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10.扉は開く(現象)


 正しく玄関を通る予定だったのに、家主は留守にしているようだ。

 メイドもすでに部屋に下がってしまったのだろう(あるいは通いかもしれないが)。シェリーは二度、いやもう一度呼び鈴を引いて、あきらめた。


 この建物の中で覚醒しているのがヴァイオリニストただ一人であるのなら、紐をつかむ手は無意味そのもの。呼び鈴もその音も私だって空しいだけね、とシェリーは誰かに見せでもするように、腕を組んで首を振った。


 見上げる瞳に月が映り、耳にはカノンが流れ込む。


 聞こえる蹄の音に急かされる思いで、思い切って固そうなノブに手をかけた。金属の冷たい手触りに、そんなものにも怯んでしまう。


 けれど、どこからかまたジェラルドが現れたなら、今夜はクリストファーも一緒のはずだ。必ず降りてきて首を突っ込んで来るだろう、迷っている時間などない。早く屋内に入らなくては。


 しかし家主が留守でメイドもいないのなら、玄関に鍵がかかっていないわけがないのだ。回らなかったノブから手を放し、シェリーは素早く地下への階段を駆け下りた。


 今夜は屋根など目指さずに、正式に彼の扉をノックする来客として面会を求めたいと思う。その前段階。建物そのものに侵入したことは、ともかく他所に置いておくとして。


 地下の方も扉は施錠されていた。窓はどうだろう? だめだ、もちろん。

 かなり希望からはずれてしまうが、部屋の窓から入れていただくよりほかはなさそうだ。格好悪いし、きっと驚かせてしまうけれど。


 屋根から変な姿勢で窓をノックしている自分の姿を思い、ため息をつきながら、シェリーはあきらめてのろのろと階段を上り始めた。そして途中で足を止める。


 あれだわ。


 声は出さず口だけを形に動かして、くるりと身を翻すと、さっきよりもさらに激しい勢いで階段を駆け下りる。

 施錠を確認した窓より上の位置に、独立した鍵を持つ小さな窓があるのを、階段の途中にて発見したのだ。


 高い場所の小窓ならば、油断されている可能性がある。転がった木箱を起こして飛び乗ると、窓に精一杯手を伸ばした。


 開いている。


 闇の中で一人笑いながら、さらに木箱を積む作業にかかる。

 家主の片付け程度に感謝をしつつ、あるだけの木箱を階段上に重ね上げ、家族や身内の誰が目にしても、すぐに押さえかかって止めるであろう危険なルートを、シェリーは彼女にしては精一杯慎重に登り始めた。


 そうして二分後。

――頭を鍋に突っ込んでいた。


 ロンドン中に響いたかもしれないと思うほどの音は、今では過去の一騒ぎとして落ち着いている。もちろん、降りる先がどうなっているのかなどということを、シェリーは考えもしなかった結果。


 一緒に転げ落ちた鍋を拾い、元あったのではないかと思われし場所にと戻す。誰だかの持ち場を踏みつけにしてしまった、とやってしまってから後悔を。


 予想はできたことなのだから、慎むべきだった。もっといろいろなことを考慮に入れなくてはならない。

 次からは。


 この間にも、ヴァイオリンの音は途切れはしなかった。

 作り出した大きな音は、彼に届きはしなかったのだ。拒絶されていると――思うしかないのだろう。


 彼はすべてを締め出している。弾いている彼の意識は、はるかに遠い場所にある。

 自分の空想ごっこなどとは違い、この世を否定することが、そのまま作られる壁の厚みにとなるようだ。


 私は、否定された側に立っているのだわ……。


 考えると足に伝わる。頭を切り替えなくてはいけない。

 決めたのだから、迷ってはいけない。けれど生まれてくる迷う気持ちを、シェリーは持て余してしまっていた。


 自分が関わることがさらなる悪化をもたらすという可能性は、どれほどのものだろうか。ピーターの支援を思い、この迷いが信頼を裏切ってしまったように感じられて唇を噛んでいた。


 足に感じる柔らかな絨毯は、最近新しく張られたものだ。階段の端と中央とに、減り具合の差が出ていない。


 足音を殺すための努力は、しないことにした。どうせ、あの人は聞いていないのだから。


 手すりに彫り込まれている模様を、なぞるようにして進む。連続している花の形、光と影の対比上の問題から、その名をこの場で知ることはできないだろう。


 昼間の光の中で見るものとは、違うものをきっと見ている。月の支配する、夜の世界。映るものの中にいくつもの、影によるまやかしがある。


 踊り場の窓を透し、月は照らしていた。街灯のまぁるい小さな光と、色と角度が違っている。

 月に宿る女神の祝福は、すでに旅立った家族のために使ってしまっていた。けれど、


「もう一人くらい、ついでに見ていてね。お願い」


 自分のために。シェリーは(まじな)いの言葉を唇にのせる。


 今まで生きてきたどんなときよりも、頑張らなくてはならない場面が訪れているように感じていた。危機はいくらでもあったけれど、意識して立ち向かうのは初めてのことだ。


 階段を先に進む自分の影に、手を引かれる思いだった。一人ではない自分を感じている。正体はわからない。これもまた自分なのかもしれない。


 だから。正しいのだと思うわ。


 シェリーはこの踊り場に迷う思いを捨て去った。階段のあと七段は駆け上り、闇の廊下を目指す部屋までまた駆ける。

 見える限り、灯りがもれているのは唯一この扉だけだ。なにより、音がもれ出でている。


 子供の頃に覚えた通りに、礼儀正しく扉を叩く。三回。

――答えはない。


 大きく息を吸い込んだ。外の音には、背中が向けられている。

 ノックをしての入室を、と頑張っていたけれど、どうやら結果には繋がらなかったようだ。


 扉は軽く、中へと開いた。


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