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ラケディア、麗しの  作者: 本条謙太郞
第2章 リュクルスのケイデーへの旅
8/24

岐路 1

 初夏とはいえ夜も深まれば肌寒い。

 夕暮れ時には暑苦しく感じたささやかなたき火の熱が、今青年の身体には心地よくすら感じられる。


 街路を脇に逸れ岩肌の剥き出しになった荒れ地を見出すと、彼はそこを野宿の地と定めた。平地の草原ゆえに見晴らしは悪くない。男の鍛え上げられた瞳は月のもたらす弱光の元においてすら、異物の接近を大まかに判別することができる。

 道中拾い集めた木々の量は豊富とは言えない。一晩たき火を燃やし続けるには不足。

 しかしそれは大した問題ではなかった。リュクルスにとって寝ずの番は身体に染みこんだ日常的な行為の一つである。夕時に仮眠を取れば夜通しの警戒に耐えることができる。

 実際のところ、彼は睡眠という行為から縁遠い存在となりつつあった。耳に響く「声」は止むことがない。彼は常に()()()()()()()()()


 愛用の長槍を抱き込み地にあぐらをかく。火を挟んで向かいに丸くなるアポリアの姿を、彼は眺めた。

 幸いなことに女が寒さを感じることはないだろう。極上の熱源であるという自身の強みを熟知した、まさに”執政官”に相応しい生き物——子羊アルカンをその腕内に抱き込んでいるのだから。

 アルカンは立派な男だ。身体を覆う立派な巻き毛の外套——自前のそれを惜しげもなく女に貸してやる。そして度胸が据わってもいる。未知の、自身の数倍の体格を誇る生き物に捕らえられながら、怯えひとつ見せずに眠りこけている。


 ——彼は勇敢だ。


 リュクルスは心内零す。

 焚き火の炎は野生動物の接近を抑制する。それを理解し、かつ幾度も経験を重ねながら、彼は常に怯えていた。不意の襲撃と、なによりも内なる「声」に。

 怯えながらも思考は止まない。

 青年の魂は3つに引き裂かれている。周囲を観察する意識と過去を振り返る意識。そして「声」を受け止める意識。思考の矢が内に外に飛び交う。この特異な状態を彼が正気のうちに制御しうるという事実は、ラケディアの教育が到達した極地の一つである。





 ◆





 先刻日が落ちる前、近場で飽きもせず草を食むアルカンを尻目に、リュクルスとアポリアはささやかな食事をとった。

 原料すら分からぬ干し肉と雑穀を焼き水分を飛ばした薄灰の()はイリスの村から持ち出したものだ。石と変わらぬ硬度を誇るそれら2つの塊を、2人は水でふやかしてなんとか口に押し込んだ。


 数日前、自身の壮行会で振る舞われた肉汁したたる豚の切れ端。酒で温められた「共同食事(サンポジーム)」の秩序だった喜悦。それら全てを彼は思い出した。それは彼が失ったものだった。

 アポリアにもまた、失ったものがあるのだろう。目前で()を小さくかじり続ける女を見ながらリュクルスは曖昧な推測を続ける。


「おまえたちは、どうも普通の隷民と違うな」


 美食を好む”堕落都市”の市民からすれば拷問とすら感じられる食事だが、それは紛れもなく食事であった。食事は人の気を緩ませる。


「私たちは他の人々をほとんど知りません」

「隷民はおまえのように話さない。あれは意志を持たない。定められたことを行うだけの土くれだ。言葉を解する家畜に近い。だがおまえは違う」


 夕日に照らされた女の笑みは歳相応に幼く、歳相応の酷薄さを備えていた。


「戦士様は土くれではないのですか? 家畜では?」

「おれは違う」

「でも、定められたラケディアの法のために生きるのでしょう? 村に()()()()()()()戦士様はそう叫んでいらっしゃいましたけど」


 リュクルスは自身の推測に確信を深めた。隷民がこのような口を利くことはない。


「”不遜な隷民はラケディアの懲罰を受ける! それが共同体(コムネス)の法だ!”と」


 嘲り、あるいは挑発。彼女が為そうとするそれは誇り高い人間——市民——の行為だ。隷民のそれではない。


「猛きマヌの都の市民は自発的な()()の元に服従する。力によって強いられるのではない」

「——汝、驕慢を恐れよ。それは第一の罪である」


 先ほどまで囓った()を膝に置くと、アポリアは姿勢を正し、目を閉じて呟いた。


「”名もなき御方”の教えか。おれはその御方を存じ上げないが、無礼は働かぬ。受け入れよう」


 隷民は神々を知らない。存在の知識はあれど「知覚」しえない。ラケディアの民が都市の威容と”不磨の法”によって実感する神々の偉大さを。

 だが、アポリアは明らかにそれを知覚している。彼女だけなのか、それともイリスの民全てがそうなのか。もし後者であれば、イリスの民は元はラケディアや他の「堕落都市」と同様、誇り高き神々の裔であり、自由民であったことになる。何らかの不幸に見舞われ、故地を逐われた者達ということに。

 そこまで考えたとき、リュクルスの心内に若干のさざ波が生じた。もしイリスの民がかつて別たれた”同胞”の一房であったならば、村に対して為された”処理”と彼が為した”処理”は礼を失するものだった。”名もなき御方”の民を礼なく殺害したのだ。それは”名もなき御方”を怒らせるに値する行為だ。

 ラケディア、麗しの都のために、彼はマヌ神に祈った。御名をペルピネのみならず世界に知られた偉大なるマヌが”名もなき御方”に取りなしてくださることを。自身の無知を釈明してくださることを。


 だが、女の返答はリュクルスの思考を断固として断ち切った。


「戦士様。神は御独りです。”あの方”の他に神はいません」

「——なに?」


 ”共同体”はその名の通り、市民の一体性を要求する。そこに上下はない。ゆえに彼はこれまで、他者からの侮り——見下されることから無縁であった。自身もまた同胞を見下すことはなかった。手と足が、目と鼻が上下を争うなどあろうはずがない。それらは全て身体の一要素である。

 だが今、彼が生きた20の年月において初めて、彼は軽侮されていた。愚か者、と。


「戦士様方はその手でイリスの民を軽々と斬られました。()()()で突かれました。でも、あなた方は一番重要な”理”を知りません。イリスの民は狼に簡単に食べられてしまいます。ですが狼よりも賢いのは私たちです。狼は”理”を知らず、私たちは知っています」


 昨晩のごとき怒りは湧いてこなかった。目の前で得意げに語る少女の思惑を見抜いてしまえばそれまでだ。種は明かされている。相手の意図が挑発にあると分かればかえって冷静になる。


「なるほど。おまえはそう考えると」


 ——つまるところ負け惜しみだ。


 リュクルスは無感動に心内呟く。かつての誇り高き自由民はその誇りを忘れ、隷民に堕し、空しい負け惜しみを後生大事に唱えている。無残な姿に憐れみすら覚えた。


「では、唯一の神であるというその”名もなき御方”は、なぜおまえたちに都市を作らせない? ラケディア、麗しの我らが都のような。なぜ隷民に堕している?」

「戦士様。戦士様が”いる”と思い込まれているマヌ神は、そのお考えを人の身が理解できる方なのですか? それではまるで”力を持ったただの人”ですね」

「マヌ神の御心を分からなければどうやって崇める? マヌ神は羊の香気を好まれる。だから我々は御心に叶うよう贄に捧げる。その結果、マヌ神は我ら”共同体”を愛される」

「戦士様は見返りを求めて神と”取引”されるのですか?」


 女の声に憐れみの色が混じる。襤褸の麻切れを纏っただけの娘が、その名を知られた偉丈夫に対して。


「分かった。では、おまえたちは”名もなき御方”に何をどのように望む? まさか祈願の仕方すら分からないというほどではないだろう」


 奇妙なことに、リュクルスはこのとき意外な場面を脳裏に浮かべていた。それは”隊列”の仲間と為す共同食事(サンポジーム)である。ラケディアの市民達はそこで様々なことを語り合う。「善とはなにか」「悪とは何か」「美とはなにか」「勇気とはなにか」。定められた題を多面的に検証し、皆が納得出来る共通見解に至る。ラケディアにおいて許された唯一の快である。

 その共同食事(サンポジーム)に近しい感覚を、ふと彼は覚えた。隷民の女を前にして。


「わたしたちは何も望みません」

「ならばどのように生きる? 神の助力がなければ人は不幸に陥るのみだ。故地を逐われ、ペルピネの地で家畜のように生きる不幸に」


 打てば響く少女には珍しく一瞬の沈黙があった。瞬き3つほど経て言葉は放たれた。


「マヌ神に祈るラケディアの戦士様。——戦士様は幸福ですか?」





 ◆





「ねぇアルカン、どちらに行きましょうか?」


 子羊(アルカン)の首元を撫でながらアポリアが呟く。


 夜が明けて旅が再び始まる。

 リュクルスにとって道は二つだ。

 街道を進み緑壁最前の都市タンタリオンに向かうか、あるいは道を外れ名もなき隷民の村を探すか。

 彼の目的は明白である。緑壁を越えケイネーの山頂に到り、燔祭を執り行うことだ。不可能事と分かりながら、それは断固たる目的であった。


 よって問題は女の処遇にある。

 置き去りにしようとも女は着いてくるだろう。貧弱な身体に反して彼女は意外な体力を持つ。

 ここで「処理」することもできる。だがそれは女の目論見成就に等しい。アポリアは恐怖に震えつつも堂々と死を受け入れるだろう。それが”物語”であると言いながら。そして嘲笑いながら。——剣を手に威張るこの男は隷民の小娘1人屈服させられない無能者だ、と。ラケディアの戦士など所詮その程度だ、と。

 街で売り払うことも検討した。しかし恐らく値が付かない。力仕事に向かず子を為せそうにもない貧相な女を欲する者などいない。


 当初同族が暮らす村に預けようと考えていたが、それも当てが外れた。彼女の話を聞く限り、イリスの民はこの近辺の隷民と同種ではない。流れ者の群れである。


 リュクルスの思案を見抜いたアポリアはまことに適切な行動に出た。

 ”導き手(アルカン)”に尋ねたのだ。


「羊に委ねるのか」

「はい。この子(アルカン)は立派に務めを果たしてくれます」


 大事を前に動物の行動から神意を読み取る行いはさほど珍しいものではない。ラケディアでは王が戦の前にマヌ神殿の前で鳥を放し、その飛び方を観察し吉凶を占う。


「”名もなき御方”の御意志は羊に宿るのか?」

「いいえ。決して」


 彼は昨晩の問答を思い返し、兜の奥の眉を軽く引き上げた。アポリアは常にこの調子だ。

 肩まで覆う少女の金髪は梳られず乱れながら、束ねられた陽光のごとく無秩序に光る。そして羊の毛をも照らす。


「ならば何の意味がある」

「わたしは”導き手(アルカン)”の”物語”を尋ねます」

「”物語”は動物にもあるのだな」


 アポリアはおもむろに立ち上がり男を振り返る。


「もちろんです。”物語”にはこの世の始まりから終わり、果てから果てまで、その全部が描かれています。——逃れるものは塵芥すらない、と」

「おまえの言うことは結局、”名もなき御方”の御意志が宿ったと言うのと同じだろう」

「いいえ。——アルカンの”物語”はアルカンのものです。”導き手(アルカン)”の”物語”を受け入れるかどうかはわたしたちの”物語”です」


 彼はもはや何も答えなかった。


 ”執政官(アルカン)”が歩き出したのだ。

 ラケディアの”隊列”はその命に従い進まねばならない。





 ◆





 緑壁とペルピネの平原を隔てる境界に打ち立てられた都市タンタリオンはラケディアやその他”堕落都市”と同様、市民の自治によって成り立つ「都市」である。

 遙か昔、神話に等しいほどの昔、まだ”不磨の法”が確立する前、混乱を極めたラケディア市内の内乱で敗れた者達が南に逃れ打ちたてたとされるその都市は、150年前の再征服を経てラケディアの従属市として存在していた。

 タンタリオン市民は元を辿ればラケディアの民であり土着の部族ではない。ゆえに彼らは幾ばくかの貢納と軍役を課されながらも自治を許される、ラケディア領における市民の地位を保持していた。

 都市ラケディアを中心に東西南北に広がるいくつかの巨大な従属市こそが、つまるところラケディアという「領域」であった。ラケディアの法はラケディア市に正当に住まう者達を「市民」、従属市の正当な住民を「従民」、そして平野に点在する村落に住まう者達を「隷民」と区別する。

 それは絶対の区分であった。隷民は従民と市民に、従民は市民に服従する義務を負う。市民は常に従民と隷民を支配した。裏を返せば彼らの存在を常に脅威と見なした。よってラケディアの戦士はその威光を定期的に知らしめた。従民隷民問わず。恐怖をもって。


 他の従属市と比して、タンタリオンはラケディア領域の存続にとって重要な役割を担う存在である。そこは緑壁——”魔物”の住処と”人”の領域を隔てる最前線の拠点である。ラケディアはこの都市に2つの”隊列”——計64名の戦士を滞在させる。”外の守り”と称される彼らはタンタリオン周辺の村落にラケディアの偉大を知らしめるとともに、タンタリオンの異変を察知して通報する「報知器」の役割を担った。日に数名がタンタリオンを立ち、数日の後にラケディアは彼らを受け入れる。1日の滞在の後、彼らはタンタリオンに戻る。この恒常的な遣いが一週間途絶えた場合、ラケディアは”大隊列”を即座にタンタリオンに差し向けることになっていた。何らかの問題——おそらくは反乱——を片付けるために。

 効率的とは言いがたいこの仕組みをラケディアは長く忠実に維持してきた。それは”不磨の法”の定めるところであり、副次的な効果も多少は得られたがゆえに。街道の治安維持と周辺村落への威圧こそがそれである。


 ペルピネの都市がもれなく中心部に備える「広場」は、ラケディアにおいてもここタンタリオンにおいても非常に重要な意味を持つ。

 日中市民はここに集い、見知った顔と挨拶を交わし世話話にふける。使役される隷民達は市場に陳列する様々な荷物を運び込む。商人達は市民と商談にいそしむ。つまり公私を問わず人の生活の大部分が展開される場である。


 タンタリオンの城門をくぐったリュクルス一行が目指したのも当然のごとく広場であった。そこで羽振りの良さそうな者を見つけ宿を乞うのだ。ペルピネにおいては、旅の者に対する歓待はその都市で声望を集める市民の務めであった。

 ”外の守り”の戦士達が住まう宿舎に向かうことも選択肢として存在したが、彼はそれを選ばなかった。

「声」は的確に青年の意識の裏を言い当てた。


 ——卑怯なリュクルス! 傲慢なリュクルス! 虚栄の子リュクルス!


 自身の身の上がここタンタリオンに伝わっていることは確実であった。市民リュクルスが与えられた聖なる使命のために便宜を尽くすよう、元老会からの指令すら発せられているかもしれない。だが、それがお情けの美名に過ぎないことを察さぬ者はいないだろう。かつて肩を並べた僚友達から憐れみ混じりの気遣いを受けるほどに、青年の心を痛めつけるものはなかった。


「すごい人…」


 横を歩くアポリアの言葉に答えたのは恐らく気晴らしを求めてのゆえだろう。


「緑壁周縁で採れたものを手早く売りさばくのがここだ。従民共がその”汚い仕事”のために集まってくる」


 広場から溢れた物売りが大道にすら出店を構えている。清浄なるラケディア、麗しの都においては決して見ることができない猥雑。人々の往来が地を踏みしめ立てる土煙のもやがそれをかすませる。

 雑踏の中にあってリュクルスの装いは一行の快適な歩みを助けた。長槍を手に丸盾を背負い鉄兜を被った偉丈夫が何者であるか、知らぬものは誰もいない。ラケディア市民に手を出したのちに何が起こるかも。


「アポリア、羊をしっかり見ていろ。見失うぞ」


 リュクルスは敢えて周囲に聞かせるような大声で女に告げた。

 2人の前を行く”導き手(アルカン)”はまだ小躯の子羊だが、貧乏な従民にとっては一財産である。それがラケディアの戦士の持ち物と知られなければすぐに盗まれてしまう。ゆえに彼は盗難への備えとして指示を発したのだ。

 しかし、彼の言葉はもう一つの予期せぬ効果を生んだ。羊に対するものではない。女——アポリアに対するもの。見るからに粗末な貫頭衣に身を包んだ隷民の少女が()()()()()()()()、それを人々に知らしめた。青年の意図とは全く無関係に。


「アルカン! わたしと一緒にいましょう」


 アポリアは素早く”彼”を抱き上げるも、意外な重みに歩みを止める。


「おれが持つ」

「いいえ。アルカンはわたしのことが好きなんです」


 首を振り羊を両腕で抱きしめる少女の姿に、リュクルスはそれ以上何も言わなかった。





 ◆





「そこな僚友! 御身の名は?」


 お目当ての”しかるべき人物”を物色しようと人混みを見渡すリュクルスの背後から、明るい男声が投げかけられる。


 彼はその声に聞き覚えがある。”少年団”にいた二つほど年下の…。


「ラケディア、麗しの都の市民、執政官テセウスの子リュクルス」


 向き直り名乗りを上げると、果たしてそこには思い浮かべた通りの青年が立っていた。同じくラケディアの戦士装束をまとうが、自身よりも一回り小柄な体躯。手にした長槍の穂先に括り付けられた赤い布だけが2人の男を見分ける徴となる。()()は「外の守り」に就く戦士の証であった。


「やはり! リュクルス(けい)! ここでお会いできるとは、マヌ神のお導きです!」

「ダイオスか。久しいな」


 ラケディアの子は男女問わず10の年から親元を離れ少年団に加入する。彼らは寝食を共にする中で”共同体(コムネス)”に相応しい戦士となるべく教育を受ける。子ども達を監督する成人の監察官の元、子ども達の中でも相互教育がなされる。年長者が年少者と()()()()()()()()を構成し、兄が弟に日常生活の正しい振る舞い方を伝えるのだ。


 目の前で声を弾ませる青年ダイオスこそは、リュクルスが少年団で割り当てられた「弟」であった。


 ——哀れなリュクルス! 恥ずべき兄!


「声」は的確にリュクルスを詰る。

 彼はダイオスを気に入っていた。生来生真面目なリュクルスと、同様に折り目正しいダイオスは性格的に近しかった。彼は「兄」の立場に恥じぬ振る舞いと実績を「弟」に示した。そして自身の得た技能と経験を惜しみなく伝えた。

 籤で選ばれた相手と一対一で殴り合う”つがいの鍛錬”で瀕死となった「弟」をつききりで看護したこともある。「弟」の意識が戻った後には、その身体の回復を早めようと自身に割り当てられた肉を全て与えた。一週間にわたって。弟ダイオスの血肉を代償とするのならば、ひもじさは容易に耐えられた。

 優秀な戦士が増えることはラケディアの栄光に資する。自身を真っ直ぐに慕う「弟」をかわいく感じたのも事実である。戦士間の友愛は”共同体”の結束を強める。


 だからこそ、今の彼にとってダイオスは顔を合わせたい相手ではなかった。


「リュクルス(けい)、これは天啓ですよ。我々の”隊列”にいらしてください。今夜はともに食事を」


 跳躍と紙一重の大股で歩み寄ってくるその姿に彼は困惑を隠せない。


「それはありがたいが…生憎今は連れの者がいる。そしてラケディアより命ぜられた神聖な責務が」


 ——卑怯なリュクルス! 恥ずべき男!


「それです! 先日聞きましたが、一体何があったのです? 確かに燔祭の遣いは名誉。とはいえ、それは武功を得た老戦士の…」

「ダイオス! メイオンの子ダイオス。何もない…。元老会はおれに栄誉を下さった。おれはケイデー山で贄を捧げラケディアの光輝を示す。マヌ神は喜ばれるだろう」

「それは分かっています! でも、兄さんほどの方を…」


 リュクルスの言葉に含まれた拒絶の色に気づいたダイオスは弱々しい語尾を残す。

 そして兜の中から視線を投げかけた。

 ()()に。


「リュクルス兄、()()は?」


 男の一歩後ろで羊を抱きしめた女がダイオスの視線の中に捉えられていた。


「成り行きだ。ゼノジア近くの村で拾った。どこかの”隊列”が誅した村で」

「ああ、()()()()ですか。でもなぜ?」


 なぜ拾い、なぜ同行させているのか。「弟」はそう聞いている。つまり、なぜ処理してしまわないのか。そう尋ねられている。

 リュクルスは明確な答えを示すことができない。

 理解しえぬことには沈黙せねばならない。


「売っても大した金にはなりませんよ。——何に使うのです?」

「……」

「ゼノジア、ですね? それはひょっとしたら。何日ほど前に?」

「6,7日ほど前か。恐らくだが」


 彼の返答を受けたダイオスが槍を勢いよく掲げる。

 合点がいったのか、まだ少年の域を出ないラケディアの戦士は上機嫌に語り出した。

 思い出したのだ。

 つまり、彼ら戦士達にとって()()は日常であり、忘却しうる程度のことだった。


「我々かもしれません。まさに! ちょうどラケディアから戻る最中だ。それにしても、やはりリュクルス兄、これは天啓です。マヌ神が我ら兄弟の絆を(よみ)された! 我々隊列の()()()()(けい)が引き連れてくださった!」

「何があった?」

「大したことでは。隷民共は我々”隊列”を()()()()()()に案内したんです。ラケディアの市民がそのような浅知恵を見抜けぬわけがないのに」


 ——ダイオスは立派な戦士に育った。兎1匹蹴殺せなかった者が。


 気負いなくあっさりと告げる「弟」の風情を眺めながらリュクルスは心内呟いた。


 少年団の「教育」は行為への慣れを与えるところから始まる。鼠、兎と段階を踏むことで子ども達は慣れていく。最終的な目標、人——隷民——の殺害に至るまでの助走である。

 リュクルスは覚えている。泣きわめき逡巡を繰り返したあげく、ついに目をきつく閉じて兎の頭を踏み潰した弟の姿を。





 ◆





「——なぜそれが理由になるのですか? 戦士様」


 後ろに控えていた女がリュクルスの横に並ぶ。決然と。

 胸にアルカンを抱きしめて。


「…なに?」

「木の小屋はお気に召しませんか?」


 女の声は細い。しかし決して断ち切れぬ強靱さを備えている。リュクルスの脳裏に蘇るのはあの夜だ。燃えさかる村の前で自身を恐れさせた女の姿だ。


「リュクルス兄、これは一体? なんです、()()は」


 隷民の女に詰問されている。衆人環視の広場において、ラケディア、麗しの都の市民が。それはダイオスにとって理解を超える出来事だったのだろう。


「赤い槍の戦士様。わたしが、あなた様に、お尋ねしています。——木の小屋はお気に召しませんか?」


 今にも折れそうな両足を開き地を踏みしめ、今にももげそうな細腕を羊毛に埋めながら、少女は対峙していた。ラケディアの戦士に。微かに震えながら。


 対するダイオスは未だ困惑を抜け出せずに、しかし偉大なるラケディアが彼に教えたとおりに振る舞った。

 断固として、果断に。

 そうあるべきように。


「我らを木小屋に詰め火をかけて焼き殺す。そんなところだ。おまえ達隷民の下らぬ仕掛けを”共同体”の光輝ある戦士が見抜けぬなどありえないことだ。その侮辱の罪を隷民共は命で償った!」


 ダイオスの叫びは女に向けたものではない。息を殺し事の成り行きを見守る従民たちへのもの。それは対話ではなかった。

 ゆえに事は深刻である。


 アポリアの答えはダイオスの退路を断った。


「戦士様。わたしたちの村には石造りの家など()()()()()()()のです。——()()()()()()様」


 かくしてダイオスの為すべきことは明確に定められた。

 公衆の面前である。非を認めることは許されない。


 彼我の間合いは長槍に向かない。


 共同体の戦士に躊躇はない。

 槍の柄を手放したまさにその掌が、即座に佩剣の柄にかかる。

 深く暗い諸刃が素肌を見せる。陽光が即座にそれを焼く。

 白銀に輝く切っ先は一切の猶予なく、女の顔面に飛びかかった。


 テセウスの子リュクルスは栄えある共同体の戦士である。

 麗しの都ラケディアの市民である。ゆえに彼は、ダイオスの至極まっとうな行為を傍観しなければならない。

 歯向かう者、否、その意図を仄めかした者さえも生かしてはおかない。それはラケディアの安全を脅かす。処理せねばならない。

 共同体の法はそう教える。彼の理性はそう伝える。


 ——声に従えよ! 石を(かね)となす者よ! リュクルス! 定められた者よ!


 彼の右手は空いていた。

 アルカンを女が抱き上げたがゆえに。

 アルカンが彼女を好いたゆえに。

 よって彼の右手は空いていた。


 ダイオス同様、彼もまた躊躇しなかった。

 共同体の戦士は果断であるべきだからだ。


 鞘から躍り出たリュクルスの刃は、すくい上げるように、女の視界の外れから現れて鼻先を掠める。その鼻梁を鉄の味が満たすほどに、濃厚に、金属の交わる瞬きがあった。


 それは少女の瞳から一毫のところでなされ、呆気なく終わった。


 かくして刺突は見事に弾かれた。

 瞬き一つもなし得ぬ間に。


 それは一つの選択であった。

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