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ラケディア、麗しの  作者: 本条謙太郞
第2章 リュクルスのケイデーへの旅
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アポリア

 男が為さねばならぬことは単純だ。

 街道沿いに南に下り、一つか二つ隷民の村を経由して、緑壁へ進む。”魔物”共をかわしながらケイデーの山麓にたどり着く。そして登る。

 これほどに明快なことはない。


 明快であるとは美しいということだ。

 師父カミノスは共寝の寝台で彼にそう教えた。この世には明白なことわりがあり、それに従い生きるならば迷いは現れない。

 マヌ神の加護の元ラケディアの法は生まれた。法は教える。血の一滴、涙の一滴すらもラケディアを輝かせるために存在する。市民は共同体を構成しながら、それに服従する。異論も差異も衝突もそこにはない。

 そう在るべきものがそう在るだけだ。


「声」は導く。何も不安はない。

 思えばなぜ抵抗したのか。それはきっと自己愛ゆえだろう。ラケディアを愛し奉仕を望んだがそれは素振りに過ぎなかった。偉大なるラケディアと始終唱えながら、背後に市民としてあるまじきもの、「自己」を隠し持っていた。彼はそう考えた。


 卑劣な男。唾棄すべき怯懦のリュクルス。

 それは恥ずべきことだ。()()()()()()()()()()とは。彼は心内に自己愛という最低の悪徳を潜ませていた。

 それは罪だ。


 道ばたで草を食む子羊は何も考えない。丸く短い足をせわしなく動かし、胴と見分けの付かぬ太い首を曲げ、名も知れぬ葉を、茎を貪る。

 そこに思考はない。

 羊よりもなお劣っていると彼は自省する。

 ラケディアはあえて()()を牽かせることで、男の思い上がりを矯正したのだ。


 腹を満たした羊が男の元に戻ってくる。独行であれば一日で済む最初の村への行程も、羊が悉く足を引っ張るがゆえに進まない。それは食わねばならず、食うためには長い時間がかかる。

 不思議なことに羊はリュクルスから離れて行かない。縄を付けずとも逃げない。ときに男の前を行き、ときに後ろを付いてくる。

 それは滑稽なことだった。

 リュクルスと添い遂げた先、羊を待ち受けるのは死だ。恐らく緑壁の中での。彼は”魔物”にいたぶり殺され、羊は食われるだろう。あるいは彼が——空腹に耐えかねたリュクルスが食うかもしれない。要するに子羊は食われるために存在する。


 男が草原に腰を下ろしあぐらを組んだとき、四つ足の羊は正対する。

 がらんどうの瞳が彼を覗く。

 羊は時に男の胸に額を押し込み、時に男の腕を舐める。彼は戯れに、茶色く薄汚れ硬くなった毛並みを梳く。羊はか細く鳴く。

 その声は”魔物”の幼体が死に際に放つそれに似ていた。


「もういいか?」


 それは滑稽なことだ。

 リュクルスは持ち前の生真面目を捨てきれず、畜生にさえ声をかける。かつてパレイオスやエイレーネにかけたように。

 3日前、彼はラケディアの栄えある戦士だった。

 そして今彼は羊と草むらにいる。


 両者の境遇は何一つ変わらない。

 羊は”魔物”か男に食われる()()()いる。もし仮にケイデーの山頂に辿り着くことがあれば、マヌ神に食われる()()()

 男は死ぬ()()()いる。ラケディア、麗しの都から取り除かれた汚濁として、この世から消えなければならない。消えればこの忌まわしいもの——自己愛——も消えるだろう。

 1人と1匹はともに子を残さない。雌雄も分からぬ羊は食われ、男は野垂れ死ぬ。永遠の無がやってくる。


「では行こう」


 リュクルスは不思議なことをした。より正確には不要なことを。

 羊の頭部、掌を大きく伸ばせば全て覆い尽くすことさえできそうな矮小な頭を二度、撫でたのだ。


「声」は導く。

 ——山へ往け。山へ往け。





 ◆





 ラケディアから南下し緑壁へ続く街道を進むとゼノジアの街がある。

 隷民どもの住まうそれは明らかに「街」といってもよい規模だ。耐えがたい猥雑と人の群に満ちたところ。

 2年ほど前、仕事のために滞在した3日間は今でも忘れられない経験として青年の中に跡を残していた。


 仕事にはリュクルスを含む”隊列”の数人が選抜された。パレイオスもいた。

 彼らは隷民どもに仮装して街に紛れ込み、街で最も羽振り良さそうに()()()2人の男を殺した。

 理由はない。

 隷民どもがどれほど豊かになろうとも、羽の布団に寝そべり澄んだ葡萄酒に酔おうとも、ラケディアの偉大なる共同体はいつでも、咎の有無にかかわらず、断固としてその存在を消すことができる。それを知らしめることこそが統治である。

 深夜、立派そうに()()()石造りの屋敷に忍び込み、1人の喉を掻き切った。

 衆人環視、広場で背後から2人目の心臓を突いた。その場に居合わせた隷民たちはざっと見積もって数百。にもかかわらず、わずか5人のラケディア市民に抵抗する素振りを見せなかった。それどころか殺人者の帰路を空けさえした。ラケディアの戦士は精強であり、徒手空拳の隷民たちを制圧するのはたやすい。だが、数が10倍にも20倍にもなれば話は変わる。だが、隷民の群れはまさに羊のように従順だった。

 彼らは理解していたからだ。戦士たちを殺せばラケディアの”共同体”はゼノジアを文字通り更地にするだろう。断固として。

 これこそがラケディアの統治だった。ラケディア、麗しの都は市民の献身によってこそ保たれる。


 今回の旅において、リュクルスはそのような「仕事」を課せられていない。ゆえに近寄る必要もない。彼はゼノジアを遠くに取り巻く小さな集落に向かう。


 大道を脇に逸れ、人の足が野原を踏みしめた痕跡を辿っていく。

 旅は単調なものだ。

 朝歩き、昼には兜を脱いで休止、羊の食事を眺め、午後に再び歩き出す。

 ラケディアの戦士は道ばたに眠り酷暑を耐えることを厭わない。睡眠すら省く。戦士にとってそれは日常だった。10の年から変わらず、一つの目的を遂行するために身体を慣らしてきたのだ。


 呼吸の最中さなかに飛び込んでくる羽虫をかみつぶすこと10を越えたところ、リュクルスと羊の鈍行はついに「村」を探り当てた。

 隷民の住処はどこも代わり映えしない。

 粗末な柵の中に木造の小さな小屋が点在する。豚と羊と人が住人だ。


「声」は彼を的確に導いた。


 ——宿を乞え、卑劣なリュクルス! 自己愛のリュクルス! 汝よりも気高き全ての者に!





 ◆





「ご用を。ラケディアの偉大なる戦士様」


 入口と断言するのも難しい粗末な木の門をくぐり、振り返って羊の姿を確認していた男の背に言葉が投げかけられた。

 それは3日ぶりの、他者が発する意味ある音だった。


 長槍の届く距離からほんの少し外れたところに1人の女が立っていた。()()()()女だ。声色と肩幅だけが彼に女を感じさせた。

 つまり、それ以外のしるしは見えない。

 棒のような手足が生の麻服から覗く。

 エイレーネが持つ肉の充満はない。背はリュクルスの胸元に達するかどうか。仮に女であるとして、彼の目の前に佇む隷民はエイレーネよりもむしろ”魔物”の幼生体に似ている。

 だが、”まともな言葉”を話す以上”魔物”ではない。


「宿を。そして食い物と酒を」


 緑壁への「仕事」で”村”に立ち寄る折りの決まり文句が咄嗟に彼の口を衝いて出た。

 そしてあることに気づく。


 ——おれは会話をしている!


 それはほとんどありえないことだ。隷民がラケディアの戦士に声をかけるなど。

 それは死の危険をはらむ行為だ。市民にとって村を誅戮するに理由など必要ないが、気分が乗らないこともある。ゆえに隷民たちは目を伏せ、身体を丸め、偉大なる戦士の気に障ることがないように動く。戦士達が乗り気にならぬように。

 だがこの女は彼に声をかけた。明白に、堂々と。

 猛き共同体の戦士に。


「ご自由に。どこへでも。後でお酒とお食事をお持ちします」


 女の青い双眸に媚びはなかった。

 隷民特有の、縋るような、まさに命惜しさの下劣な擬態をこの娘は持っていない。それは心地よくすらある。リュクルスは率直にそう感じる。

 この女は隷民の中では極めてましな部類である。だが、惜しむらくは子をなせないことだろう。痩せ過ぎている。布地に隠れていても腰の細さが分かる。恐らく産みの苦しみの中で死ぬ。

 しかしそれはラケディアにとって喜ばしいことだった。気骨ある隷民は麗しのラケディアに弓引く可能性がある。この女が子を為せばその気質は受け継がれるだろう。そしていつか麗しの都を危うくする。ゆえに彼は女の貧相に安堵した。


 ——おれはこの女を、今ここで殺さなくていい。


「どこへでも?」

「はい。すべて」


 視界に一望するだけでも10以上の家屋がある。


「ラケディアの市民はおまえたち(隷民ども)と共寝などしない。理解するか。共同体への侮辱は死を招くぞ」


 愉快ですらあった。

 その態度は明らかに滑稽だ。ラケディアの戦士には相応しくない言葉である。警告など必要ないのだから。

 無礼と感じたのならば何も言わず斬ればよい。

 にもかかわらず、彼は言葉を発している。


 ——宿を乞え! 汝よりも気高き者に!


「声」は常に轟く。後頭部からそれは響く。ときにそれは師父カミノスの威厳あふれる低声で、ときにエイレーネの香油の如き女声で、ときにパレイオスの豪放な男声で。


 女は笑った。唇の端が耳まで届くかのような、それは不気味な笑みだった。

 頭頂で別れ頬まで隠す金の髪が微かに揺れた。金の髪に青目。まさに隷民の典型的な容姿。

 美しくはない。美しい女とは健康な女であり、よい子を産む女である。

 今、男の槍を恐れもせずに一歩一歩距離を詰める痩せこけた女は、よって美しくない。


 ——声に従え! 服従しろ! 強情なリュクルス!


 槍を使う距離は既に超えた。彼の右手は意識を越えて剣の柄を握りしめる。

 相手が隷民であれ女であれ魔物であれ、油断は死を招く。人を殺すためには大層な仕掛けは必要ない。中指の先から手首ほどの刃渡りがあればいい。そしてそれを差し込むに適切な場所を見抜く目があればいい。

 ——この女にそれがないとなぜ分かる?

 猛きラケディアの市民に、あえて近寄ろうとするこの女に。


 リュクルスは不意に、右の脛に固い感触を得た。

 彼は確かめなければならなかった。

 瞬きの半分にも満たぬ瞬間、視線を飛ばすと果たして羊だ。この矮小で脆弱な生き物は暇になるとすぐに男を突く。驚くほどに小さな額で押す。そして鳴く。甲高い、木枝が風でこすれて上げる軋みのごとき音色で。そしてすぐに舐める。


 ——リュクルス! 身を屈めよ! 傲慢なリュクルス! 死すべき者! 頭を垂れよ!


 彼は正気の終わりを自覚した。気狂いのちっぽけな隷民女を前に剣を握りしめながら、足を忌々しい畜生に舐められている。

 極めつけは「声」だ。

 幻聴ではない。それははっきりと彼の耳に届く。


「共寝の必要はありません。ラケディアの戦士様。あなた様の見渡す限り、全て()()()ですので」


 目の前に、腕が届くところに女がいた。

 饐えた匂いが鼻を突く。エイレーネの肌が暖めた香油の清浄はない。獣の匂い。


 リュクルスを見上げる女の瞳は驚くほどに大きい。

 虹彩の筋の一本すら見える。青と緑と黒が交互に混じり合っている。そして頭髪と同じく金の睫毛が、日の光を受けて放射状の輝きを添えていた。まるで神秘の玉石を守る覆いのように。


 テセウスの子リュクルス。テルパエの大地に不朽の名を刻む英雄テセウスの子、ラケディア、麗しの都の忠実な市民。そのリュクルスが今、剣も抜けずに立ちすくんでいる。

 手慰みに首を折ることさえできそうな、痩せこけた隷民女の前で。


 ——リュクルス! 頭を垂れよ! 傲慢な者!


「名はあるか?」


 隷民の名にどれほどの価値があろうか。偉大な都市の糧、踏みにじられる者たち、食われる者達の名に。

 理解してなお、果たして持つかどうかも怪しい女の名を、彼は知りたがっている。

 いや、「声」がそう命じる。


 すすと垢にまみれた皮膚と対称的に、女の口は白い歯列と赤い舌を秘めていた。

 ラケディア、麗しの都市が誇る威容のごとく。


 そして言葉が発せられた。


「アポリアと申します。戦士様」

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