いえない。
あなたの大切な人は誰ですか。
「大切」は「大」に「切」と書く。
「それはなぜか。」をこの主人公は考えることになるのです。
私が小学生の頃、読書が趣味であった。学校無い休みの日は、家の近くにあった昔からやっている古く何処か懐かしさも感じる本屋に行くというのが習慣になっていた。本屋の店主とは顔見知りで「おじさん」、おじさんの奥さんを「おばさん」と私は呼んでいた。偶におじさんから新しい本を入荷したと教えてくれる時や、本の話で何時間も談笑する時だってある。本屋の中の古臭い匂いを嗅ぎたくなった時はいつのまにか本屋の引き扉に手を掛けている。古くてボロく小汚くなっている趣のある本を読み漁るのが何よりも好きだった。
私が中学や高校に入ってもその習慣は変わらなかった。一つ変わったことがあるとしたら趣味趣向である。少し大人っぽく内容が難しい本を手に取るようになった。おじさんもその変化にはすぐに気が付いていたようで、後から聞いた話だが、そのことを笑顔でおばさんに話していたようだ。すごく嬉しそうだったらしい。
*
高校二年になってすぐのことだった。いつものように本屋に入った私は、すぐにおじさんに声をかけられた。私は新しい本が来たのかと今までよりも早く歩いた。ただおじさんの顔は、少し強張っているような気もした。おじさんは私の顔の様子を見ながら、目を見て言った。
「ちょっと真剣な話をしたい。時間をくれないか。」 私は、狼狽えると同時に少し諌めようともした。しかしおじさんの意図を直ぐに解った。
私は「分かりました。」と応えた。するとおじさんは本屋を閉め、店の奥に行った。手招きで呼ばれ行くと、和室があり、真ん中に木の高そうな机があった。机の上には三輪の蔓日日草が飾られてあるのがすぐに眼に入った。おじさんに、「まあ座って。」と言われ、おばさんが湯呑みに入った温かい緑茶を出してくれた。そして、話を始めた。
「単刀直入に結論から話す。この本屋を継いでくれないか。」
そう告げられた私は、すぐに返事することができないほど言葉を失ってしまった。私は開いた口を閉じるのを忘れてしまっていた。おじさんは続けて言った。
「急にすまん、驚くのも無理はない。実はもう店を続けていくことが難しいんだ。だから、誰かに継いで欲しくてでも私には息子が居るんだが、本には興味がないんだ。継ぐ気はないみたいだ。本があまり好きでは無い人には継いで欲しく無い。それがたとえ自分の子供であろうともな。だから私は、君に継いで欲しいと思っているんだ。少しで良いから考えてくれないか。バイトからでも良い。」
その瞬間、おじさんと隣にいたおばさんは深々と頭を下げた。私はすぐに「頭を上げてください。」と声を震わせながら言った。おじさんは「高校卒業後の進路も考えないといけないだろうから早めに君には言っておこうと思って。でも自分の志望校、他に行きたいところがあるならそこに行ってほしい。自分の人生、将来は自分で決めるものだから。
でも、頭の片隅にでも残して置いて欲しい。まあ、答えはゆっくりで良いから考えてくれ。私はずっと待ってるよ。」私は考えなくても答えはただ一つだった。
「是非私の大好きな無くてはならないこの本屋を継がせてください。」と。
今度は私の方が頭を下げた。「本当か。」と見たこともないほど驚いたおじさんは「ありがとう、本当にありがとう」と今までにないくらいに声を上げて喜んでくれた。
いつもの子供のような笑顔に戻ったおじさんは、「新しい本また入ってるぞ。」と足早に本を取ってきた。おばさんは「ゆっくりしていって。」と言いながら、御茶菓子を出してくれた。このときの私とおじさんの話はいつもより何倍、何十倍も会話が弾み、楽しかったと、記憶に強く残っている。いつのまにか、満月がこちらを観ていた。満月はとても綺麗だった。
満月に気付いた私とおじさんは同時に自然と笑顔になった。その笑顔は月という照明によって光り輝いた。そしてまた、この美しい景色と黄金に輝く月と流麗な文章に目と耳を奪われながら私とおじさんの瞳は完全にそちらしか視ることができなかった。
親に報告した。「進学」を条件付きに了承を貰うことができた。でも、親も喜んでくれているようだ。何も怒らず見守ってくれた。この日の夜空は淀みが微塵もない。夜なのに明るく視える。この日の空は、私の空だった。
「(漆黒で紫黒のあなたはいつまで続くのか、返事してください。)」
私の純白な心で言い聞かせながら問いかけた私は睡ってしまい、気付いたときには私の空は儚く消え去り、東に顔を出した陽がまた違う明るさを解き放っていたように感じた。臙脂、楊梅、土器、御召御納戸。空にある全ての色が少しずつ濁って観えていく。夜が来たのかと喜ぶがそれはただのぬか喜びに過ぎなかったのだ。私は、自分に嘘を付いてしまったのだ。何度も目を擦った。私の視える心は変わらなかった。気付かぬうちに体力を使ったのか呼吸が荒くなった。
*
翌日の朝になった。昨日の自分は何処かへ消えた。今日の自分はとても気弱になっていた。私は高校二年になって初めて学校を休んだ。體は健康だったが、精神的に参っていた。ベッドから出るのも一苦労である。やっとの思いで部屋から出るとすぐに私の母は、朝ごはんできてるよと言った。しかしいまの私にはそんな誘いにはのらない。私はすぐに、家を出る支度を済まると、私は十三輪の郭公薊を優しく持って、朝飯も食わずに家を出た。走った。家と本屋の道を止まることなく走った。本屋に着き扉を開けようと引いた。開くことは無かった。二、三回引いた。結果は変わらなかった。扉を背にして私は座り込んでしまった。私の空には雲がかかり、その雲はだんだん丼鼠になった。雲の周りは真っ白になっている。ついに、眼からは沛雨が降ってきた。そこから動くことができなかった。何故だ。いつもなら開いている時間なのに本屋は開いていない。本屋の中は暗闇に飲み込まれている。今日は定休日でもないはずなのに。そう思った直後、大きい足音と共に母が走って来た。追いかけて来ていたらしい。母は扉にあった張り紙に眼をやった。
「用事のため、しばらくの間、臨時休業いたします。店主より」そう書いてあったらしい。
しかし私は、母の声を聴くことができなかった。考えることもまともに出来ていなかった。少し落ち着いた時、おばさんが本屋に来た。顔は俯いて少なくとも良いことはない様子だった。本屋の前にいる私たちに挨拶もせずゆっくり一礼をしてすぐに話し始めた。
「ごめんなさい。おじさんは前から持病を持っていてその病気が再発してしまって入院することになったの。だから、世話もしないといけないしちょっとの間休もうかなって思って・・・。本当にごめんなさい。何も連絡とかしなくて逆に心配させてしまって。」
私の母はすぐに、
「大丈夫です。それより体調の方が断然優先ですから。お見舞いに行かせてください。」
私は、母の言葉を聞いた瞬間、おばさんに「お願いします。」と頭を下げていた。「おじさんに聞いてみるね。」と言って去っていってしまった。私は、膝から崩れ、涙が溢れていた。今日の記憶は心に刻み込まれた。
おじさんが入院している病院にすぐにお見舞いに行った。おじさんは渋々ではあったようだが承諾してくれたようだ。病室の扉を開け一番奥のベッドに着いた。カーテンを開けた私は何も言葉が出ることは無く、固まってしまった。そこには、ぐったりと眠っているおじさんであった。今までこんなにしんどそうにしているおじさんを私は視たことが無かった。これどうぞ。と辿々しくいうと、ありがとうとおばさんは笑顔に受け取ってくれた。不思議とおじさんの顔は少し笑みを見せてくれたように感じた。母とおばさんに頼み、私とおじさんは二人きりにしてもらい私はいつもと同じようにおじさんの隣に座り大好きな本の話をした。ただ本の話をしているはずなのに私は何故か涙が止まらなかった。おじさんはいつも通り。泣かないで。と慰めてくれているようで嬉しかった。同時に寂しさが湧いて出た。私は考える間もなくおじさんを抱きしめていた。ベッドの机に置いてある花瓶に入った三輪の桃色のストックもおじさんを観てくれていると感じた。黒橡の空は瞬く間に去っていった。太陽の光と白夜月はおじさんを輝かせていた。今日のおじさんはいつもよりかっこよかった。翌日も翌々日もお見舞いに行った。
*
しかし、あるお見舞いに行った日の夜のことであった。おじさんの容態が突然悪くなったらしい。急いで病室に着いた時には医者もおばさんも親戚の人たちも立ち尽くしていた。ほとんどの人が泣いていた。おじさん、おじさんと呼ぶが返事がない。医者は私に小さくつい数分前に亡くなりました。と。夢であってくれと願った。叶うことは無かった。青白く少し冷たくなっていた。笑顔で本の話をしてくれる私の知っているおじさんは何処にいってしまったのか。今日の花はルピナスだった。やる気を完全に失った。私の幸せを病気によって消されてしまった。一ヶ月半は死んでおじさんのもとへ行こうと思った。自殺未遂もした。学校に行けなくなった。食事も出来ずにいた。毎日泣いた。おじさんが亡くなって一ヶ月半が経ったときであった。おばさんが家に来た。母と少し話してすぐに去ってしまった。私の部屋の前に母が置いとくね。と言ったので、部屋のドアを開けると、手紙と三輪の黄色い石蕗が置かれていた。私は、観た瞬間、石蕗を優しく抱きしめながら泣いた。私は、石蕗がおじさんのような気がした。少し我に返った私は花瓶に石蕗を飾った。それはそれは人生で一番綺麗な花だった。ふと外を見ると綺麗な満月がこちらを観ていた。私は自然と笑顔になった。一緒に置いていた手紙を開け読んだ。おじさんからだった。本屋をよろしく。楽しい日々をありがとう。天から見守っています。と。私はまた泣いてしまったと同時に、止まっていた時間を進めて歩き出すことに決めた。
*
私は今一つのお墓に手を合わせている。今日はおじさんの誕生日だ。おじさん、報告に来たよ。おじさん、誕生日おめでとう。私は元気だよ。私進路決まったよ。大学行くことにしたよ。高校卒業したよ。おじさん、私医者になるよ。そう言って私は自然と泣いてしまっていた。この涙は、スーツ姿を見せることが出来た怡びの涙なのか、おじさんに会えなくなって感情が込み上げて出た涙なのか、それは自分でもよく分からなかった。私は、五輪の白い菊を花瓶に入れて飾った。私はまた、手を合わせた。顔を見上げた空には、陽の光に私は照らされた。自然のスポットライトと凩によって私と私は少し綻ぶことができた。
「おじさん、また来るね。」
読んでくれてありがとうございました。
[これは私(甘い薄荷)の初投稿作品です。]