物語
女は夕暮れにやってきた。
その手に削り跡も露わな木椀をもって。
適当に選んだ”家”は快適とはいいがたいが、男には、つまりラケディアの頑強な市民にとっては気にならない。不快に慣れているからだ。
共同体は限生の者が達しうる限界を市民に教える。明白で強靱な精神はこの世の問題事すべてに耐えうると。
リュクルスはそれを体現してきたし、この先の短い生においてもその身を以て表し続けるだろう。
少年団でも”隊列”でも、罵倒と打擲は日常である。選別は過酷なものだ。
子ども達は籤で割り当てられた相手とどちらかが気を失うまで殴り合う。時にどちらかが死ぬまで。
リュクルスは相手を殺したことがない。それは恥ずべき事だった。共同体がそうせよと命ずる以上、それは意味のあることだった。にもかかわらず、彼は全力を出さなかった。卑怯な行いだ。
誇りある市民として、心身を鍛え上げていれば死ぬことなどない。死んだとすればそれは鍛錬が足りなかったからだ。にもかかわらず、彼は相手の努力を踏みにじった。それは僚友への敬意を失する行為だ。相手の努力が不足しているであろうと勝手に想像したのだから。
——卑怯なリュクルス。
今や彼の友とさえなったこの「声」はいつもそう呼びかける。彼は共同体に生かされながら心底の奉仕をしなかった。彼は共同体を信じず、自分の考えを持った。
汚らわしいことに。
女——運命の女神アポリアの名をかたる女は音も立てずに戸内に入ってくる。赤茶けた夕日が木板をくり抜いた小さな窓から細く這い入ってくる。
どちらも音を立てない。
手渡された椀を覗けば、白い粘性の粥がかすかな湯気を立てている。
「火を起こせるのか」
「はい。一通り習いました」
意外な答えだった。
種火を作るのは別段難しいことではないが、この少女にはその能力がないのだろうと彼は思い込んでいた。
「ではなぜ放っておく。なぜ燃やさない」
「分かりません」
答えは即座に返ってくる。
彼女は美しくないが、いい女ではある。即断は美徳だ。もしラケディアに生を受けていれば立派な市民に育っただろう。そしてよい戦士の母になっただろう。
彼は椀に口を付け、液状のそれを喉に流し込む。
肉の味がする。
そう錯覚した。
味は舌と鼻で生み出すものだ。舌は肉を感じないが、鼻は感じる。
注がれた女の視線は動かない。
——毒を入れたのか。
少し野を分け入れば毒草の類いは簡単に手に入るが即効性のあるものはごく稀だ。女はそれを知らないのかもしれない。
彼女は男を殺すことができる。
もはや報復を恐れる必要もない。自分の生を諦めるだけでいい。たったそれだけで、1人のラケディア市民を殺すことができる。
「何を入れたかは知らないが、すぐに回る毒は滅多にない。数刻後に来い」
舌は何も異常を感じなかった。無味の毒があるだろうか。鼻が利けば分かりやすいものの、この臭気のただ中ではそれも難しかった。
——もしそれを意図したのならば、この女は素晴らしい。
彼は心内密かな賞賛を送る。果敢であることは市民の美徳であり、女はその片鱗を示していると感じたからだ。
「毒など決して」
「では何を。何か望みがあるのか」
目を上げて女を眺める。夕日を背に受けて黒塗りになったその表情は逆光の元にあるリュクルスからは伺い知れない。普段であれば彼はこのような位置取りは決してしなかった。しかし今、それでよいとも思う。
問いを受けて女は言った。女神アポリアの名を受け継ぐ女は。
「燃やして下さい」
「何を」
「それを」
彼女の腕が部屋の隅を指さす。
そこには折り重なった肉の塊が二つある。それは腐臭をまき散らす。
先刻彼がそこに退かした死体が。
「おれが? なぜ」
「ラケディアの戦士様がなさったことです。ですから同じく戦士様が最後まで」
「何日経つ?」
「三日です」
「そうか」
リュクルスの”隊列”が”清めの仕事”に出たのと同じ頃合い。
恐らく他の”隊列”の者がそれを行った。誇らしいことである。ラケディアの安寧を支える偉大な行為を市民達は為した。
ただし、付け加えるならば、よりよい行為も為せたはずだ。
数人は生かしておくべきだった。全員殺してしまえば恐怖は伝わらない。共同体の威光を最大の恐れを以て語り継ぐ者達が居なくなってしまう。
この痩せこけた女1人では意味がない。
「おまえは恐れないのか」
「はい」
——このような女をこそ殺しておくべきだった。”隊列”の友は。
「なぜ」
「そう定められていたからです」
それは紛れもなく不意打ちだった。
女は言葉で彼を殺めようとしている。彼は即座に剣をたぐり寄せた。
——声に従え! 石の如きリュクルス! 声に従え!
——声に! 声! おれはこの忌々しい声によって全てを失った! それは定められていたのか? おれは尽くした。精一杯、全てを捧げた。ラケディア、麗しの! 全てを。
そして今おれは何もかも失って、隷民の村の小屋の中で味のしない粥を啜っている。
彼は”大隊列”を指揮するはずだった。
エイレーネと交わるはずだった。
執政官としてラケディアをより善く導くはずだった。
誰もが彼の名を憧れを込めて呼ぶ。そうあるはずだった。石の如きリュクルス。英雄テセウスの子。そしておれの子は名乗るはずだった。英雄リュクルスの子、と!
「誰が定めた!」
立ち上がり剣を抜く。
これまでの短い生の中で一度たりとも抱いたことのない感情に、今男は支配されつつある。
殺意という。
「ラケディアの戦士様。それは分かりません」
「誰が定めたか分からない? ならばなぜそう言える。”定められていた”など!」
もはや剣すらもどかしい。ラケディアの精強な戦士はこの痩せ細った娘を素手で折ることができる。その細首を。小枝のごとく。
——卑怯なリュクルス! ラケディアはおまえの不忠を見抜く! 私欲の者! 恥ずべき者!
声を振り切りアポリアの首に手を伸ばす。触れる寸前、彼女は言った。
「——そう信じるからです」
◆
10を越える小屋に火をかけるのは案外骨が折れる。夏の湿気は火勢を鈍らせる。ときには枝を集め、種火を作り、辛抱強く燃え移るのを待つ。
女はかいがいしく動いた。枝を拾い集めたのは彼女だ。
そして全ての建物が順調に燃え上がる。肉の焼ける匂いはおれの腹を刺激する。食欲を。
女は地面に座り込んでいた。
脇には羊を従えて。
リュクルスが選んだ子羊は、人ならば誰にでも懐く。女の背に、あるいは剥き出しの腿に、性懲りもなく頭突きを喰らわせている。
「アポリア」
「はい」
即答は心地いい。
「おまえの親はどこに?」
「戦士様がいらしたところ」
「そうか」
彼が部屋の隅に退かした塊が、この女を産んだ。
「おまえはどうする。まだ火も盛りだ」
槍先で燃え上がる小屋を指す。恐らくは、この娘が数日前まで一家で住んだあたりを。
「分かりません」
「自分でやるのが難しければ、おれがやってもいい」
「お決め下さい。戦士様」
アポリアの手は依然羊をなで続ける。
節操なく愛想を振りまく畜生はすっかり女に籠絡されてしまった。足を折りたたみ、女の膝に頭を預けて。
——薄情なやつだ。
ここでおれがすべきことは何か。
ラケディアのために為せる奉仕は何か。
リュクルスは自問する。
果断であるべきだ。
目的が定まっているならば、為すべきことは明白であるはず。青年はラケディア、麗しの都の市民だ。共同体の安寧のためにこそ、その生はある。
たとえ棄てられたとて。
剣の刃はそれほど鋭利ではない。だが、この娘ほどの肉塊であれば青年の膂力は難なく切り分けるだろう。
女はここで死ぬ。彼が手を下しても下さずとも、いずれ。女1人焼け野で生き延びることは不可能だからだ。
剣の柄に両手をかけて身体を限界までねじり上げる。
反発する腹と背の筋肉は、女の頭を綺麗に吹き飛ばしてくれるだろう。
彼女は苦しまない。
——石の如きリュクルス! 価値なき者! 卑怯なリュクルス! 頭を垂れよ!
「声」はもはや友である。
価値なく、卑怯で、自己愛に満ちていたリュクルス。だが棄てられたとてラケディアに尽くさなければならない。全てを捧げなければならない。
——リュクルス! 膝を屈せよ! 地に這えよ! 頭を垂れよ!
不意に女が振り返り彼を視た。見上げた。青い目で。
火が起こした風に揺れてくすんだ金髪が浮き上がる。首が見えた。枯れ枝のような。
——頭を垂れよ!! リュクルス! 宿を乞え! おまえの宿を!
それは雷だった。声ではない。リュクルスの脳髄をそれは刺しつくした。それは頭の中を容赦なく抉り、瞬間意識を刈り取った。
「——戦士様?」
「…なんだ」
「では、そう定められていたのです。——”物語”に」
剣を取り落とし地に膝を屈する男に、女——アポリアは語りかけた。隷民の矮小な娘が猛きラケディアの市民に。
女神のように。
◆
「おまえは巫女か?」
隷民の娘に神が下るなどありえないことだ。だが、もし仮にこの女が神々いずれかの巫女だとすれば、手を下した者は永遠に呪われる。
猛き戦の神マヌ、詩と運命の女神アポリア、雷と理の神ユリス、美と呪詛の女神エル。天上に住まう神々の意を受け、限生の者を導く巫女は誇り高き自由民の娘であるはずだ。リュクルスは常識に従いそう考えたが確信には到らない。
神の思惑は図りがたいものだからだ。
「いいえ、戦士様」
「では誰に聞いた。——”物語”などと。おれは天上の武勇名高きマヌ神の名にかけて、おまえの言葉を知らない。女神アポリアは糸を紡がれる方だ。アポリアは糸紡ぎ未来を創造される。予め拵えられた物語などない」
「母から学びました。——私たちイリスの民はそれを代々受け継ぎます」
「おまえたちの群れはイリスと?」
「はい。遙か昔、北からこの地に流れ着いた民です」
女の確固たる口ぶりに嘘はない。それは明らかに言い伝えられたことだろう。
3日、腐りゆく死体の中で1人佇みながらこの女は正気を保った。あるいは既に狂った後なのか。
——もし気が確かならばこの女は素晴らしい。ラケディアに生まれれば”隊列”の皆が胎を望んだであろうほどに逞しい。
「私たちの生は全て、あらかじめ一篇の”物語”に描かれていると。だから私たちは、もう定まっています」
「ではおれが今、剣を再び握り、ラケディアに害為すおまえを斬っても?」
「はい。ならば、そう定められていたのだと思います」
麗しの都ラケディアはこの惰弱な民を足下に組み敷いてペルピネを支配した。猛きマヌ神の子アルトクレスはいとも簡単にイリスなる隷民どもを蹴散らしただろう。それは当然だ。全てを”定まった”と済ますのは臆病者の方便に過ぎないからだ。
——いや! それは涜神か。
リュクルスは即座に思い直す。神々の思惑は人知を超える。
まずは尋ねるべきだ。イリスの神の名を。その方と猛きマヌ神の関わりを知らなければ、おれの思考はマヌ神の名誉を汚しかねない。
「それで、御名は? ”物語”を描かれたという、その方の御名は?」
アポリアが浮かべた笑みは捉えがたく、リュクルスの背筋を引き締めた。
「御名は持たれません」
「おまえは気狂いか。御名なき神などありようがない。隷民の戯言だ」
「いいえ。むしろ気が狂わぬようにと、”あの方”は哀れな者たちに——私たちに”物語”の存在を教えて下さいました」
「おまえたち隷民どもはその邪説ゆえに今こうして我らに奉仕している。おまえの神とやらはおまえを助けたか? そこで焼き上げられる者達を!」
彼は剣先を炎の方へ向け叫ぶ。大声を上げねば正気を失てない。
隷民の死に損ないが吐いた戯れ言にラケディアの戦士がいきり立つ。これは馬鹿げたことだと理解しながら、驚くほどに心は揺れていた。
「”物語”は私を救って下さいました」
「どう救われた? 見ろ! 共同体の栄えある戦士達はおまえ達怯懦の民を1人残らず殺したぞ!」
「ラケディアの戦士様。私たちイリスの民は常に小突かれ、支配され、殺されます。でも、それを耐えます。そして心の中に憎みはありません」
「おれにもか? 今からおまえを殺すこのラケディアの戦士にも、おまえは恨みを抱かないか? 死の瞬間まで」
リュクルスの忍耐は限界に達した。
——この女はラケディアを侮辱した。共同体市民が為してきた不断の鍛錬を。
違う! 違う! そうではない。この女は侮辱した。おれの献身を!
全てが定められていたというのならば、おれのこの有様は一体なんだ!
——リュクルス! 膝を屈せよ! 地に這えよ! 頭を垂れよ!
地に刺し立てた槍を荒々しく抜く。突けば済む。ラケディアの市民は義務を果たす。
女の身体を外すことはない。腰を屈め、穂先を突き立てるのみ。
じっと狙いを定めて。
——響く声に従えよ。
石を金に変えよ。
汝、定められた者よ。
刹那、彼の瞳はそれを捉えた。
女の顫動を。粗い息を。きつく結ばれた口元を。盛大に燃えさかる炎の橙に照らされて血のように赤らんだ横顔を。
女は明らかに恐れている。恐れている!
死を!
「恐ろしいか。おまえの神はどうした。”物語”は? おれはおまえを串刺す。おまえは”物語”とやらに縋り受け入れるか! それとも恐れるか?」
——醜悪なことをしている。おれは誇りある共同体の市民だ。殺しは奉仕だ。それを楽しみはしない。しないはずだ!
「怖いです!」
「ならば…」
閉じられたはずの両の瞼が見開かれる。アポリアの双眸は確かにリュクルスを射貫いた。
決然と。
「——それでも、いただいた”物語”を、私は受け入れます!」
◆
アポリア。
その名は女神のものではない。
流浪の民イリスの言葉はその意は以下の通りである。
解をもちえぬ謎、と。
故地を追われ彷徨い、小突かれ、支配され、戯れに殺される哀れな民のか細い祈り、あるいは慰めの願いは、ここに一つの転機を得た。
死すべき矮小な隷民の娘は、光輝あるラケディアの戦士と出会った。
それは在るべきように在った。