岐路 2
木造の寝台には清潔な藁が敷き詰められている。
リュクルスは四肢を伸ばし目を閉じる。
自身の肌から立つ香油の匂いと、向かいの寝台で身体を丸める少女のそれが、さして広くもない部屋に漂っていた。
酷い悪臭を放ったアルカンもまた、水で清められ、その毛並みの見事な白を取り戻した。
タンタリオンの”宿舎”は中庭を囲む正方形の石造建築である。各部屋の出入り口は中庭に通ずるのみ。屋敷を出るにもそこを経由する必要がある。
街中にあってなお、それはささやかな砦であった。
「戦士様…ねむいです…」
アルカンを寝台に上げて抱きしめながら、曖昧な声でアポリアが呟く。
湯浴みと香油、そしてまともな食事は心身をいともたやすくほぐしてしまう。
「寝るな」
リュクルスは一言、静かに答えた。
彼には女が理解できない。
両親と一族を殺されてなお、その仇の住処でくつろいでいる。恩讐を知らぬ獣かといえば、とてもそうには思われない。昼間彼女が示した態度は明らかに怒りを秘めていた。
数刻前、広場のただ中で、従民達のただ中で彼は女を守護した。ラケディアの市民、「外の守り」のダイオスから。かつての弟が迷いなく突き出した刃を、彼もまた迷いなく剣ですくい上げ弾いた。ゆえにアポリアの頭蓋は傷もなく、今やまどろみの中に落ちようとする。
意外な出来事に一瞬の放心を見せるダイオスに彼は述べた。「女は自身の物である」と。「ケイネーへの道中、身の回りの世話をさせるべく拾ったのだ」と。
所持品の無事を確かめる体で、彼は少女に目をやった。彼女は彼を見上げ、大ぶりな口を少し歪めて笑った。
そこには感謝も安堵もなかった。嘲弄だけがあった。
鼠を追い込んでいく猫の無邪気な愉悦。嗜虐の快感とすらも感じられる。あるいは少女の真意は異なったかもしれない。その笑みは純粋な感謝を示すものだったかもしれない。
だが、リュクルスはそう感じた。よって彼の中においてそれは真実であった。
ダイオスは彼の言を聞き、すぐに気を許した。兜を外すと昔ながらの細面が露わになる。薄い笑顔には幼い頃の面影が残る。
彼もまた自身の頭蓋を覆う鉄の兜を脱ぎ、剣を鞘に収める。そして同じく笑みを見せた。
「僕は少し先走ってしまいましたね、リュクルス兄! しかしよい稽古だった。まるで実戦さながらの」
「いや、おれが君に説明を怠ったのだ。しかし、どのような不幸な行き違いに陥ろうと、ラケディアの戦士は最後には必ず団結する! そうあるようにマヌ神がお導きくださる」
彼はそう返答しなければならなかった。
広場において求められることは明らかであった。市民同士が相争う行為ほどに麗しのラケディアを貶めることはない。それは白亜の城壁に走る罅となる。常に反逆を画策しているに違いない従民どもに付け入る隙を与えてしまう。
よって共同体の市民は一体であることを示さねばならない。
ダイオスの腕が自身の肩に回されるのを彼は黙って受け入れた。
否、喜んで受け入れた。
燔祭の遣いという光輝ある使命を帯びて旅をする兄を、ダイオスは自身の”隊列”宿舎に誘った。一晩の逗留を求めた。
旅路にある同胞市民を助けぬなどありえないことだからだ。糧食と身の清め、”共同食事”、そして快適な寝床。与えられるべきものは全て与えられるべきであった。
食事はラケディアの市民らしく質素なものだが、振る舞われた酒だけは上等であった。澄んだ赤の葡萄酒は純粋な酒精すらまき散らす。
柔らかい豚肉を頬張りながらも、彼は酒をもって喉を潤すことをしなかった。大仰な素振りで勧める弟に彼は応えた。
「神聖な燔祭の旅路には身を清めねばならない。酔い混じりでマヌ神にお会いするなど不敬極まることだ」
冗談めかしつつも重みを添えてリュクルスは誘いを受け流した。
そして自身の境遇に途方もない徒労を覚える。
目の前に注がれた、おそらくは上等の葡萄酒を味わうことは素晴らしい快を喉にもたらすであろう。だが、快は大きな失望を対価とする。一方で、酒を逃す不快は後に喜びへと転化するだろう。どちらを選んでも幸不幸が相殺されてしまう状況は、確かに彼を疲弊させた。
彼は酒を飲まなかった。
◆
深夜、出立の準備を終え、アポリアとアルコンを伴い中庭に歩み出たリュクルスは、果たしてそこに期待通りのものを見た。
「メイオンの子ダイオス。これほど喜ばしいことはない」
ダイオスを中心にして、半円状に彼の”隊列”の戦士達が広がっている。それはまさにリュクルスが欲したことであった。
ラケディア、麗しの都の市民として、疑わしい者を放置することは許しがたい怠慢である。処置が為される必要がある。
少年団で共に過ごした弟が、立派なラケディア市民として成長を遂げたことにリュクルスは喜びを禁じ得ない。頼もしいラケディアの戦士に。
「リュクルス兄! メイオンの子ダイオスは、猛き都の栄えある市民としてあなたに問うことがある!」
「従民共の目の元ならばいざしらず、ここにおいては真実を語ろう。ラケディアの同胞に対して」
槍を握りしめた掌に薄らと汗が湧き出してくる。
ラケディアの法は訓練時を除き、市民同士の殺し合いを強く戒めている。それは”不磨の法”以前の忌まわしい記憶が残した教訓であった。よって即座に命のやりとりが始まることはない。だが、相手が反逆者であると分かれば話は違う。
反逆者は市民ではない。
「兄の言葉はおかしいことばかりです! ラケディアの戦士に足手まといの隷民など必要ないはず。それも光輝ある燔祭の遣いに。なのに…!」
声には哀願の響きすらあった。リュクルスにも十分理解できる心情だ。ラケディア、麗しの都の民の中に裏切り者を見出すなど、想像すらも忌まわしいことだ。さらによりにもよって、それが兄であるなどと。
正対するダイオスの一挙手一投足に視線を走らせる。
——その手にかかるのも悪くない。
弟に串刺される自身の姿を幻視して、彼はその情景に限りない共感を覚えた。いずれにせよ自身は死なねばならない。ラケディアに戻ることは叶わない。ならばここで弟にくれてやるべきなのではないか。”共同体”を裏切った者を誅するという名誉を。
——卑怯なリュクルス! 逃げ足のリュクルス! 怯えて背を見せる!
「声」は常に彼に教える。その秘めたる望みを。
厭いて全てを放り投げようとする心を「声」は適切に暴く。無意識の望みを。
ゆえに彼は不本意な行動を取らざるをえない。
釈明する、という。
「ダイオス、きみの想像通りだ。この女はおれの物ではない」
「ではなぜです? あなたはラケディア市民に無礼を働いたその隷民を庇いました。つまり…」
言葉にはしたくない。リュクルスには弟の心境がありありと分かる。
それはつまり、反逆であるなどと。
「この女は、神の物だ」
「神? 隷民が?」
「この女はきみの”隊列”が下した懲罰を生き延びた。数日後、おれが村を訪れ、おれもまたこの女を処理しようと考えた。危険な女だ。だが、それは叶わなかった」
額を覆う黒い巻き毛の下、ダイオスの目が怪訝そうに細められる。
「叶わないなどと。そんな貧相な身体、剣の一閃で終わるはずです。昼間兄が手を出されなければ、今頃それは死んでいました」
そのようにならなかった事実こそがまさに神意ではないかとリュクルスは疑っていた。
ダイオスもリュクルスも少女を処理しようと意思し、実行した。にもかかわらず彼女は生きている。
アルカンを抱いて、彼の隣に佇んでいる。
「だが今、この女はここにいる。腐臭を放つ幾多の死体の中で3日生き、おれの決然たる刃を逃れ、おれに、ラケディアの市民に保護されている。そして昼にはきみの刃をかいくぐった。このようなことがありうるだろうか、ダイオス」
「でもそれは、全てあなたが——テセウスの子、石の如きリュクルスが為したことではないですか!」
問答の最中、リュクルスの心内に、急速に、爆発的に育ちつつある何かがある。それは当初一個のちっぽけな疑いに過ぎなかったが、いつしか推論となり、今や確信とさえ呼べるほどに強く壮麗なものとなった。
「きみはおれを幼時から知っているな? そうだな、ダイオス」
「ええ、あなたはまさに僕の兄です」
「では、おれを知っているな? おれがラケディアの市民として立派に務めを果たす男であると。おれは戦場で卑劣な態度を示したことはない。日々の”仕事”を常に全力で成し遂げた。市民として”共同体”に全てを捧げてきた。そして今、栄えある燔祭の遣いを任されている。それを知っているな?」
リュクルスは肩を大きく開き、誇らしげに語り上げた。誇張は虚栄であり恥である。しかし事実の主張は為されるべきことだ。堂々と。ラケディアにおいて誇りとは、堂々と語りうることを為し、それを朗々と語りうる状態を指す。
「もちろんです! 石の如きリュクルス。皆があなたを讃えています。誇り高き共同体の市民リュクルスと」
「では決して思うまい。おれが私欲ゆえに、ラケディアへの背信ゆえに何かをなすなどとは。麗しの都を貶める行いをおれが為すと、きみは思うか?」
「いいえ! いいえ! ですが!」
「では誰だ。そのようなおれに、この隷民の女を生かせと強いるのは誰だ」
リュクルスの語気に興奮はない。ただ断固たる重みがあった。
明白な事実を述べるとき、そこに感情は無用である。事実は人の想いに助けを求めない。説得の必要はない。明らかに正しいのだから。
リュクルスの意識においては、つまりそれは事実であった。
「神々のどなたかが守護されているのですか? 猛きマヌ? あるいは、糸紡ぐ女神アポリア…ですか?」
天上に住まう神々は、人の子に神意を授け、地上に事を為される。
それはペルピネの大地に生きる人々にとってごく当たり前のこと、常識である。ダイオスにとってもリュクルスにとってもそれは世界の核心となる”理”である。
陽が昇り昼が生まれ、陽が沈み夜が支配する。それら世界の仕組みと同様に神々は人々を昇らしめ、沈ませる。
今リュクルスを使役し、少女を守護せしめる神は誰なのかダイオスは知りたかった。
「いいえ、戦士様。誰にも」
少女を包んだ眠気はとうに剥がされていた。
「この女は常にこのように言う。だが、おれにはそうは思われない」
アポリアの言葉を受け流し、依然彼はダイオスに語りかけた。あるいは自身に向けた言葉であったのかもしれない。
——おれはそうは思わない。
と。
そうでなければ理屈が合わない。
忠実な市民たる自分がラケディアを裏切るなどと。そんなことはありえないのだから。
「女、おまえを守護なさる神はどなただ?」
ダイオスは明らかに態度を変えた。たんなる隷民は会話の相手とはなりえないが、尊敬する兄リュクルスをして守護せしめるほどに神が愛でる者となれば話は別だ。
「名などありません。神はただ御独り。戦士様。——”唯一確かに在るもの”に名は無用です。名は、あるものを他から区別するときにのみ必要となります」
何かを諳んじるように、極めて滑らかに、少女の口から言葉が流れ出る。
”聖句”。
「確かにおまえは神々のどなたかに嘉されているように感じられるが…。その方はおまえに名を明かされていないのだな」
「いいえ。戦士様。わたしはあなた方のように偽の神に縋りません」
「偽の神だと?」
弟の声色が重く移り変わるさまを感じながら、他方リュクルスは思案する。
——このような涜神の者を守るために、神々のどなたかがおれを使役される? そんなことがあるだろうか。
女は一貫してマヌ神の存在を否定する。そのために命を賭ける。彼女の心内においてそれは事実だからだ。なぜそこまで確信できるのか。リュクルスには理解できない。彼がマヌ神の実在を「分かる」のはラケディアの存在ゆえだ。ペルピネの平原にそびえ立つ白亜の城市とそこに生きる栄えある市民の存在ゆえに、それら全てを成り立たせるところの存在、マヌを確信する。
では、女にとっての証はなんなのか。
「おまえの言葉の証はなんだ。それを示せ。おまえが言った”御方”の存在を我らに見せてみろ」
同様の疑問がダイオスの口から発せられたことはリュクルスにとって好ましかった。この時、あるいはラケディアを出たとき既に、彼は自己の正気に自信を持てなくなっていた。
ダイオスの敵意を受けてなおアポリアは怯まない。
子羊の背を静かに撫でながら傲然と立つ。先刻寝台で眠気を得てぐずったと同じ者とは思えないほどに、その存在は堂々たるものだ。
梳られた金の髪は夜風に靡き、戦士たちが掲げる松明の橙光を悉く跳ね返す。
「戦士様、あなた様の神は、ご自身の存在を感じさせるために人に証を与えるのですか? それではまるでただの人ですね。わたしたちイリスの民は証を示されなくても神を感じます。証を示さなければ認められない神と、証がなくとも認められる神では、どちらがより偉大な方でしょうか」
ダイオスは返答に窮した。
アポリアの言が稚拙な一節であったならば話は早い。畜生とさして変わらぬ隷民の戯れ言と片付けられる。だが、少女の言は明らかにその境遇と年齢にそぐわぬものだ。つまり何らかの神意を受けている可能性が高い。
一方で、女は猛きマヌ神の存在すら否定する暴言を平然と吐く。想像するに恐ろしい涜神を経てなお、こうして生きている。
「ダイオス、ご覧の通りだ。——おれはこの女を連れてケイデーに登り、猛きマヌの神意を伺う。そこで証が示される。女の言葉が戯れ言であれば、マヌ神は断固たる裁きを下されるだろう」
——山へ往け! 山へ往け!
「声」の指し示すところのものが何であるか、リュクルスはようやくここに輪郭を得た。彼は”意味”を得たのだ。
「声」を聞き、気狂いと化し、ラケディアの疵として放逐された男は、その旅路に一つの意味を見出した。自身を使役するものの正体を見極めること。それこそが生命を捧げる目的となった。
だが、それはつまるところ「私欲」である。
「戦士様、ラケディアのことはもういいのですか?」
数日前、野宿の夜に旅の目的を尋ねられた彼は燔祭の意義を少女に伝えた。彼の生命は共同体のために捧げられる、と。
しかし今、彼の旅は不純物で濁りはじめている。
少女は驚くほどに敏感であった。「建前」に対して。
彼女は明らかに挑発していた。リュクルスの「装い」を。
「よくはない。——おまえはついでだ」
「リュクルス様の”物語”がそう在りますように」
アポリアの瞳は年に似合わぬ艶やかさを示し、青年の瞳を優しく撫でた。