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ラケディア、麗しの  作者: 本条謙太郞
第2章 リュクルスのケイデーへの旅
7/24

 ケイデーの山麓に端を発し都市ラケディアの東端を掠め、大きく西に迂回して海に注ぐ大河エウロイは数多くの支流を持つ。

 リュクルスの旅はつまるところ、エウロイ川を遡るものだ。


 彼と子羊は成り行きから思わぬ同行者を得た。

 名もなき支流の小川に素肌を晒し身を清める女の後ろ姿を、彼は羊と共に見守った。


 彼はアポリアを旅に誘わなかったし彼女も望まなかった。地の透けて見える建前とはいえ彼には目的があった。ケイデーに登りマヌ神に贄を捧げるという。そして彼女には何もなかった。ゆえに女は着いてきた。成り行きである。

 リュクルスにとって女は明白な枷である。ただでさえ羊の忌々しい食欲が進みを遅らせているところに、長距離歩行には明らかに不向きな女の存在が加わる。

 よって青年が女の同行を受け入れたのには明白な理由がある。


 リュクルスは疑っていた。

 本人の明確な否定があったにも関わらず、アポリアが神々のどなたかの意を地上に知らしめる存在、巫女である可能性を否定できなかった。(あかし)は昨晩示された。そのように思われたのだ。

 果断と滅私を旨とするラケディアの市民リュクルスは女を殺さなかった。否、より正確に述べるならば殺すことができなかった。それは金髪の隷女が述べる”名もなき御方”の神慮ゆえであろうと彼は考えた。

 女は二度、不自然に生を繋いだ。一度目は村を襲った戦士達に見逃され、二度目は彼自身が見逃した。そのようなことがありうるだろうか。偉大なる共同体の誇りある市民をして、二度もし損じせしめることなど。

 女に加護を与えられた”名もなき御方”は、実は途方もなく強大な神なのかもしれない。麗しの都ラケディアを守護する猛きマヌ神をすら遠慮させるほどの。

 人の知が極めて矮小なものであることを彼は師父カミノスより学んでいた。ゆえに人が未だ知らぬ偉大な神が存在しても何ら不思議なことはない。そう考えた。


 遠目にも骨が浮く様が分かる。痩せた女の背はリュクルスにただ重荷の存在を再確認させた。

 ラケディアの教育を受けたものにとって”不確定”ほど厭わしい状況はない。女がただの隷民であることが明白ならば、彼もまた明確な行動を取ることができる。殺すにせよ置き去りにするにせよ。一方で、女が”名もなき御方”の巫女であるのならば、その身を守護せねばならない。おそらくはマヌ神すら従える方の依り代である。自分のこの悲惨な身の上さえ、マヌ神が”名もなき御方”の巫女を守護せしめんと自身を差し向けがゆえと推察できる。

 当のアポリアはその可能性をはっきり否定した。巫女であると認めさえすれば、彼は女を守護せざるをえず、結果女の命は救われる。生きのびるための最適解だろう。だが、騙りは最大の悪であり神々の苛烈な怒りを招く。アポリアはそれを知っていたがゆえに命可愛さの騙りを避けたのか。リュクルスの脳内に推測の糸が紡がれていく。


 ——ならばやはり素晴らしい女だ。()()()()()()、あの女は身の破滅を知りながら嘘をつかなかった。

 彼もまた嘘をつかなかった。「疲労」といえば済んだことを、正直に「声」の存在を白状した。それはラケディアへの献身ゆえだ。彼はその行動をラケディア市民の精華として誇った。ゆえに、自身と同じように生を犠牲にしても守るべき何物かを持つのであれば、彼女の魂は隷民の根性を秘めていない。ラケディア、麗しの都の市民と同様、高潔な精神を有している。


 そこまで思考を巡らせたところで、女が川辺を離れるのが見えた。

 身体と同時に川で洗った麻服はいまだ多量に水を含み、その素肌に張り付いている。水を通した髪もまた。


「お待たせしました。戦士様」


 無造作な水浴びは初夏の特権であるが、季節は万人に平等だ。

 一方で、ラケディアの戦士に守られてのそれは希有のものといえる。

 女が1人川で無防備な姿をさらす危険は計り知れない。偶然の陵辱と死が十分に予想しうる。しかし、側に共同体の戦士が存在するときその心配はない。女を犯し拐かし殺す盗賊の多くは村を追われた隷民の集まりであり、()()()()を知らない。()()()()のためにこそ存在するラケディアの戦士達にとってそれら烏合の衆を消し去ることは大した仕事ではなかった。


「アポリア、おまえは幾つになる」


 棒きれのようなその肢体を眺め、リュクルスは尋ねた。


「17の年になります」

「ではもう少し肥えるべきだ。その身体では丈夫な子を産めない」


 すすと垢を水で剥がした女の素肌は存外に滑らかだ。歯の並びは彼女が元来健康な骨格を持つことを示している。足りないのは肉だけ。


「子、ですか…」

「意外でもないだろう。年頃のはずだ」


 怪訝な顔をするアポリアにリュクルスは重ねて言葉をかけた。ラケディアの女は母体の健康を考慮して17,8から子をなす場合が多いが、他の”堕落都市群”では14、5で子を孕むのも稀ではない。おそらく隷民たちも同様であろうと彼は推察する。


「それは叶いません。私は1人ですから」


 返答には遠慮がちな、だが明らかな当てこすりが含まれていることにリュクルスは気づいた。女は1人だ。つがうべき相手はいない。相手となるべき男達はラケディアの”僚友”達に鏖殺され、彼がその後始末をしたところなのだ。


「この先、緑壁に着くまでにいくつか村がある。そこまでは連れて行く」

「ありがとうございます。()()()()戦士様」


 明らかな皮肉に対して気分を害することはない。ラケディアの市民は為すべきことをなしたのだ。


「おまえは”定められた”物語に不服か?」

「はい。戦士様は勘違いされています」

「何を?」

「私はそれを恨みません。でも、嫌なことは嫌です。とても」

「そこになんの違いがある」


 頬に張り付く濡れ髪を、女は両手で大きくかきあげて後ろに流す。そして言った。


「嫌なことを私は受け入れます。イリスの民は。——”恨む”とは()()()()()()ということです」


 リュクルスの疑念は一層深まる。

 ——無知な隷民の娘にこのような問答が可能だろうか。

 部族の指導者の娘であり、かつ頭の回る(たち)であれば不可能ではないが、あの村の規模を考慮する限りそれは考えづらい。


「おまえは賢い。誰に学んだ?」

「”聖句”に」

「聖句? それは?」

「教えです。イリスの民は代々それを学びます。私も母から」


 部族に伝わる口伝の類い。光輝ある文明を築く前、ラケディアの民も先祖の記憶を親から子へ語り伝えた。今は偉大なる詩人オーリスの手により整理され書に纏められたが、その原初の姿は口伝である。

 部族の記憶を言い伝える者は神と繋がる。

 ゆえに…。


「アポリア、もう一度尋ねる。おまえは我らラケディアの市民が存じ上げぬ”名もなき御方”の巫女なのか?」


 17の少女は即座に答えた。一点の曇りもなく。一片の媚びもなく。


「いいえ。戦士様」





 ◆





「おい、あまり先に行くな」


 川で素早く身を清めた彼は供を連れて歩み出す。濡れたままの服も午後の日差しの元にいずれ乾くだろう。


 一行の先陣は羊が務めた。たっぷりと草を食み精気を充満させたその小さい生き物は、恐れも不安も持たない。ただ思うがままに歩む。

 しかし”隊列”の頭となるには少々経験不足だった。ともすると前進に夢中になって()()を置き去りにする。

 その度にリュクルスは声を掛けねばならなかった。


 男の声は確かに羊に届いている。理解はなされていないだろうが、とにかく何らかの合図であることは分かっている。

 羊はまだ細く短い尾を左右に振り、のろまな僚友を待つ。

 そして時折甲高く鳴く。


「あの子は戦士様の言葉を分かるのですか?」

「いや。ただの羊だ」

「まだ尾も切られていませんから…子羊ですね」

「尾を切る?」


 彼は羊の飼育法など知らない。それは隷民の仕事である。そして女はまさにその隷民であった。


「はい。切らないと尻尾の付け根から虫が湧き、病にかかることがあります」

「そうなのか。しかしあれは燔祭の羊だ。長くは生きない」


 ——おれと同様に。

 そう心内呟くも声に発することはない。必要のない言葉であり、かつ未練がましくも響く。ラケディアの市民として、彼の誇りはそれを許さない。


 彼の耳に女の笑い声が届く。


「笑うことがあるのか?」

「はい、戦士様。私たちも()()()()()()()()。でも健康であろうとします。なぜでしょう」

「我々と獣は違う。我々はそうあろうと意志するが、あれは何も考えない。尾を切られ健康を保っても、それは与えられたものに過ぎない」

「私たちは()とは違うのですか? 私たちも与えられています。そう在るように」


 会話はアポリアなりの復讐なのだとようやくリュクルスは得心がいった。

 ラケディアの市民を苛立たせるにこれほど効果的な方法はない。激発させればしめたもの。彼女は冷静と果断を誇る共同体の戦士の心にさざ波を起こしたことになる。つまり、隷民の小娘に誇りを踏みにじられたことに。

 我慢できずに戦士が彼女を斬ることがあれば、その時にこそ復讐は遂げられる。彼女の死は()()()()の純然たる私欲によって為されたものとなるからだ。ラケディアへの奉仕ではなく、私欲——私怨を晴らす快楽を貪ったがゆえの。


 ——素晴らしい女だ。この女は昨晩の一時、一瞬でおれの苛立ちの源泉を嗅ぎつけた。いい女だ。


 そう自身に言い聞かせることで青年は怒りを静めようと務めた。


()? あれは雄なのか」


 生殖器を確認すれば判別できることは理解していたが、彼はその必要すら感じてこなかった。あれはもうすぐ捧げられるのだから。マヌ神に。あるいは彼自身の胃に。


「ええ。雄です。鼻筋を見れば分かります。雄は雌に比べて少し幅広なんです」


 アポリアは羊の傍らに寄りしゃがみ込むと、いつものように胸元に額を押しつける「彼」の鼻筋を示した。


「なるほど。では()()()は勇敢なラケディアの男だ」


 まさに隷民らしい下らぬ知識を嬉々として披露する娘を、リュクルスは無感動に眺めた。


「戦士様はいつも”こいつ”とおっしゃいますね。この子には名前はないのですか?」

「ない。名など。それは動く肉、動く糸だ。我々は肉にも糸にも名など付けない」


 地に両膝を着き、羊の後頭部をなで続けるアポリアの手を彼は眺めた。努めて無感動を装って。その心内の苛立ちを抑えて。


 ——卑怯なリュクルス! 羊の如きリュクルス! 牽かれて往け!


「声」はいつものように青年の頭蓋を満たす。眼球の裏をそれは刺す。つまりはそれこそが苛立ちの種だ。


「戦士様。では、私が名付けても構いませんか?」

「好きにするといい」


 アポリアは黙考する。首をかしげる様はその容姿を一層幼く見せた。

 彼は大きく息を吐いて女の行動を待った。常ならばありえないこと。ラケディア、麗しの都の市民が隷民の戯れを許容するなどとは。


 沈黙を破りその名が放たれたとき、女の顔はあまりにも邪悪なものに見えた。青い瞳の奥に得体の知れぬ何かを隠している。

 あるいはあまりにも清らかなものに見えた。得体の知れぬそれは神慮とすら感じられる。

 邪悪と清純は女の中に両立する。


「”導き手(アルカン)”と。——私たちの前を行くこの子を、そう名付けます」


 沸騰する意識を抑えるにリュクルスは全身の力を必要とした。


 ——”執政官(アルカン)”? おれが得るはずだったもの! おれが果たすはずだった役割! 

 あふれ出す言葉の奔流を留める術はない。ゆえに「声」だけがそれを為す。


 ——哀れなリュクルス! ”導き手(アルカン)”に従え! 卑怯なリュクルス! 牽かれてゆけ!


「…いい名だ。それでいい」

「はい。戦士様。この子は私たちを導きます。——”導き手(アルカン)”は」


 女の言葉を受けてなお、リュクルスは誠に見事にラケディア市民の矜持を示した。


 腰の剣を抜かなかったのだから。

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「迷える子羊」たる人を「導き手」たる子羊が導くのか
暗君を愛せよの前日譚で出た「導き手」が羊なの笑ってしまうw
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