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ラケディア、麗しの  作者: 本条謙太郞
第1章 ラケディア
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追放

 リュクルスに与えられた光輝ある役目はその日のうちに周知された。彼の”隊列”はラケディアの数あるそれの中でも選りすぐりの精鋭——模範的な市民の集団である。僚友が燔祭の遣いとして選ばれたことを喜ばぬ者は一人としていなかった。

 よってその日の共同食事は華やかなものとなった。具体的に述べるならば、豚を一頭潰し食卓に供したのだ。それは確かに暖かい心遣いであった。


 送られる立場として、リュクルスは普段ありえないほどに笑顔と呼べる程度の表情を張り付かせた。彼の席には代わる代わる戦友が立ち寄り、酢の匂いがきつい酒の注がれた杯を合わせていく。心からの祝福の言葉とともに。


「なんと誇らしい! テセウスの子! マヌ神にお会いしたら、そのお姿を爪の先まで覚えておけ。そして我らに教えてくれ!」


 酔いが顔に出るパレイオスは赤く染まった頬をゆるめ、リュクルスの肩に腕を回すと相変わらずの大音声で告げた。


「そうしよう。さぞや立派なお姿だろう」


 リュクルスの返答に陰りはなかった。


「エイレーネにはもう会ったか? しばしの別れだ。しっかり顔を見せておくんだぞ」


 共同食事に参加できるのは男衆のみ。普段隊列に混じるものの、平時、女は女の世界がある。


「いや、その必要はない。きみが伝えてくれ」


 リュクルスが出立したのち、エイレーネはパレイオスと”初のちぎり”を為す。そうと決まったわけではなかったが、それは誰の目にも明らかな未来であった。


「そうか。それならばこのパレイオスが告げよう。おまえが帰参するころには、エイレーネの胎も空いているだろう」

「素晴らしいことだが、その必要もない。きみとエイレーネの子がいればいい。その子はきっと、麗しのラケディアを支える立派な市民になる」


 肩に置かれた友の腕がもたらす微かな震えをリュクルスは感じた。あるいは逆に、彼の肩が震えていたのかもしれない。しかし震源がどちらであれ、それは些細なことであった。


「子に伝えてほしい。きみの友は誇るに足る、立派なラケディア市民だったと」

「引き受けた! テセウスの子よ。ただし、おまえが自らの口でそれを伝えることを望むがね」


 酒は精神を緩やかに麻痺させる。もはや一時も止むことがない「声」が、この時一瞬静まった。ゆえに青年は、明らかに口にすべきではない一言を発した。


「それは侮辱だ。パレイオス。おれがマヌ神に見初められないとでもいいたいのか? ラケディアの勇敢な戦士は必ずマヌ神の意に適う。必ず!」

「…そのような意味ではない」


 剣幕と呼んで差し支えないほどの語気を受けてパレイオスは口ごもる。


「おれは()()()()市民だ。ラケディア、麗しの都を背負うに恥じない戦士としてマヌ神の御許に向かう。おれを()()したのはきみだ。きみとエイレーネだ。ならば最後まで貫くべきだ」


 リュクルスの言葉は明らかに一線を越えた。”隊列”の皆が押し黙る。

 この場において、真実を理解しない者は存在しない。つまるところリュクルスはどこかしら「傷物」であり、ゆえにラケディアから放たれる。燔祭の遣いは追放である。そして、リュクルスの「傷」を見出し元老会に告げたのはパレイオスであり、エイレーネだった。

 だが、ラケディアにおいてそれらは全て誇るべき行為であった。都市を清浄に保つ義務を二人は果たした。「傷」を持つ彼は()()都市を去る。去ってマヌ神の御許に赴く。つまり野垂れ死ぬ。

 これほどに偉大な献身はない。


「では貫こう、リュクルス! おまえは御許に召される。決して帰らない。おれはエイレーネとつがい、子を為し、誇るべき友の思い出を語ろう!」

「ガノスの子パレイオス——それでいい。感謝する」


 恥ずべき恨み言を語り出そうとする自身の口を止めた友に対して、リュクルスは感謝の念を覚えた。パレイオスは真の友だ。彼とエイレーネは自身の「傷」を見抜き、卑劣な保身への欲を窘め、都市への貢献——最後の——を促して()()()

 清めの仕事では背中を預け帝国との戦では肩を並べた。刃も通らぬほどに干からびたちっぽけな干し肉を割って共有した。彼らは真の友だ。


「では皆、おれは失礼する。明日は早くからマヌ神の御心に叶う羊を選ばなくては」


 翌朝リュクルスは旅立つ。

 都市南端の家畜小屋で羊を一匹引き出し、そのまま大門を出る。

 栄えある燔祭の遣いとして。





 ◆





 ”隊列”宿舎の戸口、松明の揺らぎの元に女の姿を見つけたとき、リュクルスの頭を麻痺させた素晴らしい薬——酒——の魔力は消えかけていた。

 濃い陰影が女の蠱惑的な曲線を浮かび上がらせる。

 エイレーネ。


「待ち人か? パレイオスならばまだ宴の最中だ」


 出会えば無視することもできない。彼女もまた、否、彼女こそが彼の()()であったのだから。その果断こそがリュクルスに道を誤らせなかった。麗しのラケディアを欺くという最大の害悪を彼女は防いだ。


「——恨んでいる?」

「いや、きみは正しいことをした」


 勝ち気な性格を雄弁に伝えるつり上がった大きな瞳は、今やうなだれた子猫のように細められている。


 ——唾棄すべきリュクルス! 卑怯なリュクルス! おまえはその女と決して交わらない! 哀れなリュクルス!


 「声」は膨れ上がる情欲を極めて効果的に鎮める。自身をまさに破滅に導いたその声色が、今の彼にはかえってありがたかった。


「わたしは…」

「もしこのままおれと交わり子をなせば、その子は長じてラケディアに仇なす卑劣漢に育ったかもしれない。おれはきみがそんな劣等者の母となることに耐えられない」


 燔祭の遣いを命じられた後、午後にリュクルスは母の住まいを訪ねていた。

 父テセウスの戦死以来一人住まい彼やその他の子ども達の成長を誇らしく見守ってきた母に、最後一目会おうと考えたのだ。

 応対に出た隷民の召使に面会の要求を告げると、女は小走りに屋内に消えた。そして間を置かず戻ってきた。


「奥様はお会いになりません」


 息子の処遇について昨晩のうちに師父に聞いていたのだろう。あるいは早朝の面会の後、師父が使いを出して知らせたのかもしれない。いずれにせよ彼は拒絶された。

 その”真の”目的からして、燔祭の遣いを20歳の若者が任されることはありえない。なかでも極めて優秀な、将来の執政官(アルカン)候補とまで目される若者に。ゆえにもしそれが起こるとすれば、若者に何らかの重大な問題があったということになる。男女問わず市民であればその「何か」が追放、つまり死に値する程度のものであることはすぐに分かる。おそらくは不名誉なものであろうことが。

 リュクルスは状況を即座に理解した。そして静かに来た道をとって返した。今後母に降りかかるであろう汚名が軽いものであるように。そう祈りながら。


「本当は…今でも信じられない…。ねぇリュクルス。石の如きリュクルス。石のごとく冷静になって。もしかしたら、あなたは陽の熱で頭が茹で上がっていただけなのかも…」

「あの晩きみに話した通りだ。茹で上がりも3月続けばそれは気狂いだ。もう一度言う。きみは市民として立派な振る舞いをした」


 俊敏に、ほとんど小走りで寄った女はリュクルスの剥き出しになった腕を掴むと自身の胸に強く押し当てた。


「違う。違う! パレイオスの言うようにあなたはわたしの身体に惑った。そうでしょう? あなたはわたしの身体を貪って胎ませたい。だから…」


 情欲は生まれなかった。最初困惑があった。なぜこの女は必死に否定するのか。自分の行いを。彼の瑕瑾を報告するという極めて正しい行為を。

 掌に女の激しい鼓動を感じながら、リュクルスはついに正解らしきものにたどり着く。


 ——赦しがほしいのか。


「エイレーネ。重ねて言う。おれはきみを恨んでいない。きみがすることは、おれに乳房を与えることじゃない。パレイオスや他の立派な市民たちと健康な子をなせ。そして子らに伝えてくれ。かつてリュクルスという市民がいたことを。ラケディア、この麗しの都に相応しい男がいたことを」


 軽く力を入れて腕を振りほどき、彼は宿舎の戸をくぐった。女の声が背にあたるのを感じたが、もはやそれどころではなかった。


 ——唾棄すべきリュクルス! 父の名を汚す者! 声に従え!


 時に「声」は彼の理性を侵食する。女の優美な頬も微かに漂う香油の匂いも霞がかって遠のいていく。

 よって彼の言葉は本心からのものだった。

 自分の状態はよく分かっていた。


 じきに正気を失うだろう、その様を。





 ◆





 夜明けとともに男は歩み出した。

 麻の貫頭衣に袖を付けただけの簡素な平服。至る所に散った黒い染みは、彼が今日に到るまで戦いにおいて勇気を示した証である。つまり人であれ”魔物”であれ、屠った敵の返り血だ。

 皮の胸甲をあて脇で紐を結ぶ。頬と鼻梁までも保護する鉄の兜に頭を押し込む。鉄で縁取った木製の円盾を背負う。左腰に剣を吊るす。そして右手に槍を握りしめる。

 ラケディア市民の戦装束である。


 革袋は二つ。干し肉と水。それを腰の右に括り付けた。


 男の偉丈夫が薄明の中に浮かび上がる。

 馴染んだ皮編みの履き物で剥き出しの土を踏みしめながら、彼は目的地に歩いた。


 大門にほど近いところに設えられた家畜小屋は獣特有の鼻を刺す臭気に満ちている。出立前に全身に塗り込めた香油の香りを、それはいとも簡単に吹き飛ばしてしまう。


 完全武装のラケディア兵にとって家畜小屋は似つかわしい場所とは言えない。

 農耕も牧畜も、およそ生産に関わる全てのこと——これら”卑しい仕事”は隷民が行うべきことだ。ラケディアの戦士にとって仕事とは”戦闘”を指す。

 市民の例に漏れず、彼もまた家畜の扱いなど初めてのことだった。

 糞尿の耐えがたい臭気に辟易しながらも、彼は目的のものを探して視線を滑らせる。


 羊が5匹いる。

 彼の腰にまで迫る大ぶりなものから、膝に達するかどうかの小ぶりなものまで。

 特に拘りもない。

 門を出て数刻も歩いたあたりで解き放ってしまうだろう。あるいは制御できずに逃げられてしまう。ゆえに最も無駄のない選択を彼は考えた。


 輪郭も露わとなった自身の死を目前にしながら、リュクルスは努めて思考を進めた。

 無駄がないとはつまり、ラケディアに損失とならないもの——貢献が望めないものである。物事はごく単純であった。自身の同じものを選べばよい。

 よって最も死に近い個体か、あるいは食肉にも毛刈りにも時間を要する最も幼い個体か。

 寿命が十分残る成熟した個体はよろしくない。子を孕ませることもできるし毛を刈り取ることもできる。それはまだ都市への貢献が可能な個体である。パレイオスやエイレーネ、あるいは”隊列”の僚友のように。


 人や”魔物”の屠り方を知悉したリュクルスも老いた羊と成年の羊を見分ける方法は生憎習得していない。よって一目で分かる存在に目を付けた。

 最も矮小な一匹を選んだのだ。


「途中まで供を頼む」


 リュクルスは子羊の腹に左腕を入れると軽々と抱き上げ、そう声をかけた。

 雌雄すら分からぬ子羊は意外にも従順に抱き上げられた。鳴き声すら上げない。左右大きく離れた瞳に自分がどのように映っているのか、男には想像もつかなかった。

 薄汚れた、しかし柔らかい体毛を剥き出しの肌に感じる。そして獣臭を鼻に。


 かくして準備は整った。

 滑稽にも、あるいは神々しくも映る立ち姿である。

 右手に長槍、左手に子羊。鈍く銀色に光る兜。背には円盾。


 日の出と共に開かれた大門を男は1人くぐった。

 出立を見送る者はいなかった。





 ◆





 大門から100の歩み、さらにそれを10回繰り返したほどの歩みを経て、リュクルスは不意に立ち止まり後ろを振り返る。


 石造りの城壁に囲まれた白亜の都市はかくして男を吐き出した。異物を、である。


「ラケディア、麗しの」


 口に出したはずの言葉は体内を飛び出すほどの活力を持たなかった。それは頬の中で泡と消えた。


 代わりに「声」が高らかに告げた。


 ——今日を限り、ラケディアはおまえを追放する! その身に染みた災いの種ゆえに! 呪いのゆえに!


 ——今日を限り、おまえは追放された! テセウスの子リュクルス! 石を(かね)に変える者! 山へ往け! 山へ往け!


 向き直り歩き出す彼に声を掛ける者は一人としてなかった。

 ただ「声」を除いて。


 名もなき子羊が戯れに男の上腕を舐めた。


 彼は独りである。一匹の子羊を除いて。


 やがて海辺の白砂の数ほどの民を導き、その名を永久(とわ)に残すことになる男は、このとき確かに独りであった。

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新連載始まった!応援してます! しかも半人の乱、暗君を愛せよと同一世界でおそらくは古代スパルタ相当の時代、地域とは。大好物です。 当所人物、世界観にあっという間に引き込まれました。 半人の乱のユニウ…
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