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21.月夜にお散歩2

「カノンは毎晩聴こえ続けていたのに、だんだんと私にはただの日常になっていたのね。初めの頃彼に感じていた悲しみの感情なんて、毎日にのみ込まれてしまっていた。あなたがあの窓を開いてカノンが聴こえるって言ったときにそれに気がついて、私とても――」


 唇を噛む。


「とても、情けなかったのよ。知りながら忘れていくなんて酷いことだわ。私にできることを、なぜ考えずに過ごしていたのか。私は、通り過ぎてしまっていたの。毎日彼は変わらずに、そんな日々を送り続けていたのに」


「でも、ここに住む人たち全員の悲しみを一人で引き受けることなんてできないわ。ずっと誰かの悲しいことを考え続けているなんて無理よ。悲しいのねって思ってあげていて、思い出した時にはそこまで思ってあげたんだから、メアリーアンはいい人だと思うわ、私」


 それでも放置していたのは怠慢だろう。

 解決の時期というものは在るのだと、もちろん、それも思う。問題は自分がそれを忘れていたという事実、あるいはもっと悪い、恐れ遠ざけていたのかもしれないこと。


 教訓として決して忘れはしないことを決めながら、シェリーの淀みのない言葉には慰められていた。

もっと、その言葉に相応しい自分でいなくてはならないとも思い。


「あなたなら彼の窓を開けるかもしれないと思ったのよ。勝手に期待してしまっていたわ」


「役に立ったのかしら、私は。どこかがおかしいのよね。開けたと言うなら、窓を開けたのはリースだったし。正確に言うなら、破った、になるけど」


 がしゃん。木枠が(リースが)降った瞬間の音を、鮮やかに思い出している。

 落ちてきた人間がリースであったと判明した今となっては、一生忘れることはないと確信できるほどの衝撃と膨れ上がっていた。


 夢に見て飛び起きそう。そんな夜もあるのかもしれない。


「私、今までにあんなに驚いたことってない。普通じゃないと思う、リースの行動って」


「メレディスにあれほど慌てた顔をさせるんだもの、リースは大物よ。初めて見たわ。クリストファーがまだ戻っていないといいけれど」


 クリストファー様は遊びにお出になられたのである。夜の女王の支配するやわらかなビロードの闇の街へと、デカいうさぎに誘われて。 


 シェリーは今夜のどの言葉よりも力強く言った。


「まだよ」

「そうね」


 視線を外しながら、メアリーアンは答えた。


 何もなかったことに今夜の一件は収まるのだ。とりあえず、クリストファーにとっては。それで良いと思う。知らないままで済ませることができるのなら、騒ぎ立てずとも。


 リースのこととなると歯止めが吹き飛んでいるお兄様には、知らせた人間もひどい目にあわされそうである。


 シェリーとは違い、今後リースがこのようなまねを繰り返す可能性は低い。シェリーとの友情が絡めば確率は跳ね上がるとしても、メレディスが目配りを惰りはしないだろう。


 それが彼の仕えるクリストファー様の健康管理にも繋がることでもあるし、メレディス自身、リースをかわいがってくれてもいることもあり。


 この先の監視を強化しなくてはならないのは、こちらのお嬢さんの方だ。そう思いながらも、胸に満ちるのはあたたかさだった。

 危険は危険として言い聞かせなくてはならないけれど、なぜだろう、シェリーなら大丈夫だと自信を持って言い切れてしまいそうなのだ。


 守るものの確かさを感じる。世界に守られている娘、そんな単純なほどの夢のような言葉を本気で思い浮かべてしまう。


 一緒にいるとやわらかな気持ちを思い出す、かつてはいつも共にいた、忘れたままでは寂しいものを。


「あ」


 小さくつぶやくと同時に、娘は足を止めた。誰より早く、そのまだ小さな耳がとらえたものがある。

 一音。続けて。次は?


 カノンではないとわかった。

 ウィル。

――カノンではない……!


 ヴァイオリンの音色は道いっぱいに拡がり、街にスパイラルを描くように満ちていく。あるものすべてを一つの大きな球にと抱え込むようだ。


 シェリーは立ちつくし、この広い世界をまるで親しんでいる自分の部屋であるかのように感じていた。

知っているという安心感、知られているという幸福感。まるいまるい、守るようなやわらかさ大きさが生まれる。


 沈んでいる穏やかな夜の大気に、そっと触れるような、起こさないように足音を忍ばせる優しさのように。


「わかる? メアリーアン。教えて、思い出して、お願い。なんて曲だったのか思い出せないの」

「えぇ――、と、少し待ってね。憶えているはずだわ」


 並んで立つメアリーアンにも、聴き覚えのある旋律だった。渦を生む音をたどると同時に、記憶もたどっていく。過去へと……、引っかかるものが姿を見せ始めた。


 黒い服を着た男の人を見上げ、植物の大きな葉が揺れて、白いタイル、薄い太陽の光と、焦げた茶色のヴァイオリン。断片の画の中で、男の口が動いていた。確かあの時に、その人はその名を私に教えてくれたはず。


「バッハの」


 そう、バッハの――。

 記憶の男が言うよりも先に、違う声が響いた。


「パルティータ」

「シャコンヌね!」


 クリアに声をあげてから、シェリーはそちらを振り向いた。

 大きく膨れた月を後ろに、浮かび上がったシルエットは見誤るはずもない。それにパルティータだと、そう言う声を聞いたのだ。


『無伴奏ヴァイオリン パルティータ第二番』。その終曲が、『シャコンヌ』に作られている。この曲の持つ名。


 音楽は全般的に彼の管轄だ。影は預けていた背中を塀から離し、小さく二歩だけ道の中へ移動した。


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