。そんな名前なのね。
「どうしたら見つけられるの? すごいわ。おはようございます、ジェラルド様」
そして、それが貴族様の名前。
「そのおはよう、はワタクシのためにわざわざ選んで下さったご挨拶? もしかして」
「えぇ。使えるときに使っておかなきゃ。朝のご挨拶よ」
「気を遣っていただきまして」
「どういたしまして」
「お迎えに上がる時間を決めてなかったと気付きましてね。何時がよろしい?」
「あら。ジェラルド様が直々に?」
「そりゃね。エスコートを引き受けたからには、私は最初から最後まで、きっちんと面倒みるんでございますよ。知ってるでしょ? メアリーちゃん」
「……最後の方を、詳しく」
「まーさか、それで怯えたりしないだろうねぇ、君は」
ジェラルド様の声は、予想通りのテノール。話の内容から察するに、その外観をも生かして社交界で相当楽しく泳いでいらっしゃる様子。
メアリーちゃんは、小首をかしげて少し笑っただけで、なにも答えないでその言葉を受け流した。
「何時にしましょうか。私たちの夜の始まりは」
「おまかせするわ。ちゃんとおめかしして待っています」
「いいねぇ、その台詞。六時には参りましょう。今夜は踊りますよ、メアリーアン」
ぱたり、と窓が閉まり、また馬車は動き出した。
残されたメアリーアンは、まだ笑っている。それから、ふいに心配そうな顔になったり、……。
突然。
なにかに背中を突かれたような勢いで、まさしく脱兎のごとく走り出したかと思うと、角の向こうに消えてしまった。
……追いかけていたことを思い出すスキもなかった。思わず手を、胸に挿したバラに持っていく。
貴族様とどこへ行くと言うのだろう、今晩。この町をあの様子で歩いていたのだから、たぶんあの人はここで暮らしている人だ。うん、バラも切ったばかりな感じだったし。
あんなまさしく社交界の華って人にエスコートされるなんて、上流階級、なはずなんだけど、そんな超レベルのお嬢様って雰囲気ではなかった。だって私、初め仕事持ってる人だって感じたんだもの。第一印象ってゼッタイ本当なんだから。私の場合は特に。
変な、……違う、奇妙な、……これもちょっと。あぁそう。
不思議な、お姉さまだ。




