Melting Brue Sapphire3
四日めの雪は、さらさらの粉雪。降っては止み、降っては止み。黒く濁った街は、また白く白く、真っ白に。
そうして彼は、また池のほとりに座り込み、……氷の様子を見ているのではないことは、今では私は良く知っている。
私だけが、この街で。
ほぼ消されかかっている、彼の足跡を避けるようにして、私は他の誰も足を踏み入れていない、まっさらな雪の原を横切った。
新しい雪が、降りてきては吸い込まれて同化する。沈黙の世界。
「こんにちは」
「あぁ……。こんにちは」
ただでさえ寒いのに。水の側はさらに温度が低い気がする。氷の軋む音が、かなりの影響を与えている。
フィデリティ氏は、本を広げていた。分厚く重そうな、難解な表題の本。巨木のおかげで雪には触れないとしても、やはりこれはおかしなことだ。
おそらくは読んでなかっただろうに、あろうことか彼は、私におざなりな挨拶を返すと直ちに、その本に向かい合ったのだ。なんということ。
―――「めがねがなくても、本は読めますよ」
彼はとても静かな口調で抗議した。私の手には、彼のめがねがある。
「私によそよそしいのは、私がどこまで知っているかわからないから? だからなの?」
「何を言われているのかわからないな」
「私が見たかも知れないって、あなた、思っているんでしょう。初めて会った、ここで、あの時に」
それさえも消えそうな密かなため息。
私は上げていた手を下ろした。つい、かっとなってしまって、こんなことを。だって昨日は、笑ってくれたから。
でも、あれは、ヘンドリックス夫人の前でのお芝居だった……。
「……どうして泣いていたの?」
あの日、ここで、あなたは。
「君は」
今度ははっきりと息をついて言葉を切る。私はそんなことを言うつもりではなかったのに口にしてしまった自分がとても不思議で、ぼんやりと彼の目を見ていた。
池の真ん中で、氷が揺れてぶつかり合う音。
「もう、知っているんだろう?」
そう、あなたの悲しみを。
ぱたん、と風を起こして本が閉じられると、ふんわりと一片の雪が揺れた。
私はうなずくことすら忘れて、そんなことに気付いていた。彼は何かを、話し出そうとしている……。
「僕の妹はめちゃくちゃでね。池に氷が張ると誰よりも早くスケート靴を探すような、本当にどうしようもない冒険家なんだ」
「あ、だから」
「ここで池を見ているうちに、僕は自分の国に帰ったような気持ちになっていたんだろう。そこで君が転ぶから。……すっかり、シェリーかと思った……」
たぶん、彼の国で、何度も繰り返された日常だったのだろう。池のほとりに座っていると、後ろから妹が近付くこと。雪に足をとられて転ぶ彼女を、支えることが。
「あなたは、優しいお兄さんなのね」
私の言葉にフレディは微笑んだ。
そして、次に私のした質問は。
「帰りたいの? ここに居たくはない?」
もういられない? あの方の側には。
それから、私のこの街に。
「少し驚いただけだよ。長い間離れて暮らしていたのに、まだこんな想いが自分の中にあるなんて、自覚していなかったから、僕は」
たいしたことじゃない。あと、自分を確認するように一言。
「僕はここで、大丈夫だよ」
「ミス・シモンズ。君はシェリーに少し似ているよ」
「メアリーアンでいいわ。私のことは、そう呼んで」
「メアリーアン? それが君の名前?」
「そう言ったわ、昨日。忘れちゃったの?」
「いや、……はい。おばさまはメアリーと呼んでいたし」
彼はそう言い、ふいに池の遠くに視線を移した。
池の氷はぎしぎしと音を立てて、きっと明日には溶けて消えてしまうだろう。溶けて。あ、雪の女王。カイに刺さった、氷の棘。変だわ、私。こんなことを思い出して。
「送っていくよ、メアリーアン。ここは少し、寒すぎる」
差し出された手。私の名前。
「ありがとう」
もうすぐ向こうに春が見えているような、ゆっくりと浮かぶ微笑みに、瞳が優しく、あたたかい色を映す。
春の、水のいろ。空のいろ。
本当に宝石を見るときに抱くような感覚。不可思議な、感動と言ったらおおげさだけれど、神秘に魅入られるような、何か別のものが見えてきそうな……、気がする。
そうよ。あなたの氷もすぐに溶けるはず。だってそんなに優しく微笑んで。
「メアリーアン、と言う名の薔薇があるでしょう」
「薔薇?」
「知りませんか? 君の名前と同じ名の花を」
「知らないわ。そんな花があるの?」
フレディは何かを追いかけるみたいに、空に目を走らせた。灰色の空の向こうに、何が見えるのか、私にはわからない。
けれど、ゆっくりと彼は。
「春になったら見せてあげよう。綺麗な花だよ」
私にわかることばを。




