2.Johann Pachelbel
重いのは風のせいだった。窓が開かれているのだ。
夏用の軽いカーテンが大きく天井までも舞い上がり、シェリーの姿をすっかり飲み込んでいた。
客を迎えると、生き返る。
誰も眠ることのないいつもとは、まったく様の違う部屋を見回しながらベッドに近づき、はみ出した小さな足を見下ろす頃、やっと客人であるシェリーが布から逃れて顔を覗かせた。
「窓を閉めて寝ないと風邪をひいてしまうわよ。この街の朝晩は、決して油断をしてはいけないの。病気の時にベッドでおとなしくできないのだから、予防の方をきちんとしなくてはね」
腰に手を当て、厳しいお顔で、お姉様はそう言った。
「そんなことを言うのは、フレディね。どこのお医者様よりずっとウルサイんだから。全部言うことを聞いていたら、一年の三分の一は私、ベッドの中で暮らすことになっちゃう」
「だけど本当のことなのよね?」
「それはそうだけど。あぁ、窓は閉めないで。寝る時にはちゃんと、自分で閉めるから」
「まだ起きているつもりなの? もう遅いのよ。明日も学校に行かなくてはならないでしょう」
「だって音楽が続いている間は、もったいなくて眠れないわ。とても無理よ。メアリーアン」
「音楽?」
不思議そうな顔を、メアリーアンはシェリーが見ている窓の外に向けた。
つかみどころのない夜の遠い喧騒の中に、それらに飲み込まれ同化することのない音が浮かんでいるのをやがて見つける。
「ヴァイオリンね」
「昨日の夜にも聴いたのよ。誰が弾いているのか、メアリーアンは知ってる? この近くの人でしょ? あまり遠くからって感じじゃないわ」
「ウォーレン先生から聞いたことがあるわ。先生のところの学生さんだというお話だったはずよ。どうしたの? そんな顔をして」
「とてもきれいだから、親しいのなら紹介してもらえるかしらと思ったの。弾いているところを見れたらいいなと思って。私、ヴァイオリンってあまり見たことがないわ。誰も弾かないし、見ることはあっても遠い舞台だったり」
どんな顔をしてしまったんだろう、とシェリーはたくさんしゃべっている間に、笑顔を引き戻した。
メアリーアンは暴れるカーテンを両手で押さえ、紐で結わえつけながら、
「先生が遠征中で残念ね。この国には山がない、山を越えたいんだと騒ぎ立てて、スイスまで行ってしまったのよ。いつ帰ってくるかしらね」
「先生はいつも気ままね。大学のお仕事はいいの? 先生って暇なのかしら?」
「そんなはずはないのよ。生徒さんに同情してあげて。さぁ、音が止まらなくても、あと三十分よ。明日、学校で居眠りしたらいけないもの。あと、窓を閉めることも忘れないでね」
「えぇ」
「おやすみなさい、シェリー」
「おやすみなさい」
良い夢を呼ぶように微笑んで、メアリーアンはゆっくりとチョコレート色の扉を閉じた。
金色のノブの一部分がきらりと光って見えたのは、月を隠していた雲が風に流され飛んで行ったためだ。
月明かりが描き出した白と黒の絵画に組み込まれたシェリーは、本物の絵の中の人物であるかのように、身じろぎなども一つもせずに、大きなブルーの瞳を空の月から離さない。
入って来た風が髪を揺らして通り過ぎるけれど、それでも彼女は長い時間をそのままで。
過ごしやすい緩やかな、優しい空気を持っている家。ここに住む人間たちは、家そのものととても良い関係を保っている。風が流れ続けているために、呼吸がとても楽なのだ。
玄関ホールに飾られた、美しい女性の微笑が頭に浮かぶ。
大切なものを大切にと設定付けたのは、ミセス・シモンズの功績だ。
ピーターと共に歩み続け、今では天から見守っている彼女が、現在もこの家に満足していることを、シェリーはその肖像から知っていた。
絵も悲しむものね――
画家の力量と、モデルの生命力。そこに、考えて作りだすことのできない調和が生まれたとき、永遠が息づき呼吸を始める。
絵に宿るもの。そして、音に載せられたもの。
意識を傾けると、カノンはさっきよりも楽に拾えた。シェリーは手を伸ばして窓を閉じ、耳を澄ますと大きくうなずいた。
「窓くらいじゃ負けないわ。この音はもう私の心が聴いているんだから、絶対防げはしないのよ」
真っ白なカバーのかかった大きな枕を、シェリーは小さなこぶしで叩き、望む形に整えた。
金色の髪は神の御使いの羽の様に広がり、表面で水の滴を転がすように、月の雫を遊ばせている。
まだまだカノンは、追いかけるのをやめようとしない。シェリーは夢見心地で立ち止まり、追い越され、追いかけて追いかけられた。
音は街のどこにも平等に降り注ぐけれど、感じ取るのは一つ一つの耳だった。




