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雨が育てるものは草花だけではない2

「このまま水に沈んでしまったらおもしろいわね。木登りは得意? フレディ」


 雨音を抑え、彼女の声は透るように聞こえた。合間に水が葉に弾む、軽やかな音が入り込む。


「まぁ、……人並みに」


「登れば少しは長く助かれるわ。私はあまり得意ではないから、手伝ってもらわなくちゃ。どこまで行けるかしら。あの枝の次には、あれをつかんで、それから次は」――


 どこまでも上に登って行った。実践ではないためほぼ手助けは必要なく、彼女は本当にどこまでも登ってしまった。おそらく空の方が近いほど。


 フレディは途中から自分だけの夢想に入っていた。枝の螺旋に引かれるように、醒めた記憶も渦を巻く。満ち溢れたそれは、迷う間もなく言葉となった。


「久しぶりだな」

「なにが?」


「木を内側から見上げたり」


 まだ上を見ていた彼女が、静かにこちらに目を向ける。


「外で降る雨を見ているなんて。それも座って。見るならたいていは窓越しにだろう」

「部屋の中からね」


「傘も持たないし」


 遮るものは何もなく。


「私は好きよ。雨の真ん中に潜り込んでいるみたい」

「いいね」


「でしょう。音を聴いて。水の中なのに音は一つずつよ。葉っぱに水の跳ねる音」


 ぴちょん、と。ちょうど近くで葉が鳴った。音の出所を探し、二人は目をめぐらせる。音はいくらでも後から続き、どちらからともなく声を立て笑い出してしまった。雨の中、木の下に居て水音を探すなど。


「雨やどりなんて。子供の頃はしていたけれど」

「憶えている?」


「こんな時間があったよ。匂いを憶えている」


 嫌いだったわけではない。雨だからこそできる遊びに、子供のころは駆け出していた。曖昧に、色のない情景がとび交っている。

 彼の昔日にも大樹は在った。葉の形も枝もすべてが違えど、やはりこんな風に抱えるように、小さな部屋を持っていた。


「たまにそうして戻ると、とてもいいものに思えない? 持ち続けて慣れているよりも素敵に思えはしないかしら」


 珍奇なものを見るように、見てしまったかもしれない。忘れ続けていたあわただしい時間を悔やむのではなく、思い出したことを素敵と思え。


 風が雨をとばすように、彼の心からも吹きとばされたものがあった。それが何であるのかは言い難い。とにかく彼はまばたきをして、素直な感心を込めて言った。


「楽観だね」


「いい方を選んで勝手に幸せになるのよ。例えばね。ありがたいものに思えるもの。突然の雨も、降られることも」


「楽観的」


 今度は揶揄するような言い方になった。返された言葉にも、多分に笑いが含まれている。


「勝手だもの」


 胸を張り、澄ました顔でそう言った。

 そして振られた手の動きに、目はまた街へと戻される。改めて見ればとても遠くに感じられる街。これだけの雨煙に遠近が狂ったのだろうか。決して交わることのない断固とした隔たりを、蜃気楼のような頼りなさを感じてしまっている。


 一つの色も言い表せない。知っているどの色もそこにはない。

 すべては重ね、重ねられた色。だから彼女の言葉を受け入れた。


「印象派の絵みたいね」

 

 実際の風景を絵画のようだと例えるとはおかしな話なのだが、霞む空気に画家の目を持ったという意味に捉え直せば、その言葉には肯くべきだ。


 そもそも風景はそこに常にあり、絵画とは切り取られたそれであるのだ。絵のようだということは、つまりは画家ならば切り取る(描き取る)であろう景色である、残されるべき美だと言えるだろう。さらに絵のようだということは――


 やかましい分析を頭の奥にと閉じ込めて、フレディは傍らの彼女を改めて目に映した。


「雨が春を運ぶの。四月の雨は花のためになんですって。一雨ごとにあたたかくなるわ」


 手のひらに、葉からの滴を受け止める。


 草のグリーン、ドレスのカナリア、髪に琥珀の彩色を。触れれば堅い樹の幹と、見事な対比を見せているその姿は、なるほど印象派の絵のようだ。しかし少女は生身の人間のはずである。


 フレディはコートを脱ぎ、差し出した。一雨ごとにあたたかくなる。春を呼び寄せるための、これは幾度目の雨だろう。気温は未だ、冬の領域を出てはいまい。


「だいじょうぶよ。私」

「僕のために。落ち着かないんだ」


 事実、心は浮ついていた。喋る彼女に、安心などして。


「ありがとう、フレディ。私、この公園ではあなたに助けられてばかりよね」

「それは、どうだろう」


 君のしていることに比べたら。


 こんなことはささやかなことなのだ。雪の道で手をひいたり、ましてやコートの一枚などは(たとえそれが二枚でも)。


 フレディには慣れたこれらの行為を、感謝の対象とされては居心地が悪い。当然為されるべき配慮として身についているただの習慣なのだから、意識した親切とは異なるのだと思う。

 助けようと考え動いたわけではなく、助けたいと望んで生まれた結果でもない。


 対して彼女の言動は、なんとも言葉に表しにくい。彼のためではないのだと思われながらも、彼のためにはなっている。


 心配の意図は明確に感じられる。彼を心から案じてくれていると、疑うべくもない接し方である。けれどすくい上げてくれる手は、むしろ何気ない言葉に宿されていた。

 楽観的に多角的に、柔軟な中にも誠実に。紡がれる言はあざやかだ。


 まるで対さず彼女にも、ただささやかなことであるのかもしれない。突然の雨にこのように、友人なら雨やどりの場所へと導くように。


「どういう意味?」


 たいていはそのように、楽しそうな瞳の問いかけに、彼は答えを躊躇った。


 思っていることを正確に伝えられる自信がない。理解してはもらえないかもしれないのだ。それは辛いことであるように思う。伝えたいことが伝えたいように伝わらない。そんなことになれば、彼女とのすれ違いがあらわになることとなる。


 違えたくない。まだ出逢い間もないながら、フレディは彼女を遠くはないと感じていた。そんな相手に伝え損ねて、自らラインを引くような真似はしたくはない。

 失望も落胆も知りたくはなかった。知らないまま、あきらめないままに近づきたかった。


 時間は必要なのだろうと、結局一言だけを口にする。


「大したことはできていないね」

「あたたかいわよ」


「なら良かった」

「もうすぐ止むわ。ほら、向こうは光が差してる」


 真っ直ぐ伸ばした、指の先に光はあった。切り取るならばその指も。フレディは、以外ははっきりと見えてはいない目をしてそう思っていた。


「きれいね」


 自分だけでつぶやいたようなその言葉に、彼はそうだね、と口に出して答えていた。肯くだけでは気付いてもらえない。


 一人と一人でいるよりは、こんな世界なら二人で見たい。彼女――メアリーアンはこちらに顔を向けて目を細め笑い、もう絵には溶け込まずそこに居た。


 灰色の空を舞う滴は、光に照らされ余さずすべてが輝くようだ。まるで一枚の布のように、優しくロンドンの街に触れている。


 植物には恵みの、そして人にもこのように、恵みのものとなりうる雨。恵みは芽ぐみの意をも持ち、春は目覚めの時を知る。


 満ち足りた思いで景の移ろいを眺めることしばし。やがて、やってきた光が葉の間から差し込んでいることに気付き、ふと心に疑問が生まれた。目前の、陽光などにまるで構わず、勢い落とさぬこの雨が、


「ずっと止まなかったらどうしようか」


 雨やどりとは、晴れるまで永遠に続けるものでは決してない。


「走って帰るしかないわよね」


 当然。うなずく訳知り顔がおかしくて、フレディは知らず笑っていた。


 そうして、しようとしていたことをするわけだ。


 けれど気持ちが戻っている今は、雨を浴びるのも悪くない。走る自分たちを想像すらする。足元に跳ね上がる飛沫さえ、楽しげなものとして在る、少し先の時などを。


 一瞬ステッキが頭に浮かんだが、思考変幻の忙しなさに、持ち主である老紳士につながる前に押し流されて消えていた。掠めるような泰平の笑み。今なら理解も及んだだろうが。


 メアリーアンはまた思いも寄らない話題を持ち出していた。広い世界のどこからか、招かれ召されたその話。


 街は一雨ごとにあたたかくなる。日々の中、時にこうして空を見上げる。雨に包まれ時を過ごして。

一雨ごとにあたたかく……。



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