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1.それは密やかな始まりで

 六月。

 夏を迎えた。


 まだそれほどの気温の上昇は見られないけれど、窓を開けて寝てしまいたくなる程度には夏。


 開かれた窓からは、様々なものが忍び込む。

 凝った細工の宝飾品を狙う古色豊かな怪盗や、成長を拒否した空飛ぶ少年。ただの夏風、街からあふれた霧。


――天使も夢見る音楽も。


 音は初めは微かに。

 それからだんだんはっきりと聞こえて来ていた。


 聴こうと真剣に思うほど、確かに耳でメロディを捕らえる。


 このフレーズ、わかったわ。

 もちろんこれはパッヘルベル。『カノン』ね。


 シェリル・フィデリティ嬢は、昨夜から住みかを変えていた。

 家族の全員が全員、こぞって保護すべき最年少の彼女を放り出して、あちこちに散ってしまったからだ。


 いくら腕っぷし自慢のジェシーが残ると言ってくれたところで、それでも二人だなんてとんでもない、といった理由で、一週間の滞在先が検討されることになり、ジェシーには休暇が与えられた。

 故郷のコーンウォールに帰るためにと、たっぷり一週間。


 巡る議論は活発に交わされまくり、紆余曲折折。

 結果として、彼女はシモンズ邸お預かりの身と相成った。

主に移動先が、自分の荷物の揃った部屋から徒歩十分の圏内であるという理由からの結論である。


 そのシモンズの家は、通りの端に位置しているため、風通しがとても良い。

 購入は現在も引き続いてご主人のピーター・シモンズ氏により、二十年前の出来事だと聞いているが、併せて伺ったお説いちいちごもっともで、大変に賢い買い物だったのだとうなずける。

 

 将来的に変化する可能性の低い、大きな道路をサイドに持つ。しかし完全なる住宅地である故に、往来は広さのわりに騒がしくはならない。


 住み心地が良いため離れがたいのか住民の移動が少なく、いつしか形成された小さなコミュニティの、シモンズ氏は現在の中心人物であった。


 家に同居しているもう一人のシモンズは、ピーターの孫娘にあたるご婦人だ。

 滞在期間のお世話役となっている彼女がいなければ、シェリーはこの家に招かれることはなかった。


 ミス・メアリーアン・シモンズは、シェリーの兄、ミスタ・フィデリティの親しい友人である――という言い方をこの国ではする――のだ。


 公的機関に勤める彼が、任務の内容は明かさないままベルリンへ向かった日から、二日が過ぎようとしている。


 決して内容に触れようとしないフレディに、シェリーも尋ねることはしなかった。

 自分が何も知らないままでいることが、彼の心の平穏に大いに関わっていることを、最近では自覚していることでもあるし、知らずにいれば危険なことではないのだと思うこともできる。


 危険な事情を知ってしまった自分の行動を、自分は抑えることができないので、これでいいのでしょう、と思うことを覚えた。


 一人で乗り切る、それをあの人はできるのだから。


 メアリーアンもまた、事情に深くは踏み込まないままにフレディを大陸へと送り出していた。

 もし、思考過程を辿ってみたなら、まったくシェリーと同じものを見るのだと思われる節がある。


 その彼女は今、寝室へと向かう途中にあるシェリーの部屋からもれる光に足を止めたところだった。階下の居間でおやすみなさいを聞いてから、二時間近くが経過しているのに、と首を傾げ、すみれの彫られた扉をノックする。


 応える少女の声に、優しくくすぐったいような気持ちになった。


 このままの生活が、ずっと続いてもいいわ。

 そんなフレディの立場を失くす考えを、本気で抱きながら、メアリーアンは扉を押した。


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